歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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7日、日帰りで桶狭間古戦場に取材に出かけた。

現地の地理や史跡に詳しい畏友の橋場日月氏にわざわざ泉州から来ていただき、ガイド役をお願いした。また橋場氏の友人で歴史好きのH氏も同道してくれた。

折からの好天気で、日中は気温も20度近い暖かさだった。日頃の行ないがよいためか、これ以上ない史跡探訪日和だった。

まず、名古屋駅で上記お二人と合流して名鉄線で、桶狭間古戦場跡に行く。今川義元戦死の地である。中京競馬場駅で降りて、まず太子ヶ根に行く。大将ヶ根ともいい、織田軍がこの丘陵の陰から義元の本陣を襲撃したともいわれている。史跡も碑も何も残っていないが、地名が現在も残っていることを随所に確認できた。

その後、反転して、義元の墓のある桶狭間古戦場と高徳院に行く。ここに来たのはじつに十数年ぶりだろうか。あたりの景観がまったく変わっていて、なかなか思い出せなかったほどである。
桶狭間古戦場跡

(豊明の桶狭間古戦場跡の碑)

高徳院の境内の真ん中に、以前、義元本陣跡という碑が立っていたが、碑こそ残っていたものの、だいぶ景観が変わっていた。橋場氏が、お寺裏にある松井兵部少輔の墓に連れて行ってくれた。兵部少輔は義元の部将で、義元を救援しようとして討死した。以前、来たときはこの墓の存在は知らなかったから、教えてもらって有難かった。

その後、桶狭間山をめざす。ここは義元の本陣が置かれたところである。『信長公記』には「御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」と書かれている。
山といっても、標高は65メートル足らず。あたり周辺で一番の高所を探し回った。ようやく見つけたが、何の変哲もないところである(下写真参照)。
桶狭間山


この付近にもうひとつの今川義元戦死の地がある。桶狭間古戦場公園になっている。戦死の碑と供養塚があった。近くには今川義元の重臣、瀬良氏俊の陣所跡とされる「セナ藪」や、長福寺がある。同寺には義元供養のための阿弥陀如来像が安置され、境内には戦死者供養塔や義元首検証の碑もあった。

その後、バスでいったん名鉄線に戻り、鳴海城址をめざした。この城は今川方の最前線で、岡部元信がこもっていた。この城を監視・圧迫するために、織田方は丹下・善照寺・中嶋の付城を築いた。
鳴海城は当時を偲ぶものは碑以外なかった。橋場氏によると、以前は切岸が残っていたというので、その場所に行ってみたが、宅地造成の真っ最中で、完全に姿を消していた。

善照寺砦は織田方の最大の前線拠点だった。ここにジャングルジムがあったので登ってみたところ、鳴海城はビル・マンションに遮られて見えなかったが、大高城方面を望むことができたのは収穫だった。

善照寺砦から、その支砦といってよい中嶋砦に移動する。ここは扇川などの河川が合流する三角州にあり、陸海双方の交通路を扼していたように思われる。
善照寺砦まで進出した信長は家臣たちの制止を振り切ってこの砦までやってくると、折からの豪雨の中、敢然と義元の本陣を攻撃するのである。
信長がなぜそんな大胆というか無謀とも思える決断をしたのか、その地に立って見たかったのである。しかし、当時を偲ばせるのは、碑と河川の三角州だけである。大高城方面は建物に遮られてまったく見えなかったのは残念無念。

その後、鳴海駅まで戻ってタクシーで大高城に行く。ここも今川方の拠点で、松平元康(のちの徳川家康)が兵粮入れをしたことで知られる。
この日めぐった城砦の中で、もっとも中世城郭の風情を残している城跡だったので、とてもうれしかった。大きな曲輪が三つも四つもあった。そしてその突端からは、織田方の付城である鷲津・丸根の両砦がよく見えた(下写真参照)。
鷲津・丸根

(写真奥の丘陵の左手のマンションあたりが鷲津砦、同じく右手の高層マンションの裏あたりが丸根砦)

取材はこれで終わりだろうと思っていたところ、橋場氏が鷲津・丸根にも行こうという。時刻はもう4時を回っていた。冬場の取材は午後4時が限度だと思っていたし、大高城からはるか遠くに見える両砦だったので、とても行けないと思っていたが、案外近かった。両砦まで見て回れて、桶狭間古戦場の関連史跡は日帰りにもかかわらず、ほぼ全部回ることができた。望外の喜びである。
鷲津砦

(鷲津砦跡の碑)

一人ならとてもこれほど効率的には回れず、下手をすれば鳴海城あたりで終わっていたかもしれない。名ガイドの橋場氏に感謝、感謝である。また、全行程が徒歩20キロ以上に及ぶ取材とはゆめにも思わずに同道したH氏は途中で、私たち二人にあきれ顔ながら、最後まで同行してくれた。さぞやお疲れだったろうと思う。

古戦場めぐりは久しぶりだったが、20キロ以上歩いたにもかかわらず、翌日もとても元気だった。まだまだ史跡取材がやれそうだという自信も取り戻せた気がする。取材後、名古屋駅の某タワービルで飲んだ生ビールがうまかったことはいうまでもない。
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ゴンザの露薩語講座」第13回です。
前回出題分「ヤキモチ」の解答は「ビスケット」でした。きなみんさんとまいたけ君さんは連想法はよかったですが、ちょっとはずしましたね。

第13問:ダクマ

ヒント:これは鹿児島の人なら知ってますね。
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【2007/02/10 00:23】 | 信長
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まいたけ君

ダクマ → 氷

鹿児島で「クマ」といったら、「白クマ」っきり思い出せないもので(冷汗)



信長の成功要因は?
小池直行
頼朝の場合、関東武士の気持ちにうまく乗って成功したようですが、信長の場合その支持層みたいなのがあったのでしょうか


吉田松陰大好き
充実した日帰り旅行だった御様子で羨ましいです。心が満たされていれば、体の疲れは感じませんよね。高層マンションが全室埋まる程、人口は多くないと思うので、無ければ良かったですね。皮肉ですが、人間の欲で貴重な史跡まで奪われ、切岸や桶狭間全体を是非見て頂きたかったです。まあ、便利な世なのでこの時代に生まれてラッキーである事には違いありませんが…。いつか旅行を共にしたいです。【幕末編】で!先日のクイズで何も考えず、勝手にクイズダービーをして正解となりましたが、きなみん様済みません。でも嬉しかったですhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F99B.gif" alt="" width="12" height="12">

信長の成功要因?
桐野
小池直行さま

表題は信長の桶狭間合戦での成功要因という意味でしょうか?

それなら、いくつかあると思いますが、主体的要因としては、信長の旗本衆の忠節度と団結力が強かったことはいえると思いますね。
義元襲撃が成功したのも、信長の軍令に従って一糸乱れぬ攻撃が可能だったからだと思います。

信長の成功要因続き
小池直行
質問の仕方が悪くてすみませんでした、信長がまがりなりにも覇を唱えられた要因をなんだとお考えですかという意味での質問です。信長を歴史の主役に押し上げた歴史の必然みたいなのがあるのですか、それとも信長が個人的にたまたま強かったのでしょうか。この時期天下統一を目指す武将が何人か現れたようですが、まず何故この時期にこういう機運が出てきたのでしょうか、その中で信長がなし得たのはなぜでしょうか?信長でなくてもよかったのでしょうか?

信長と戦国大名
桐野
小池直行さん

いや、信長の天下取りの成功要因でしたか。
これはこの欄では本文からもはずれますし、難しすぎるテーマですね。

それでも少し触れますと、近年の研究では、戦国大名の領国支配を従来より高く評価する傾向があり、よって、戦国大名と織豊政権の段階差をより小さく見ようとしているようです。
つまり、戦国大名と信長はそれほど変わらないのではないかという議論になりますね。
それなら、なぜ信長だけが上洛できて天下取りができたのかということになりますが、地理的条件がかなり大きいのと、他の戦国大名との差別化、とくに鉄砲などの軍事面や経済流通面などで優れていたのではないでしょうか。
来月中旬、信長と本能寺の変について拙著を刊行する予定ですが、信長と他の戦国大名との関係についても触れていますので、よかったら読んで下さい。

ありがとうございました
小池
そう簡単には答えの出ない問題とは思いますが、ご丁寧なご回答ありがとうございます、御紹介の本(?)是非読ませていただきたいと思います、頼朝に始まった武家政権が信長-家康によってやっと完成したような(又は末期に入ったか)気もしていたのですが

桐野さんの最新作
香港の読者
はじめまして、私は香港の読者で、胡と申します。桐野さんの御著作を拝読しました。「真説.本能寺」や「真説.関が原」など、感心しました。特に「真説.本能寺」は本能寺の変に関する謎を解明したと思っています。だから、さんの最新作を楽しみにしております。

どころで、信長の朝廷政策について、調和ですか、対立ですか。具体的な内容は何でしょうか。教えていただきたきたいと思います。

公武協調
桐野
香港の読者、胡さん、はじめまして。

わざわざ香港からのコメント、有難うございます。
また私の本を読んでいただき、光栄です。

信長の朝廷対策ですが、表題のように、公武協調、公武一体が基調だと思います。
その論証は長くなるので、この欄では尽くせませんが、一言でいえば、信長と朝廷は別個の性格の異なる権威だからで、お互いがお互いを必要としたということです。

また、信長にとって、朝廷を打倒したり消滅させても、何のメリットもありません。また朝廷からとくに奪い取るほどのものもありません。官位叙任にしても、年号制定権にしても、暦の問題にしても、朝廷の権限(天皇大権という人もいますが)を所与の前提として理想的な形で存在すると想定すること自体、非歴史的です。
これらの権限はすでに形骸化しており、武家の補完や協力なしでは機能しません。かといって、武家がこれらをあえて奪い取るほどの価値があるものでもありません。

具体的に見ても、左大臣推任、馬揃え、三職推任、二度の譲位問題、そのいずれにおいても、公武交渉は協調的です。朝廷は信長の意を迎えようとしてますし、信長もまた朝廷に気を遣っています。

たとえば、馬揃えは信長が朝廷を武力で威圧するものだったという研究者がいますが、威圧する程度なら、ほかにもいろいろ手段があり、わざわざ馬揃えをするほどのものではありません。そもそも、安土で開かれていた馬揃えが面白いという評判を聞いた朝廷がぜひ見てみたいと伝えたので、それならばと信長が見せてあげたわけで、信長の朝廷への気遣いこそあれ、威圧とするのは見当違いだと思います。本当に威圧する気があるなら、数万の大軍を入京させて京都御所を囲めばいいんです。そんなことをする理由が信長にはなかったから、しなかっただけですね。

信長のイメージが先行しているせいもあるのですが、公武対立だった、信長は朝廷を滅ぼそうとしていたというのはどう考えてもありえないですね。
朝廷は信長に敵対していないし、朝廷を滅ぼしたからといって、信長には何のメリットもありません。

なお、三月中旬に本能寺の変について書いた新書が刊行される予定です。香港で入手できるのかどうかわかりませんが、もし入手できるようなら、読んでいただければうれしいです。前著「真説本能寺」での主張をさらに発展させ、光秀の新しい書状なども盛り込んでいます。



有難うございました
ご丁寧なご回答ありがとうございました。
本能寺の変の焦点は「三職推任」であろう。「誰が三職を推任したんですか」と、近年、日本の史学界は朝廷や信長、または村井貞勝の勇み足と提示されている。おそらく、立花京子氏の論説に大きな影響を受けるだろう。

でも、私の考えでは、どっちが提案しても、明智光秀の謀反と無関係だと思います。なぜなら、朝廷がどうやって光秀を連絡するかと、朝廷黒幕説は説明してない。

「平氏将軍打倒説」では、史料から見ると、そのときの信長は将軍就任の意思が見えないし、そのときの義昭はまだ「征夷大将軍」として備中で滞在中からです。もし信長は将軍になりたければ、まず朝廷に義昭の将軍名義を取り消させるのではないでしょうか。

一方、藤田達生氏が提唱する足利義昭黒幕説も納得できないと思います。一言といえば、義昭は信長を倒したがってでも、以前一度自分を背いた光秀が信用できるかが疑問である。

三職推任
桐野
胡さん、こんにちは。

またコメント有難うございます。
胡さんは日本史というか、信長の時代にとても詳しいですね。驚いております。

仰せの通り、三職推任は重要です。
これについては、信長が京都所司代の村井貞勝に命じて、朝廷に将軍・関白・太政大臣の三職を推挙するよう圧力をかけたという説がありますが、私は賛成できません。

村井は日常的に、朝廷から相談事を受けており、このときも、信長の甲州陣の戦勝祝いをしたいけど、どうしたらいいかと相談され、官位でも贈ればいいんじゃない、前年の左大臣を断っておられるから、それ以上なら何でもという程度で、三職ならどうかと決めたのでしょう。

その証拠に、安土に勅使が下ったとき、近臣の森乱(いわゆる蘭丸)に命じて、どのような用件で来たのだと聞いているほど、信長は勅使がやってきた目的に思いあたる節がなかったことを示しています。
また、勅使が何としても会ってほしいと言上しても、用件がわかった信長は「会えば(三職推任)の返事をしなければならない。だから、会うのはどうか。かといって、会わないのも角が立つし、どうしたらよいものか」と、逆に勧修寺晴豊に尋ねているほどです。
そこで、晴豊が「とにかく形だけでも会ってほしい。そうでないと、勅使の面目が立たないから」と答えたので、信長は形だけの対面をしました。
しかし、三職推任の返事はそのときしておりません。なぜかといえば、答えはNOだったから、それを直接伝えるのは勅使の体面を傷つけると、信長が気を遣ったのです。そして、勅使の帰京後、改めてNOの返事を伝えています。

これらのいきさつから、信長が三職推任を強制したものではなく、あくまで朝廷側からの発案でした。信長は勅使の目的さえ知らずに困惑した様子で応対したこと、またNOと答えるのは朝廷に悪いと気を遣ってさえいます。
信長と朝廷の関係(公武協調)の一端がここに示されています。

なお、三職推任については私も関心があったので、拙稿をまとめております。もしよかったら、ご覧になって下さい。

桐野作人「信長への三職推任・贈官位の再検討」 『歴史評論』665号 2005年



ご回答、有難うございました
ご回答くださって、有難うございました。
最後の質問ですが、桐野さんは信長の政権構想についてどうお考えになりますか。

信長の政権構想?
桐野
胡さん、こんにちは。

なかなか難しい最後の質問ですね(笑)。
とても答えきれないと思うので少しだけ。

まず一般論として、政権構想や国家体制の成立については、時代的な条件と国際環境を抜きに語れないと思います。それは信長の政権構想とて同様です。

信長の場合、明国を中心とする冊封体制が動揺するとともに、スペイン・ポルトガルの世界帝国が進出してきた時期とも重なり、東アジアの秩序が再編成されようとしていたという国際情勢下にあり、その政権構想も、明国やヨーロッパ勢力と無関係ではありません。

まず国内的な問題からいえば、のちの豊臣政権が推進したような太閤検地や兵農分離という諸政策は信長政権においても同様で、そうした社会構造や身分の再編成が進み、中世から離脱したと思われます。
豊臣政権のそうした社会改革が、朝鮮侵略という対外戦争体制の準備のためになされたように、信長も同様だったのではないかという気がします。

フロイスは、信長が大陸を征服するために艦隊を派遣するつもりだったと述べています。秀吉の朝鮮侵略も、信長の未完の構想を真似たといえるかもしれません。

ただ、対外関係的には、信長と秀吉の違いもあるように思います。
秀吉は朝鮮侵略の思想的・イデオロギー的な前提として「神国思想」を持ち出しました。さら「神国」ゆえに、「叡慮」(天皇の意志)により対外戦争遂行という形をとりました。
一方で、「神国思想」は邪教であるキリシタンの排撃も含んでいます。このことは、秀吉の朝鮮侵略がスペイン・ポルトガル勢力との絶縁によって遂行されることを意味しました。

では、信長はどうだったかといえば、キリシタンと絶縁することはなく、むしろ、スペイン・ポルトガル勢力の軍事力(とくに軍船)を利用する形で展開されたのではないかと思われ、その限りで「神国思想」を必要不可欠のものとしたとはいえないかもしれません。
その際、やはりイデオロギー的な準備が必要で、「神国思想」に代替できるのは、やはり「天下」思想でしょうかね? 天下は決して国内的なものではなく、国境はない、具体的には「唐天竺」までを含み込んでいるかもしれません。
その限りにおいて、信長は天皇=「叡慮」を秀吉ほどには必要としていないともいえるかもしれません。

また近年では、信長の政権構想の究極が「中華皇帝」をめざすことだったのではないかという仮説も登場しております。
それについては、どこまでありえたか、まったくの仮想の話になりますが、フロイスが記しているところをみると、まったくの絵空事でもなかったかもしれません。

とりとめもありませんが、そんなことを考えております。

胡さんのお国に対して、言いたい放題かもしれませんが、歴史研究上での話としてお許し下さい。また上記の仮説も決してナショナリズムを鼓吹するものではありませんので、念のため。


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横レスですが・・・
板倉丈浩
こんばんは。
クイズは難しくてコメントしづらいので(笑)、信長の成功要因とか政権構想についてコメントします。

桐野さんも言及されたとおり、織田氏は戦国大名としては他とそんなには違っていないんですね。
また、織田政権は室町幕府の権限を継承した性格が強く、政策も特に革新的だったとはいえません。
叡山焼討は足利義教によって既に行われていることですし、鉄砲の大量使用や楽市楽座は畿内近国では以前から見られた現象です。
大きく違う点としては、信長は朝廷から「古今無双の名将」と賞賛され、足利義昭からは「御父」と呼ばれていることですね。こんな戦国大名は他にいません。また、非常に精力的なのも特徴です(戦争をしていないときでも京都と岐阜を頻繁に行き来しています)。
信長が出した様々な書状を見る限り、非常に「外聞」を気にする人であることがわかります。
つまり、朝廷や幕府を復興させる「名将」として天下に恥じない働きをしようと頑張ったら、畿内近国を中心に広範な支持を受けた、ということなんだと思います。
一般的なイメージとは違っていますが、信長は伝統的な秩序観に強くしばられていたんですね。
ですから、信長は彼なりに朝廷に気を遣っていますし、義昭の将軍職を廃しなかったのは、君臣和解を最後まで希望していたからだと思います。
あと、室町幕府の延長線上という性格からして、外国との戦争はあまり考えていなかったと思います。宣教師はいろいろ言っていますが、日本の史料では全く確認できませんから。


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コメント
この記事へのコメント

ダクマ → 氷

鹿児島で「クマ」といったら、「白クマ」っきり思い出せないもので(冷汗)

2007/02/10(Sat) 12:03 | URL  | まいたけ君 #-[ 編集]
信長の成功要因は?
頼朝の場合、関東武士の気持ちにうまく乗って成功したようですが、信長の場合その支持層みたいなのがあったのでしょうか
2007/02/10(Sat) 23:13 | URL  | 小池直行 #PoWRB6fw[ 編集]
充実した日帰り旅行だった御様子で羨ましいです。心が満たされていれば、体の疲れは感じませんよね。高層マンションが全室埋まる程、人口は多くないと思うので、無ければ良かったですね。皮肉ですが、人間の欲で貴重な史跡まで奪われ、切岸や桶狭間全体を是非見て頂きたかったです。まあ、便利な世なのでこの時代に生まれてラッキーである事には違いありませんが…。いつか旅行を共にしたいです。【幕末編】で!先日のクイズで何も考えず、勝手にクイズダービーをして正解となりましたが、きなみん様済みません。でも嬉しかったですhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F99B.gif" alt="" width="12" height="12">
2007/02/11(Sun) 14:53 | URL  | 吉田松陰大好き #-[ 編集]
信長の成功要因?
小池直行さま

表題は信長の桶狭間合戦での成功要因という意味でしょうか?

それなら、いくつかあると思いますが、主体的要因としては、信長の旗本衆の忠節度と団結力が強かったことはいえると思いますね。
義元襲撃が成功したのも、信長の軍令に従って一糸乱れぬ攻撃が可能だったからだと思います。
2007/02/11(Sun) 22:15 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
信長の成功要因続き
質問の仕方が悪くてすみませんでした、信長がまがりなりにも覇を唱えられた要因をなんだとお考えですかという意味での質問です。信長を歴史の主役に押し上げた歴史の必然みたいなのがあるのですか、それとも信長が個人的にたまたま強かったのでしょうか。この時期天下統一を目指す武将が何人か現れたようですが、まず何故この時期にこういう機運が出てきたのでしょうか、その中で信長がなし得たのはなぜでしょうか?信長でなくてもよかったのでしょうか?
2007/02/12(Mon) 03:01 | URL  | 小池直行 #PoWRB6fw[ 編集]
信長と戦国大名
小池直行さん

いや、信長の天下取りの成功要因でしたか。
これはこの欄では本文からもはずれますし、難しすぎるテーマですね。

それでも少し触れますと、近年の研究では、戦国大名の領国支配を従来より高く評価する傾向があり、よって、戦国大名と織豊政権の段階差をより小さく見ようとしているようです。
つまり、戦国大名と信長はそれほど変わらないのではないかという議論になりますね。
それなら、なぜ信長だけが上洛できて天下取りができたのかということになりますが、地理的条件がかなり大きいのと、他の戦国大名との差別化、とくに鉄砲などの軍事面や経済流通面などで優れていたのではないでしょうか。
来月中旬、信長と本能寺の変について拙著を刊行する予定ですが、信長と他の戦国大名との関係についても触れていますので、よかったら読んで下さい。
2007/02/13(Tue) 00:04 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございました
そう簡単には答えの出ない問題とは思いますが、ご丁寧なご回答ありがとうございます、御紹介の本(?)是非読ませていただきたいと思います、頼朝に始まった武家政権が信長-家康によってやっと完成したような(又は末期に入ったか)気もしていたのですが
2007/02/13(Tue) 12:21 | URL  | 小池 #PoWRB6fw[ 編集]
桐野さんの最新作
はじめまして、私は香港の読者で、胡と申します。桐野さんの御著作を拝読しました。「真説.本能寺」や「真説.関が原」など、感心しました。特に「真説.本能寺」は本能寺の変に関する謎を解明したと思っています。だから、さんの最新作を楽しみにしております。

どころで、信長の朝廷政策について、調和ですか、対立ですか。具体的な内容は何でしょうか。教えていただきたきたいと思います。
2007/02/15(Thu) 17:18 | URL  | 香港の読者 #-[ 編集]
公武協調
香港の読者、胡さん、はじめまして。

わざわざ香港からのコメント、有難うございます。
また私の本を読んでいただき、光栄です。

信長の朝廷対策ですが、表題のように、公武協調、公武一体が基調だと思います。
その論証は長くなるので、この欄では尽くせませんが、一言でいえば、信長と朝廷は別個の性格の異なる権威だからで、お互いがお互いを必要としたということです。

また、信長にとって、朝廷を打倒したり消滅させても、何のメリットもありません。また朝廷からとくに奪い取るほどのものもありません。官位叙任にしても、年号制定権にしても、暦の問題にしても、朝廷の権限(天皇大権という人もいますが)を所与の前提として理想的な形で存在すると想定すること自体、非歴史的です。
これらの権限はすでに形骸化しており、武家の補完や協力なしでは機能しません。かといって、武家がこれらをあえて奪い取るほどの価値があるものでもありません。

具体的に見ても、左大臣推任、馬揃え、三職推任、二度の譲位問題、そのいずれにおいても、公武交渉は協調的です。朝廷は信長の意を迎えようとしてますし、信長もまた朝廷に気を遣っています。

たとえば、馬揃えは信長が朝廷を武力で威圧するものだったという研究者がいますが、威圧する程度なら、ほかにもいろいろ手段があり、わざわざ馬揃えをするほどのものではありません。そもそも、安土で開かれていた馬揃えが面白いという評判を聞いた朝廷がぜひ見てみたいと伝えたので、それならばと信長が見せてあげたわけで、信長の朝廷への気遣いこそあれ、威圧とするのは見当違いだと思います。本当に威圧する気があるなら、数万の大軍を入京させて京都御所を囲めばいいんです。そんなことをする理由が信長にはなかったから、しなかっただけですね。

信長のイメージが先行しているせいもあるのですが、公武対立だった、信長は朝廷を滅ぼそうとしていたというのはどう考えてもありえないですね。
朝廷は信長に敵対していないし、朝廷を滅ぼしたからといって、信長には何のメリットもありません。

なお、三月中旬に本能寺の変について書いた新書が刊行される予定です。香港で入手できるのかどうかわかりませんが、もし入手できるようなら、読んでいただければうれしいです。前著「真説本能寺」での主張をさらに発展させ、光秀の新しい書状なども盛り込んでいます。

2007/02/16(Fri) 00:27 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
有難うございました
ご丁寧なご回答ありがとうございました。
本能寺の変の焦点は「三職推任」であろう。「誰が三職を推任したんですか」と、近年、日本の史学界は朝廷や信長、または村井貞勝の勇み足と提示されている。おそらく、立花京子氏の論説に大きな影響を受けるだろう。

でも、私の考えでは、どっちが提案しても、明智光秀の謀反と無関係だと思います。なぜなら、朝廷がどうやって光秀を連絡するかと、朝廷黒幕説は説明してない。

「平氏将軍打倒説」では、史料から見ると、そのときの信長は将軍就任の意思が見えないし、そのときの義昭はまだ「征夷大将軍」として備中で滞在中からです。もし信長は将軍になりたければ、まず朝廷に義昭の将軍名義を取り消させるのではないでしょうか。

一方、藤田達生氏が提唱する足利義昭黒幕説も納得できないと思います。一言といえば、義昭は信長を倒したがってでも、以前一度自分を背いた光秀が信用できるかが疑問である。
2007/02/16(Fri) 01:45 | URL  | 胡 #-[ 編集]
三職推任
胡さん、こんにちは。

またコメント有難うございます。
胡さんは日本史というか、信長の時代にとても詳しいですね。驚いております。

仰せの通り、三職推任は重要です。
これについては、信長が京都所司代の村井貞勝に命じて、朝廷に将軍・関白・太政大臣の三職を推挙するよう圧力をかけたという説がありますが、私は賛成できません。

村井は日常的に、朝廷から相談事を受けており、このときも、信長の甲州陣の戦勝祝いをしたいけど、どうしたらいいかと相談され、官位でも贈ればいいんじゃない、前年の左大臣を断っておられるから、それ以上なら何でもという程度で、三職ならどうかと決めたのでしょう。

その証拠に、安土に勅使が下ったとき、近臣の森乱(いわゆる蘭丸)に命じて、どのような用件で来たのだと聞いているほど、信長は勅使がやってきた目的に思いあたる節がなかったことを示しています。
また、勅使が何としても会ってほしいと言上しても、用件がわかった信長は「会えば(三職推任)の返事をしなければならない。だから、会うのはどうか。かといって、会わないのも角が立つし、どうしたらよいものか」と、逆に勧修寺晴豊に尋ねているほどです。
そこで、晴豊が「とにかく形だけでも会ってほしい。そうでないと、勅使の面目が立たないから」と答えたので、信長は形だけの対面をしました。
しかし、三職推任の返事はそのときしておりません。なぜかといえば、答えはNOだったから、それを直接伝えるのは勅使の体面を傷つけると、信長が気を遣ったのです。そして、勅使の帰京後、改めてNOの返事を伝えています。

これらのいきさつから、信長が三職推任を強制したものではなく、あくまで朝廷側からの発案でした。信長は勅使の目的さえ知らずに困惑した様子で応対したこと、またNOと答えるのは朝廷に悪いと気を遣ってさえいます。
信長と朝廷の関係(公武協調)の一端がここに示されています。

なお、三職推任については私も関心があったので、拙稿をまとめております。もしよかったら、ご覧になって下さい。

桐野作人「信長への三職推任・贈官位の再検討」 『歴史評論』665号 2005年

2007/02/16(Fri) 10:23 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ご回答、有難うございました
ご回答くださって、有難うございました。
最後の質問ですが、桐野さんは信長の政権構想についてどうお考えになりますか。
2007/02/17(Sat) 04:39 | URL  | 胡 #-[ 編集]
信長の政権構想?
胡さん、こんにちは。

なかなか難しい最後の質問ですね(笑)。
とても答えきれないと思うので少しだけ。

まず一般論として、政権構想や国家体制の成立については、時代的な条件と国際環境を抜きに語れないと思います。それは信長の政権構想とて同様です。

信長の場合、明国を中心とする冊封体制が動揺するとともに、スペイン・ポルトガルの世界帝国が進出してきた時期とも重なり、東アジアの秩序が再編成されようとしていたという国際情勢下にあり、その政権構想も、明国やヨーロッパ勢力と無関係ではありません。

まず国内的な問題からいえば、のちの豊臣政権が推進したような太閤検地や兵農分離という諸政策は信長政権においても同様で、そうした社会構造や身分の再編成が進み、中世から離脱したと思われます。
豊臣政権のそうした社会改革が、朝鮮侵略という対外戦争体制の準備のためになされたように、信長も同様だったのではないかという気がします。

フロイスは、信長が大陸を征服するために艦隊を派遣するつもりだったと述べています。秀吉の朝鮮侵略も、信長の未完の構想を真似たといえるかもしれません。

ただ、対外関係的には、信長と秀吉の違いもあるように思います。
秀吉は朝鮮侵略の思想的・イデオロギー的な前提として「神国思想」を持ち出しました。さら「神国」ゆえに、「叡慮」(天皇の意志)により対外戦争遂行という形をとりました。
一方で、「神国思想」は邪教であるキリシタンの排撃も含んでいます。このことは、秀吉の朝鮮侵略がスペイン・ポルトガル勢力との絶縁によって遂行されることを意味しました。

では、信長はどうだったかといえば、キリシタンと絶縁することはなく、むしろ、スペイン・ポルトガル勢力の軍事力(とくに軍船)を利用する形で展開されたのではないかと思われ、その限りで「神国思想」を必要不可欠のものとしたとはいえないかもしれません。
その際、やはりイデオロギー的な準備が必要で、「神国思想」に代替できるのは、やはり「天下」思想でしょうかね? 天下は決して国内的なものではなく、国境はない、具体的には「唐天竺」までを含み込んでいるかもしれません。
その限りにおいて、信長は天皇=「叡慮」を秀吉ほどには必要としていないともいえるかもしれません。

また近年では、信長の政権構想の究極が「中華皇帝」をめざすことだったのではないかという仮説も登場しております。
それについては、どこまでありえたか、まったくの仮想の話になりますが、フロイスが記しているところをみると、まったくの絵空事でもなかったかもしれません。

とりとめもありませんが、そんなことを考えております。

胡さんのお国に対して、言いたい放題かもしれませんが、歴史研究上での話としてお許し下さい。また上記の仮説も決してナショナリズムを鼓吹するものではありませんので、念のため。
2007/02/18(Sun) 17:54 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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2007/02/18(Sun) 20:53 |   |  #[ 編集]
横レスですが・・・
こんばんは。
クイズは難しくてコメントしづらいので(笑)、信長の成功要因とか政権構想についてコメントします。

桐野さんも言及されたとおり、織田氏は戦国大名としては他とそんなには違っていないんですね。
また、織田政権は室町幕府の権限を継承した性格が強く、政策も特に革新的だったとはいえません。
叡山焼討は足利義教によって既に行われていることですし、鉄砲の大量使用や楽市楽座は畿内近国では以前から見られた現象です。
大きく違う点としては、信長は朝廷から「古今無双の名将」と賞賛され、足利義昭からは「御父」と呼ばれていることですね。こんな戦国大名は他にいません。また、非常に精力的なのも特徴です(戦争をしていないときでも京都と岐阜を頻繁に行き来しています)。
信長が出した様々な書状を見る限り、非常に「外聞」を気にする人であることがわかります。
つまり、朝廷や幕府を復興させる「名将」として天下に恥じない働きをしようと頑張ったら、畿内近国を中心に広範な支持を受けた、ということなんだと思います。
一般的なイメージとは違っていますが、信長は伝統的な秩序観に強くしばられていたんですね。
ですから、信長は彼なりに朝廷に気を遣っていますし、義昭の将軍職を廃しなかったのは、君臣和解を最後まで希望していたからだと思います。
あと、室町幕府の延長線上という性格からして、外国との戦争はあまり考えていなかったと思います。宣教師はいろいろ言っていますが、日本の史料では全く確認できませんから。
2007/02/18(Sun) 21:44 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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