歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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第11回「土佐沸騰」

ドラマ進行時点:万延元年(1860)~文久元年(1861)9月頃

安政5年(1858)から桜田門外の変があった万延元年まで飛びました。
たしかに安政6年の龍馬の動きはよくわからなくて、土佐藩の西洋砲術家、徳弘孝蔵に入門しているくらいでしょうか。

井伊大老が水戸浪士らに暗殺された桜田門外の変について、龍馬がどのような感慨を抱いたかですが、『維新土佐勤王史』には、次のように書かれています。

「諸君何ぞ徒らに慷慨するや、是れ臣子の分を尽くせるのみ、我輩他日事に当る亦(また)此の如きを期さんと」

龍馬は水戸浪士の行動を「臣子の分を尽くした」ととらえています。これは孝明天皇から戊午の密勅が水戸藩に下されたのに対して、井伊を首班とする幕閣がその返納を命じたことを理不尽だというわけです。天皇に対して水戸藩が朝臣だという後期水戸学的な考え方が「臣子の分を尽くす」という意味でしょうか?
この時点において、龍馬の勤王思想を叙述したものですが、一次史料には見えませんし、どこまで史実かどうかはわかりません。むしろ、この程度なら龍馬に限らず、尊攘派の人間なら誰でも唱えそうですが。

桜田門外の変からちょうど1年後の文久元年(1861)3月3日、桃の節句に事件が起きました。
高知城下西の井口村で、上士と下士の対立が些細なことから殺傷事件へと発展しました。
弟を斬られた池田虎之進が上士の山田広衛と益永繁斉を殺害しました。
その後、ドラマにもあったように、上士と下士は集結して気勢を上げ、一触即発となります。
さて、このとき、龍馬がどのような行動をとったのか、私は不勉強でよくわかりません。

ひとつ、疑問だったのは下士たちが虎之進の家に集まっていましたが、そのなかに岡田以蔵もいました。
これはどうでしょうかね? というのは前年7月から武市半平太は九州視察に出かけ、以蔵も同道しています。そして、半平太は以蔵を剣術修業の名目で豊後岡藩に預けていますから、井口村事件のとき、以蔵は帰国していたんでしょうかね?

井口村事件が虎之進と宇賀喜久馬の切腹により落着すると、半平太はまた江戸に出府します。
ドラマの何回か前、久坂玄瑞・佐々木男也・樺山三円(資之)・桂小五郎らと会見する場面がありましたが、実際はこのときでしょう。もちろん、龍馬は同行していません。

そして、8月、半平太は江戸で土佐勤王党を旗挙げします。
このとき、江戸鍛冶橋の土佐藩邸にいた下士は半平太のほか、大石弥太郎、小笠原保馬、河野万寿弥、池内蔵太、柳井健次、広田恕助などのようです。

それで、ドラマでは在江戸の者が先に血盟者名簿に署名し、土佐在住者では龍馬が一番目に署名するように促されていました。これはほぼ史実かもしれませんね。龍馬は9番目に署名していますが、8番目までは次の順番で署名しています。

○武市半平太
○大石弥太郎
 島村衛吉
 間崎哲馬
 門田為之助
○柳井健次
○河野万寿弥
○小笠原保馬
 坂本龍馬

私の乏しい手持ち史料で在江戸を確認できたのは○印の人物です。『武市瑞山関係文書』をもっていないため、あとの3人の所在地はわかりません。中村武生氏がそのうち書いてくれると思います。

気になるのは、明らかに在江戸の池内蔵太の名前が名簿にありません。これはおそらく名簿が山内容堂に提出された文久3年(1863)3月時点で、内蔵太が脱藩していたからではないでしょうか?
また龍馬も同2年に脱藩していながら、署名があるのは同3年2月25日に容堂から脱藩の罪を許されていたからでしょうか?
ほかに、岡田以蔵の名前もあとで削除されたといわれています。

現存している名簿の写しには、192名の名前があります。これは結成当初ではなく、その後に加盟した者を含めた最終的な数です。土佐8郡から加盟したといわれますから、相当な勢力ですね。
ちなみに、薩摩藩の下級城下士の結社、精忠組の加盟者は50名ほどですから、土佐勤王党の規模の大きさがわかります。その後、武市が藩政に進出して実権を握るのは、ひとえに同党の存在ゆえですね。

次回は吉田東洋暗殺直前をやるようですね。

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【2010/03/15 20:33】 | 龍馬伝
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龍馬が上士に?
忍っこ
「土佐沸騰」見ました。
今回のドラマでありえないことが放送されていました。
それは、上士殺傷事件で龍馬が単独で上士にかけあい
話しで決着したい意志を伝えたのち
吉田東洋に呼ばれ龍馬に対して
おまんを上士に取り立てちゃると吉田東洋が言ってましたね
耳を疑ったのですが、土曜日に再放送があるのでもう一度見てみたいと思います。
あの郷士嫌いの吉田東洋が・・ですよね
これから脱藩にどう結びつけるか、という時に残念です。
あれはないでしょう 

呼ばれましたので
中村武生
中村武生です。
 桐野先生の書庫にない本が拙宅にあるとは光栄です。
 とりあえず島村衛吉の在府は、樺山三円日記でわかるようです。
 文久元年8月28日条に、「土州の藩武市半平太、島根英吉同伴被参候」とあります(『武市瑞山関係文書』1、53ページ)。
 「島根英吉」は島村衛吉の誤りだと同書に注記があります。

 間崎哲馬と門田為之助は在府せず、実は在土佐だと、松岡司氏『定本坂本龍馬伝』140ページは記します(典拠の記載はありませんが)。
 のち削除された池内蔵太・岡田以蔵の空白部分に両人を埋めたのが原因だと同書は推定しています。ご参考まで。

龍馬が上士に?
桐野
忍っこさん、こんばんは。

ご指摘のとおりですね。
ドラマではたしかに吉田東洋が龍馬を上士にすると言っていました。でも、東洋がそもそも龍馬を知っていたかどうかも怪しいですから、ありえそうもありません。
もっとも、岩崎弥太郎もどさくさ紛れに上士末端の留守居組に昇進していますから、下士から上士になるのがまったく不可能というわけではないと思います。

何というか、今年もまた、脚本家の想像力が史実を凌駕できないですね。そんなことなら、妙にいじらないで、史実どおりに作ったほうがよほど面白いと思うんですけどね。
とくに武市半平太の造形には問題ありですね。半平太が矮小化されていると思います。


なるほど
桐野
中村武生さん、こんばんは。

わざわざのご回答痛み入ります。
やはり3人のうち、間崎哲馬と門田為之助は在府していなかったのですね。
彼らの名前が上位に載せられたのは、削除された池内蔵太と岡田以蔵の替わりというわけですか。
なるほど面白い。となると、以蔵も江戸にいたことになるんでしょうか?


松裕堂
どうも、大河ドラマは視れてないのでアレですが松裕堂です。

>井口村事件のとき、以蔵は帰国していたんでしょうかね?
おそらく帰国していないはずです。
井口村事件に関する話題で以蔵が出てくるような論を私は読んだことがありませんし、なにより古沢迂郎の執筆した半平太伝には、江戸での再会を期して両者は別れたことになってます。

また「岡田以蔵の道中控」を自著に引用する平尾道雄氏は、「翌年[文久元年]三月」まで堀道場で修行したとも書いてますんで、時間的なことを考えると難しいかと。

>在江戸を確認できたのは○印の人物
横田達雄氏によると、間崎と龍馬以外の面々については結成当時「江戸に在りたるは明らかなり」とのことなんですが、中村武生さんも上記されているように松岡司氏によると、間崎と門田は在府していなかったそうなので、いざ史料的な裏付けとなると私はよく存じません。

ただ半平太伝や『維新土佐勤王史』によるかぎり、間崎と門田の在江戸は確認できませんので、消去法になりますが両者ともおそらくは在土佐でしょう。

>以蔵も江戸にいたことになるんでしょうか?
島村衛吉の証言によると岡田以蔵も江戸で加盟したことになってますので、前記した理由とあわせ恐らくは江戸かと。

ご教示多謝
桐野
松裕堂さん、お久しぶりです。

細かい疑問を教えていただき、有難うございます。
岡田以蔵はやはり井口村事件のときは不在だった可能性が高いんですね。
土佐勤王党名簿の署名のやり方や順番については、とくに当時の龍馬の位置づけなどとも関わり、意外と重要なことかもしれませんね。


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この記事へのコメント
龍馬が上士に?
「土佐沸騰」見ました。
今回のドラマでありえないことが放送されていました。
それは、上士殺傷事件で龍馬が単独で上士にかけあい
話しで決着したい意志を伝えたのち
吉田東洋に呼ばれ龍馬に対して
おまんを上士に取り立てちゃると吉田東洋が言ってましたね
耳を疑ったのですが、土曜日に再放送があるのでもう一度見てみたいと思います。
あの郷士嫌いの吉田東洋が・・ですよね
これから脱藩にどう結びつけるか、という時に残念です。
あれはないでしょう 
2010/03/15(Mon) 23:39 | URL  | 忍っこ #i6S8jvBo[ 編集]
呼ばれましたので
中村武生です。
 桐野先生の書庫にない本が拙宅にあるとは光栄です。
 とりあえず島村衛吉の在府は、樺山三円日記でわかるようです。
 文久元年8月28日条に、「土州の藩武市半平太、島根英吉同伴被参候」とあります(『武市瑞山関係文書』1、53ページ)。
 「島根英吉」は島村衛吉の誤りだと同書に注記があります。

 間崎哲馬と門田為之助は在府せず、実は在土佐だと、松岡司氏『定本坂本龍馬伝』140ページは記します(典拠の記載はありませんが)。
 のち削除された池内蔵太・岡田以蔵の空白部分に両人を埋めたのが原因だと同書は推定しています。ご参考まで。
2010/03/16(Tue) 00:59 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
龍馬が上士に?
忍っこさん、こんばんは。

ご指摘のとおりですね。
ドラマではたしかに吉田東洋が龍馬を上士にすると言っていました。でも、東洋がそもそも龍馬を知っていたかどうかも怪しいですから、ありえそうもありません。
もっとも、岩崎弥太郎もどさくさ紛れに上士末端の留守居組に昇進していますから、下士から上士になるのがまったく不可能というわけではないと思います。

何というか、今年もまた、脚本家の想像力が史実を凌駕できないですね。そんなことなら、妙にいじらないで、史実どおりに作ったほうがよほど面白いと思うんですけどね。
とくに武市半平太の造形には問題ありですね。半平太が矮小化されていると思います。
2010/03/16(Tue) 02:20 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
なるほど
中村武生さん、こんばんは。

わざわざのご回答痛み入ります。
やはり3人のうち、間崎哲馬と門田為之助は在府していなかったのですね。
彼らの名前が上位に載せられたのは、削除された池内蔵太と岡田以蔵の替わりというわけですか。
なるほど面白い。となると、以蔵も江戸にいたことになるんでしょうか?
2010/03/16(Tue) 02:24 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
どうも、大河ドラマは視れてないのでアレですが松裕堂です。

>井口村事件のとき、以蔵は帰国していたんでしょうかね?
おそらく帰国していないはずです。
井口村事件に関する話題で以蔵が出てくるような論を私は読んだことがありませんし、なにより古沢迂郎の執筆した半平太伝には、江戸での再会を期して両者は別れたことになってます。

また「岡田以蔵の道中控」を自著に引用する平尾道雄氏は、「翌年[文久元年]三月」まで堀道場で修行したとも書いてますんで、時間的なことを考えると難しいかと。

>在江戸を確認できたのは○印の人物
横田達雄氏によると、間崎と龍馬以外の面々については結成当時「江戸に在りたるは明らかなり」とのことなんですが、中村武生さんも上記されているように松岡司氏によると、間崎と門田は在府していなかったそうなので、いざ史料的な裏付けとなると私はよく存じません。

ただ半平太伝や『維新土佐勤王史』によるかぎり、間崎と門田の在江戸は確認できませんので、消去法になりますが両者ともおそらくは在土佐でしょう。

>以蔵も江戸にいたことになるんでしょうか?
島村衛吉の証言によると岡田以蔵も江戸で加盟したことになってますので、前記した理由とあわせ恐らくは江戸かと。
2010/03/16(Tue) 10:05 | URL  | 松裕堂 #-[ 編集]
ご教示多謝
松裕堂さん、お久しぶりです。

細かい疑問を教えていただき、有難うございます。
岡田以蔵はやはり井口村事件のときは不在だった可能性が高いんですね。
土佐勤王党名簿の署名のやり方や順番については、とくに当時の龍馬の位置づけなどとも関わり、意外と重要なことかもしれませんね。
2010/03/16(Tue) 23:29 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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