歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第143回
―貴久が歓待、布教も許す―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

キリシタンシリーズが続きます。
じつは年度末の今回で終えるつもりだったのですが、書きたいことが多くてまとめきれず、次回持ち越しとなりました。

今回はシャビエル(ザビエル)と島津貴久の会見が中心でした。
イエズス会側の史料(シャビエルの手紙)はありますが、島津側の史料に記述がないことが惜しまれます。
その頃、島津氏は肝付兼演ら反島津勢力との戦いに全力を傾注していましたから、それどころではなかったともいえます。
それで、記事にも書きましたが、問題はシャビエルと貴久の会見場所はどこかという点。
伊集院の一宇治城が通説ですが、貴久は前記の戦いのため、国分清水城に張り付いていることが多かったのではないかという気がします。
シャビエルの手紙には「鹿児島から五里(5レグワか)」離れた場所に貴久がいたと書かれています。レグワは南欧諸国の度量衡で、現在のスペインやポルトガルでは、1レグワは5キロ前後です。
つまり、鹿児島から20~25キロほど離れた場所にその地はあることになります。
伊集院の一宇治城までは20キロほど。国分清水城は30キロ以上ありますが、もともと大ざっぱな数字ですから、どちらも該当すると考えてよいと思います。

ただ、記事にも書いたように、貴久生母の寛庭夫人が国分清水城にいる可能性は低いといわざるをえません。彼女は一宇治城にいた可能性が高いのではないでしょうか。

あるいは、田布施・伊作といった、もともとの本拠が該当する可能性はないのでしょうか? 両城も鹿児島から20キロほどの所にあります。

アンジローについては、次回が最終回です。
福昌寺の住持、忍室とのやりとりや、その最期などを書く予定です。

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【2010/03/30 09:20】 | さつま人国誌
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