歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第144回
―僧忍室との交流と末路―

連載が昨日、更新になりました。
同紙サイトのここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

キリシタン編の最終回、アンジローも最終回です。
福昌寺の住職忍室との交流を書きました。
この坊さん、意外と面白い人だったんじゃないかと思います。
紙数の関係で詳しく書けませんでしたが、シャビエルが坐禅を組んでいる僧たちが何を瞑想しているのかと問うと、忍室が次のように答えています(フロイス『日本史』6)。

「ある連中は、過去数カ月に、信徒たちからどれだけの収入を得たかを数えており、他の連中は、どこに(行けば)自分たちのためによりよい衣服や待遇がえられようかと思いをめぐらしている。また他の連中は、気晴らしになることや閑つぶしになることを考えているのであって、つまるところ、何か有意義なことを(黙想)しているような者は一人もいないのだ」

思わず笑ってしまいますが、とても聖職者とは思えませんね。
でも、そのほうが人間くさくていいと思います。たとえ僧侶でも。
悟りを開くのは難しいです。

また、シャビエルが別の質問をしています。
それは青年時代と老年時代のどちらがよいかというもの。
忍室は「青年時代だ」と答えています。
その理由は「まだ肉体が病気その他の苦労に煩わされることがないし、何でもしたいことを妨げられずにする自由があるからだ」というもの。思わず、私もうなずいてしまいました。

でも、キリスト教の司祭であるシャビエルはそうは考えません。
船が出港するとき(青年時代)と、長い航海の末、港が目の前に見えたとき(老年時代)を比較すると、後者のほうがうれしいはずだ、前者だと風波や嵐に曝されて大海原に投げ出されたようなものだからという理由からです。

忍室はそれに穏やかに反論して、私はどの港に入るか見分けられないし、まだ決めていないと答えています。
すると、シャビエルは忍室が地位や信望、収入といった名誉や既得権益を失いたくないからだと判断して、忍室は地獄に至る道を選んだと結論づけました。

世俗にまみれた私にすれば、シャビエルの考え方は余計なお世話ですけどね。
老年になっても、迷いがあるのは当然ではないかと思いますが、シャビエルはそうは考えないのですね。

黒白(善と悪、正義と不正義)をはっきりつけるキリスト教と、善悪の境界はあいまいで線が引けないし、互いに転化することもあると考える仏教の違いが出ているように感じます。
やっぱり自分は日本人で、仏教に近いかなとも。

それはともあれ、薩摩のキリシタンのことは勉強になりました。
フロイスやイエズス会関係は日頃からよく使う史料でしたが、ほかに

クラツセ『日本西教史』上・下
ピント『東洋遍歴記』3


とか書名だけは知っていても、あまりなじみのない史料も読んだりして、なかなか刺激的でした。

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【2010/04/06 17:17】 | さつま人国誌
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てげてげ人生
nick
認知症の父と長年過ごしてきましたが、、、
なかなか。。

実際、50を過ぎると体が動かない。。
悔いは残るが、、これもまた人生。。
毎朝、「今日もつつがなく過ごさせて下さい」
とお祈りしています。

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この記事へのコメント
てげてげ人生
認知症の父と長年過ごしてきましたが、、、
なかなか。。

実際、50を過ぎると体が動かない。。
悔いは残るが、、これもまた人生。。
毎朝、「今日もつつがなく過ごさせて下さい」
とお祈りしています。
2010/04/08(Thu) 10:24 | URL  | nick #zFZfUe32[ 編集]
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