歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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ローカルな話題ですが、戦国島津氏のなかで、私が興味ある人物の上位にランクされる人物。

平田増宗(1566~1610)は島津義久の信頼する家老(老中)でした。

島津家久の家督継承に反対する中心人物で、義久の外孫(二女新城の子)の忠仍(ただなお)を擁立しようとしていました。そのため、家久にとっては目の上のコブともいうべき人物です。

400年前の今日(旧暦)、増宗は入来峠近くの土瀬戸越で、家久の密命を受けた押川強兵衛と桐野九郎右衛門によって、鉄砲で至近距離から狙撃されました。
増宗は腰の刀を半分抜きかけたままで絶命したそうです(『薩藩旧伝集』)。
至近距離なら火縄の匂いがしなかったのかという疑問もありますが、風下から狙ったのでしょうか?

後記:私が月日の勘違いをしていました。増宗が暗殺されたのは旧暦6月19日でした。1カ月早まってしまいました。削除するのも何なので、注記したうえでそのままにしておきます。

かつて、ここここで書いたことがあります。
また、最新刊の拙著『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)でも、押川強兵衛の節でこの事件に少し詳しく触れています。
関心のある方はご覧下さい。

なお、下の写真は現在の入来峠の最頂部ですが、写真奧に下ったあたりが暗殺現場となった土瀬戸越です。

土瀬戸越え


平田増宗暗殺は、島津氏が戦国大名から近世大名へと転換するきっかけとなった大きな事件ではないかと思っています。
増宗暗殺の密命は家久だとされていますが、私は義弘も噛んでいると思っています。何より押川強兵衛は義弘の家来ですから。
この事件からわずか半年ほどで義久が他界します。義久は信頼する増宗の死に大きな衝撃を受け、失意のうちに亡くなったのではないかと思います。
義弘・家久父子の事実上のクーデタであり、私は島津氏の系譜がここで切り替わったのではないかと考えているところです。
つまり、日新斎が新たに立てた本宗家は貴久-義久の2代で途絶し、新たに義弘の後見の下、家久の近世島津氏に再編成されたのではないかと。となると、義弘はこの新しい本宗家の中興の祖という位置づけ(旧本宗家の日新斎に相当)もありなんじゃないかと考えられないか。ともあれ、そう考えたほうが鹿児島での過剰なまでの義弘顕彰も合点がいきます。

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【2010/05/19 20:47】 | 戦国島津
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『関ヶ原 島津退き口』
森重和雄
『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)購入したしました。
読むのが楽しみです。

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『関ヶ原 島津退き口』
『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)購入したしました。
読むのが楽しみです。
2010/05/29(Sat) 10:08 | URL  | 森重和雄 #-[ 編集]
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