歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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第28回「武市の夢」

ドラマ進行時点は慶応元年(1865)閏5月頃のはずですが……。

いよいよ武市半平太と岡田以蔵の最期を迎えました。
でも、龍馬が牢獄で半平太と対面するとか、山内容堂が獄中の半平太を訪れるとか、フィクション満開ですな。もう笑うしかないです。

刑死直前の半平太と獄中で対面した龍馬ですが、史実のうえでは、とっくに薩摩藩に招聘されて、鹿児島に行き、5月初旬には西郷吉之助宅に宿泊しています。さらに同月、熊本の横井小楠に面会し、次いで太宰府に行き、三条実美ら五卿にも会っています。
半平太が切腹した閏5月11日前後には桂小五郎と会見し、薩長和解を説き、西郷と桂の会見をセッティングするところまで事態は進行しています(もっとも会見は西郷がキャンセル)。
すでに龍馬が本格的に国事周旋に乗り出している時期なのに、ドラマではなぜ獄中の半平太と会ったりしてるんでしょうね。時系列の混乱も極まっています。

そして、もっとも大きいフィクションは半平太が容堂に吉田東洋暗殺を告白したことです。これって、相当罪深いプロットでは。何より半平太への冒涜じゃないですかね。

前回書きそびれたのですが、半平太をはじめとする土佐勤王党は半平太たちが入獄したのち、連絡を取り合って獄中と獄外で闘争を開始します。それは土佐勤王党の矜持を守る闘いでもあり、形を変えた反上士闘争でもありました。ですから、半平太は獄中から他の同志たちに頻繁に指令を出しています。そして、この戦線から脱落して、この闘争の破壊者に転じた岡田以蔵の毒殺も考えたわけです(ただし未遂)。
以蔵については、今回その純朴な性格を半平太に利用された「犠牲者」というイメージで描いています。
しかし、以蔵も土佐勤王党に血判して加盟した以上、あくまで同党を守り、同志間の信義を重んじる責務があるわけですが、それを捨て去った脱落者,離反者になったのは客観的に明らかです。
その人間的な弱さには憐憫の情もないわけではありませんが、過度な贔屓の引き倒しも一面的すぎてどうかという気がします。

藩内では7郡の勤王党の同志たちが密接に連携し、半平太ら獄中同志を支援すべく、一部は蜂起まで実行しています。有名な野根山の決起です。この決起が藩中に拡がることを恐れた藩庁では、清岡道之助など23名を捕縛し、問答無用で斬罪に処しているほどです。
野根山
野根山23士の墓

この闘争は、半平太たちにとって自分たちの生命よりも、下士としての誇りとプライドを守るものでした。
ですから、前回の龍馬の「大芝居」はこの闘いの意味をどこまで理解しているのかと首をかしげざるをえません。
門外漢のお節介は軽率の極みではないかと。

それと、ドラマで強調される吉田東洋暗殺一件ですが、これも大きな問題ではありましたが、吟味した藩庁側もそれほど深く追及しておりません。それというのも、下士や勤王党以外にも半平太のシンパが存在したからです。
その最大のものは藩主豊範と、容堂の弟民部といった山内一門です。ほかにも吉田東洋排除の一点で連携した門閥派もいました。
東洋暗殺を厳しく吟味すると、これら山内一門や門閥派にも累が及ぶ可能性がありましたから、おのずとその追及の矛先は鈍りました。
東洋暗殺一件は半平太たちが頑として供述を拒み、最後まで真相が明らかになりませんでした。
この厳然たる史実を枉げることはいかがなものでしょうか? 極端にいえば、これでは何でもありということになりませんか。

半平太に切腹を命じた「申渡書」は次のとおりです。

「  武市半平太
 去る酉年(文久元年)以来、天下の形勢に乗じ、窃か(ひそか)に党与を結び、人心煽動の基本を醸造し、爾来、京師に於いて高貴の御方へ容易ならざる儀屡々(しばしば)申し上げ、将又(はたまた)ご隠居(容堂)様へ屡々不届きの儀申し上げ候事共、総じて臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を紊乱し、言語道断、重々不届きの至り、屹度(きっと)ご不快に思し召され、厳科に処せらるべき筈の処、ご慈悲を以て、切腹これを仰せ付けらる」


これには東洋暗殺一件などどこにも書いてありません。
強調されているのは、京師での国事周旋、容堂や上司への不届きな振る舞いがあったという漠然とした理由しか挙げられておりません。
これは半平太が断固として供述を拒んだと同時に、藩庁側もこういう抽象的な形でしか処分できずに、体面を維持するしかなかったことを示しています。ある意味、半平太は獄中闘争に勝利したともいえましょう。

こうした半平太の闘い(獄中生活1年8カ月に及ぶ)を見るにつけ、史実には厳粛に敬意を払って取り扱うべきではないかと思うのは私だけでしょうか?

なお、南会所での半平太の切腹場面ですが、これはある程度史実に沿っていましたね。
お気づきの方も多いと思いますが、半平太は念入りに腹を横に3回、つまり腹三文字にかっさばきました。
介錯人は半平太の希望が容れられ、親戚の島村寿太郎(妻富の弟)と小笠原保馬がつとめました。
2人は半平太の脇腹を6回刺したところで、絶命したとか。
(上記部分、2人が介錯し損ねて6度も切ったという趣旨で書きましたが、私の勘違いでしたので、下記の史料を提示して訂正します)

『竹井瑞山関係文書』に、この現場に立ち合ったらしい五十嵐文吉の手記「武市半平太最期ノ始末」が掲載されています。それには次のようにあります。

「半平太坐に著くと左右へ介錯人寿太郎・保馬著す、半平太より両人へ御苦労と挨拶致し、懐剣を取り抜き、中身を能く/\見、三宝へ置き、諸肩引き抜き、帯際を押くつろげ、懐剣を取り木綿切にて刃を押し巻き腹へ突き立て、三この通り三段に切り剣を右へ置き手を突き、うつ伏に俯す、是にて介錯人両方より脇腹を刺す、六刀計りにて絶息に至る」

2人の介錯人が脇腹を6回刺して絶命させたということらしいです。
1人で3回ずつなのか、1人で6回ずつなのかはわかりませんが。
介錯というから、首を刎ねたとばかり思っていたのですが、そうではなかったです。
なお、記主の五十嵐は、半平太が長い獄中生活で身体が衰弱していて,自力で歩行できず、牢の下番の肩にかからないといけないほどだったと書き、

「最後如何と存じたる処、其時の潔く勇々敷ことには孰れも(いずれも)舌を巻きたり、惜しむべし」

と,半平太の堂々たる最期に感嘆しています。

半平太最期
武市半平太最期の地

以蔵墓
岡田以蔵の墓

土佐勤王党の闘いは激烈苛酷、陰惨で複雑な面も持ち合わせていましたが、土佐藩が明治維新に関与する培養基となったことは紛れもない事実です。その評価は難しいとは思いますが、安易なデフォルメを戒め、もう少し史実に敬意を払うべきではないかと感じました。

次回からは第3部が始まるようですね。

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【2010/07/12 10:52】 | 龍馬伝
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No title
エス
いつも楽しく拝見しています。
フィクション満開な件について私も同意です。
どうしても獄中の武市と龍馬が会う映像がとりたかったのでしょうか。
武市の介錯に六太刀要したというのは初めて聞きました。
どの資料に書かれていますか?


まったくです。
wada
>史実には厳粛に敬意を払って取り扱うべきではないか

まったく、そのとおりと思います。
脚本家はこのドラマを史劇ではなく、自分の思いどおりに創作しているように思えます。
それと、前々回でしたか、龍馬と西郷が会談している遠景で、変な動きをする薩摩藩士たちが描かれていました。よくみると、なんとなく薬丸自顕流の「抜き」から「かかり」に転じ、横木を打つという稽古の様子らしかったのですが、あまりにもお粗末な技指導だったのでしょう、似て非なるものになっていました。がっかりでした。
あの木刀づかいでは、抜き即斬は到底ムリ、何も斬れません。

期待しております。
NAO4@吟遊詩人
いつも、お教えいただきありがとうございます。

今回の記事は、熱が入ってますね。
でも、史実の方がよっぽど面白そうですが、

是非、桐野作人作 「土佐勤皇党階級闘争史」を上梓いただき、大河ドラマ化お願いしたいです。

予定の1年を超えても終わらず、2年ごしになるとか。(笑)
↑冗談です。失礼のほどスイマセンです。

Re: 勘違い
桐野
エスさん、はじめましてでしょうか?

半平太の切腹の様子ですが、私が少し勘違いをしてました。
「介錯」とあるので、首を刎ねたと思っていたのですが、そうではなく、左右から脇腹を6回刺したということのようですね。

本文に関連史料を提示して訂正しておきましたので、詳しくはそちらをご覧下さい。



在りし日の「翔ぶがごとく」
桐野
wadaさん、こんにちは。

昨今のドラマの大衆迎合的な作り方を見るにつけ、たとえば「翔ぶがごとく」のような、いにしえの骨太なドラマが懐かしくなりますね。
史実とフィクションのバランスを失うと、興ざめしてしまいます。

ご指摘の自顕流の稽古場面、たしかに西郷の後景にぼんやりと写っていたのを覚えています。
まあ、そんな遠景にまで力を入れて作らないのでしょうね。お嘆きのほど、お察しします。


事実は小説よりも奇なり
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、お久しぶりです。

小手先のフィクションより、史実のほうがなんぼか面白いですね。
やはり、史実は当時の人々が真剣に考えて行動した結果が反映しているわけで、成功、失敗に関係なく、後世の私たちの心を揺さぶる何かがあるのだと思います。それこそ史実の重さというものでしょう。

「土佐勤皇党階級闘争史」!
勘弁して下さい(笑)。
土佐藩の上士と下士の対立は「階級闘争」とは少し趣が違うような気もしますね。
だいたい、私は土佐の幕末維新史には疎いのです(汗)。


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この記事へのコメント
No title
いつも楽しく拝見しています。
フィクション満開な件について私も同意です。
どうしても獄中の武市と龍馬が会う映像がとりたかったのでしょうか。
武市の介錯に六太刀要したというのは初めて聞きました。
どの資料に書かれていますか?
2010/07/12(Mon) 19:31 | URL  | エス #-[ 編集]
まったくです。
>史実には厳粛に敬意を払って取り扱うべきではないか

まったく、そのとおりと思います。
脚本家はこのドラマを史劇ではなく、自分の思いどおりに創作しているように思えます。
それと、前々回でしたか、龍馬と西郷が会談している遠景で、変な動きをする薩摩藩士たちが描かれていました。よくみると、なんとなく薬丸自顕流の「抜き」から「かかり」に転じ、横木を打つという稽古の様子らしかったのですが、あまりにもお粗末な技指導だったのでしょう、似て非なるものになっていました。がっかりでした。
あの木刀づかいでは、抜き即斬は到底ムリ、何も斬れません。
2010/07/12(Mon) 23:30 | URL  | wada #EBUSheBA[ 編集]
期待しております。
いつも、お教えいただきありがとうございます。

今回の記事は、熱が入ってますね。
でも、史実の方がよっぽど面白そうですが、

是非、桐野作人作 「土佐勤皇党階級闘争史」を上梓いただき、大河ドラマ化お願いしたいです。

予定の1年を超えても終わらず、2年ごしになるとか。(笑)
↑冗談です。失礼のほどスイマセンです。
2010/07/13(Tue) 01:32 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
Re: 勘違い
エスさん、はじめましてでしょうか?

半平太の切腹の様子ですが、私が少し勘違いをしてました。
「介錯」とあるので、首を刎ねたと思っていたのですが、そうではなく、左右から脇腹を6回刺したということのようですね。

本文に関連史料を提示して訂正しておきましたので、詳しくはそちらをご覧下さい。

2010/07/14(Wed) 09:29 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
在りし日の「翔ぶがごとく」
wadaさん、こんにちは。

昨今のドラマの大衆迎合的な作り方を見るにつけ、たとえば「翔ぶがごとく」のような、いにしえの骨太なドラマが懐かしくなりますね。
史実とフィクションのバランスを失うと、興ざめしてしまいます。

ご指摘の自顕流の稽古場面、たしかに西郷の後景にぼんやりと写っていたのを覚えています。
まあ、そんな遠景にまで力を入れて作らないのでしょうね。お嘆きのほど、お察しします。
2010/07/14(Wed) 10:29 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
事実は小説よりも奇なり
NAO4@吟遊詩人さん、お久しぶりです。

小手先のフィクションより、史実のほうがなんぼか面白いですね。
やはり、史実は当時の人々が真剣に考えて行動した結果が反映しているわけで、成功、失敗に関係なく、後世の私たちの心を揺さぶる何かがあるのだと思います。それこそ史実の重さというものでしょう。

「土佐勤皇党階級闘争史」!
勘弁して下さい(笑)。
土佐藩の上士と下士の対立は「階級闘争」とは少し趣が違うような気もしますね。
だいたい、私は土佐の幕末維新史には疎いのです(汗)。
2010/07/14(Wed) 10:36 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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