歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第155回
―薩英戦争が失脚の原因か―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は中山中左衛門実善の失脚の原因について考えました。
これについては、よく中山の性格的欠陥を指摘されます。

粗暴、度量に乏しい、我意強し(わがまま)

まあ、中山にはそんな面もなかったとはいえません。
しかし、失脚一件を中山の性格だけに問題を限定しては大局を見誤ると思います。

文久2年の久光の率兵上京が幕末政局に大きな衝撃を与えたことは否定できません。
しかし、薩摩藩内レベルの受けとめ方はそれとは様相が異なっていたと思います。
まず、久光権力の特殊なあり方です。久光とその四天王を中心としたグループは藩政そのものより、国事周旋を主な目的として形成されたものです。ですから、藩主茂久と家老を中心とした本来の藩政とは一線を画しています。その証拠に、率兵上京の段階で久光グループには家老がいませんでした。小松帯刀さえも家老に就任するのはもう少しあとです。
つまり、久光権力はとても特殊で、しかも極端な秘密主義でした。これは国事周旋に関与する以上、致し方ない面もあります。

しかし、この久光権力を藩内から見たらどうでしょうか?
連中、何をやろうとしているんだという猜疑心、もしくは国事周旋に深入りして藩を窮地に陥れる恐れはないのかという不安がなかったらウソになります。

そして,期せずして起こった生麦事件をきっかけに、英国と戦争状態に入り、ついに薩英戦争が勃発し、台場の大砲90門近くがすべて破壊され、鹿児島城下も上町を中心に焼失し、集成館も灰燼に帰しました。高価な蒸気船3艘も英国艦隊に焼かれてしまいました。
欧米列強のなかでも最強英国と戦争し、これだけの危機を招き寄せたばかりか、多くの損害・犠牲をもらたした責任は誰が取るのかという声が起きてもおかしくありません。実際そうなりました。

もともと幕府と事を構えたくない保守派、久光の率兵上京に反対した日置派、さらに寺田屋事件で有馬新七らを上意討ちにされた恨みを抱える尊攘派など、久光権力に対する反発や非難は相当なものでした。
久光は引きつづき対英再戦のため、藩内の臨戦体制を構築して内部の引き締めを図りましたが、英国艦隊の強さ、アームストロング砲の威力を前に、厭戦論や再戦反対論が台頭してきました。そしてこちらが多数派の世論を形成した可能性が高いです。

そうなると、久光権力の維持・延命のためには、誰かが責任を取らなければならない。
そのとき、その性格から独断専行して具体的な失策をいくつか犯した中山がスケープゴートにされたということではないでしょうか。中山が一番切りやすかった、中山を切ったらみなが納得したということだったのではないかという気がします。

その意味では中山には気の毒な面がありますね。
もし反対派の声がもっと高かったら、久光権力そのものが解体したかもしれません。そうなると、久光は隠居、小松も大久保も失脚、下手したら腹を切らされていたかもしれません。こうなったら、明治維新の歴史も変わったでしょう。
また堀仲左衛門も江戸藩邸放火の一件が幕府に露見したため、江戸や京都での国事周旋ができなくなりました。
久光四天王は薩英戦争を前後して、4人のうち2人も脱落してしまいました。

久光の率兵上京は大きな成果があった半面、藩内的には大きなリスクを抱えたチャレンジだったことがよくわかります。

次回は明治になってからの中山を書きます。
意外な成り行きになります。

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【2010/07/06 22:51】 | さつま人国誌
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No title
ばんない
「中山実善」全3回拝読させて頂きました。ラストで大久保利通と意外な関わり方をする、と予告されてましたが、本当に想像を超える意外なラストでしたね…。
『翔ぶが如く』で深水三章氏のねちっこい演技が印象的だった中山でしたが、当然ながら失脚後のことは説明がなかったので、今回の話は驚きでした。

また、島津久光に対して藩内で反感(?)を持っていたのが西郷隆盛だけじゃなかったこと、それが性格的な問題ではなくて、久光の権力のありように発する物だっただったという指摘は興味深かったです。
久光は藩主になったことも当然なく、正式には世子だったこともなかったのですが、そういう人が国政の表舞台に登場して(無理矢理乱入して?)権力をふるったというのは、幕末という時代を考える上で興味深いです。何かの論文(今タイトルを失念しましたが)で、久光が公式に官位をもらったことが幕藩体制の崩壊の一つのきっかけになった、という話を読んだことがあるのですが、久光自身は当初幕藩体制をつぶそうという気はなかった様子であったことなどを考えると、大変皮肉な話だと感じました。

久光の官位
桐野
ばんないさん、こんにちは。

拙稿を読んでいただき、有難うございます。

中山はかつての同輩である大久保の出世をどういう思いで見ていたんでしょうね?

久光の官位については、以前、私も書いた覚えがあります。
武家官位(大名と一部の旗本)は幕府から与えられるというのが当時の常識でした。
ところが、久光は朝廷から近衛少将を与えられました。
これが幕府の官位叙任権に風穴が開けられるきっかけになりました。
久光は徳川将軍には絶対従わないという覚悟があったのも、官位の一件がかなり影響していると思われます。


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No title
「中山実善」全3回拝読させて頂きました。ラストで大久保利通と意外な関わり方をする、と予告されてましたが、本当に想像を超える意外なラストでしたね…。
『翔ぶが如く』で深水三章氏のねちっこい演技が印象的だった中山でしたが、当然ながら失脚後のことは説明がなかったので、今回の話は驚きでした。

また、島津久光に対して藩内で反感(?)を持っていたのが西郷隆盛だけじゃなかったこと、それが性格的な問題ではなくて、久光の権力のありように発する物だっただったという指摘は興味深かったです。
久光は藩主になったことも当然なく、正式には世子だったこともなかったのですが、そういう人が国政の表舞台に登場して(無理矢理乱入して?)権力をふるったというのは、幕末という時代を考える上で興味深いです。何かの論文(今タイトルを失念しましたが)で、久光が公式に官位をもらったことが幕藩体制の崩壊の一つのきっかけになった、という話を読んだことがあるのですが、久光自身は当初幕藩体制をつぶそうという気はなかった様子であったことなどを考えると、大変皮肉な話だと感じました。
2010/07/14(Wed) 22:01 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
久光の官位
ばんないさん、こんにちは。

拙稿を読んでいただき、有難うございます。

中山はかつての同輩である大久保の出世をどういう思いで見ていたんでしょうね?

久光の官位については、以前、私も書いた覚えがあります。
武家官位(大名と一部の旗本)は幕府から与えられるというのが当時の常識でした。
ところが、久光は朝廷から近衛少将を与えられました。
これが幕府の官位叙任権に風穴が開けられるきっかけになりました。
久光は徳川将軍には絶対従わないという覚悟があったのも、官位の一件がかなり影響していると思われます。
2010/07/16(Fri) 21:53 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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