歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨日夕刻、小学館古文書塾「てらこや」に出講。

特別講座「坂本龍馬と丁卯日記」第2クールが開講した。

事前に当ブログで告知するのも忘れておりました。
忙しかったこともありますが、勘違いもしています。
じつは、第1クールの最終日だとばかり思い込んで、レジュメも作成してしまいました。
同シリーズだったからよかったものの、別のシリーズに変更していたら,大変なミスになるところでした。
受講者のみなさま、すみませんでした。

第2クールが始まったばかりだというのに、もう龍馬は他界しています。
こればっかりは致し方ありません。『丁卯日記』じたいは龍馬が亡くなってからも慶応3年いっぱい続くものですから。

今回は龍馬の死の反響として、大久保利通と岩倉具視の往復書簡を取り上げました。
大久保は重態だった中岡慎太が息を引き取ったと聞いて、
「石川(中岡の変名)もなくなり候由、実に以て慨すべし、惜しむべき事と存じ奉り候」
とその死を悼み、さらに近江屋事件の犯人がわかったと、
「坂本はじめ暴殺の事、いよいよ新撰(新選組)に相違なし」
「第一近藤勇が所為と察せられ申し候」

と新選組、なかんずく近藤勇の仕業だと怒りを発し、近藤に対して、
「実に自滅を招くの表れ」
だと断罪しています。

一方、岩倉も中岡の死を知ると、
「坂(龍馬)・横(横山勘蔵=中岡の変名)の死云々、臣も実に遺憾、切歯の至り、何卒真っ先に復讐致したきもの」
と、2人の仇討ちをしたいとまで激しています。
このあたりのことがもっと知られるようになると(新選組犯行説は大久保らの思い込みですが)、変な説も横行しなくなると思うのですけどね……。

もうひとつは、大政奉還後の徳川慶喜の動向の一端を見ました。
あまり知られていませんが、慶喜はこの時期、国際的な外交交渉に乗り出そうとしていました。それは鎖国攘夷の朝鮮国と仏米間の調停です。慶喜は朝鮮国説得のために使節を派遣しようとしました(最終的には断念)。
これは、朝鮮だけでなく、仏米に対して日本の外交権を保持しているのは自分であると誇示する目的がありました。大政奉還後、慶喜は新政権の首班に就くつもりだったのです。この一件は国際社会に対しての根回しでもあったと思います。

最後に、討幕の密勅見合わせの一件を史料を使って検討しました。
これを明らかにしたのは、故・高橋秀直氏です。
高橋説に従って、中山忠能の史料(日記と履歴資料)を中心に検討しました。
ほとんど知られていませんが、討幕の密勅は薩長だけでなく、芸州・土佐、そして尾張・越前にも降る予定になっていました。しかし、慶喜が大政奉還をしたために、薩長だけに留まったのです。
もし、他の4藩にも降っていたら、その時期の政治勢力の色分けについて、かなり印象が変わるはずです。つまり、薩・長・芸・土・尾・越は同一の政治勢力だと見えるはずで、その内部対立を深刻にとらえることはなくなったに違いありません。密勅こそ4藩には降らなかったものの、実態はそうだったということです。

密勅が大政奉還によって宙に浮いてしまい、その見合わせが倒幕派公家4人(中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之・岩倉具視)の間で検討され、見合わせ沙汰書が作成されましたが、結局、薩長に渡されなかったのではないかと見られます。その理由は薩長両藩の率兵上京に悪影響を与えるから、薩摩が上京してから知らせればよいということでした。実際、上京してきた大久保一蔵に正親町三条などから伝えられています。
この件で、正親町三条の手記『嵯峨実愛手記』を読みました。難解な部分でしたが、受講者からの指摘により、よく理解できました。大久保自身も大政奉還と密勅の矛盾について疑問を抱いていたということが確認できたような気がします。

次回は王政復古政変前夜あたりになるでしょうか。

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【2010/06/30 22:00】 | てらこや
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