歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
第12回「暗殺指令」

ドラマ進行時点は文久2年(1862)正月から3月初め。

このところ、忙しいというより、テンションが下がっていて、なかなか更新できませんでした。
こんなときこそ、いただいた著書や論文を紹介すべきなんでしょうが……。

さて、ドラマも龍馬が脱藩する直前、吉田東洋が暗殺される直前まで来ました。

ただ、何というか、幕末の主要人物の造形が少し軽いように思うのは、私だけでしょうか?

武市半平太については、以前からそう思っていました。もっとカリスマ性のある人物だと思うし、龍馬との仲も良好だったはず。

今回、龍馬が長州の久坂玄瑞を訪問して、「攘夷とは何ぞや」と初歩的な質問をしておりましたが、果たして龍馬はそんなに無知で、安政条約の中味を知らなかったのでしょうか?
どうも龍馬の目線を視聴者のそれとパラレルにしてあるような。親しみやすいといえば、そうなんでしょうけどね。

また、久坂玄瑞もいたずらに「松陰先生」を連呼して慷慨の士に描かれていましたが、松下村塾随一の英才であり、もっとカミソリのように切れる人物だと思うんですけどね……。

まず、龍馬の長州行きですが、これは久坂の日記『江月斎日乗』に少し記述があります。その部分だけを抜き出します。当時、久坂は藩主の江戸出府を阻止する伏見要駕策が失敗して謹慎中でした。

正月14日
「土州阪本龍馬、武市書翰を携え来訪、松洞に托し、夜前街の逆旅に宿せしむ」

正月15日
「龍馬来る、話す、午後文武修行館へ遣す、(中略)阪本生などの周旋も有之を以てなり、夜寺島と薩人を訪う、夜半帰家、薩人は田上藤七と申す男にて有之候」

正月21日
「土人の寓する修行館を訪う、中谷と同行、是の日薩人を訪う」

正月23日
「是日を以て土州人去る」

久坂の日記によれば、龍馬は10日ほど萩に滞在したようです。
龍馬は萩城下の旅宿や、「修行館」に宿泊していたようですね。これは藩校明倫館のなかにある道場有備館のことでしょうか。龍馬がやはり剣術に関心があることが判ります。ここで、龍馬は長州藩士と試合をし、負けたと伝わっていますね。

でも、龍馬のもっとも重要な目的は、久坂も日記に書いているように、「周旋」のことでしょう。
これは、同時期に薩摩藩士の田上藤七も久坂を訪れていることから推定できるように、薩長土三藩による連携、とくに京都での尊王決起について、何らかの打ち合わせがあったと見たほうがよいでしょう。
つまり、「攘夷とは何ぞや」などと龍馬が久坂に教えを乞うどころか、龍馬は土佐勤王党首領の武市の名代として「周旋」に関わっているわけです。ドラマの描き方は違和感ありましたね。

それで、ドラマには登場しませんでしたが、久坂の日記に出てくる「薩人」、薩摩藩士の田上藤七。最後の龍馬紀行で紹介された石碑に名前が刻まれていました。
じつは私も彼のことは詳しくは知りません。龍馬が最初に会った薩摩人かもしれません。
本名は田中頼庸(1836~97)といいます。龍馬より1歳年下です。国学者で神道家ですから、その主義主張のほどは知れます。
父親の罪科で奄美大島に流されています。母親は樺山氏ですから、樺山三円と親戚の可能性が高いです。ただ、精忠組の名簿にありません。ないからといってメンバーではないとは断言できませんが。久坂の日記には、田上が樺山三円の書簡を持参したとありますから、これまでの武市や久坂の人脈から考えると、樺山三円の仲間なのは確実ですね。
龍馬が武市の使者だったように、田上も薩摩藩尊攘派の代表格だった樺山三円の使者だったわけですね。2人が同時期に久坂を訪問しているのは偶然ではないでしょう。
田上は明治になってからは山陵調査などを行い、古事記や神道関係の著作も多くあります。のちに伊勢神宮の大宮司などを勤めています。

なお、龍馬が萩を離れる直前の21日、久坂は武市に書簡を送っています。これは龍馬のことを触れているだけではなく、松陰先生の愛弟子たる久坂の真骨頂を示したものですね。

まず龍馬に関する部分は、
「此度阪本君お出游在らせられ、腹蔵なくご談合仕り候、事委曲お聞き取り願い奉り候、(中略、下記の部分あり)就いては坂本君へお申し談じ仕り候事ども、篤くご熟考下さるべく候」

そして、一番有名な一節は、
「つひに諸侯恃む(たのむ)に足らず、公卿恃むに足らず、草莽の志士を糾合、義挙のほかにはとても策これなきことと、私共同志中申し合わせ居り候ことに御座候、失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても、大義なれば苦しからず」

龍馬が久坂と国事について重要な打ち合わせをしたことは明らかです。
とりわけ、久坂が土佐藩も長州藩も滅亡しても大義が立てばよいと喝破したことは痛快で、吉田松陰の「草莽崛起」論(久坂の部屋に大書して張り出してありました)そのものであり、龍馬の脱藩に影響を与えた可能性がありますね。
こうした久坂の考えをみると、ドラマはいささか緊張感を欠いていたといわざるをえません。

また龍馬の萩行きは、武市の吉田東洋への建白や会見とも関係があるはずです。
ドラマで描かれたように、武市は同志たちを引き連れて強訴したわけではなく、おそらく単独で東洋に合っていると思われます。
その会談の中味も、尊王攘夷一般ではなくて、土佐藩の藩論を定めるにあたって、その具体策を提起したものであったはずです。
そのひとつは、土佐藩が薩長と連携し、朝廷守護のため率兵上京すべきだという国事方針。
もうひとつは、前藩主山内容堂の赦免をどのような方法で勝ち取るのか。武市は無勅許条約調印や和宮降嫁など、幕閣の非を糾弾することによって。東洋は幕府との妥協策で。という方法論の違いがあったのではないかと思います。

武市は畏敬する容堂を押し立てての「闔藩勤王」路線を貫徹しようとしていましたから、容堂の赦免を幕府に強く要求して正々堂々と勝ち取ろうと考えたのではないかと思います。

次回はいよいよ東洋暗殺と龍馬の脱藩ですね。

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【2010/03/21 23:08】 | 龍馬伝
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久坂との会見
NAO4@吟遊詩人
いつもお世話になっています。
ブログ拝見し、龍馬と久坂玄瑞の会見の意味合いが、ようやく分かりました。ありがとうございました。

久坂玄瑞
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

少しはお役に立ててよかったです。
久坂玄瑞はもっと評価されていい人物ですね。
久坂との出会いが、龍馬脱藩の触媒になった気がします。

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コメント
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久坂との会見
いつもお世話になっています。
ブログ拝見し、龍馬と久坂玄瑞の会見の意味合いが、ようやく分かりました。ありがとうございました。
2010/03/23(Tue) 03:30 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
久坂玄瑞
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

少しはお役に立ててよかったです。
久坂玄瑞はもっと評価されていい人物ですね。
久坂との出会いが、龍馬脱藩の触媒になった気がします。
2010/03/24(Wed) 12:57 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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2010/03/22(Mon) 19:08:19 |  shugoroの日記