歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第158回
―鹿児島士族との連携図る―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は会津藩家老だった山川浩を取り上げました。
彼も薩摩との縁があります。それは戊辰戦争や西南戦争、妹捨松と大山巌との結婚だけではありません。

斗南藩の大参事として、士族救済に奔走した明治初年から同5年の間に、山川は薩摩に入っています。
ほとんど知られてない史実だと思います。
しかも、西郷隆盛への直訴や、島津久光系の復古派の鹿児島士族との交流をひそかに図っていたようです。
これは戊辰の怨念だけに基づいた行動ではないのかもしれません。
もう少し詳しいことがわかれば面白いのですが……。

西南戦争までの10年間、いわゆる不平士族といわれる人々の裾野が予想以上に広がっていたような気がします。
中山中左衛門と山川浩という、本来なら関係がなさそうな人々さえ、どこかでつながっているのかもしれません。

次回取り上げる人物もその系統の人物です。
これまた、意外な人物です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
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【2010/07/27 13:19】 | さつま人国誌
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さわだ
本文とは関係なくてすいません(笑。
先生が出された「島津の退き口」を読ませていただこうと思ってます。
幕末人気ですが、関ヶ原がいわば維新の原点でもありますので、
いまだに謎が多い島津軍の動きを先生流にどう解析されておられるのか楽しみにしております。


不平の質
坐忘
密偵の記録が重要史料になっているのが面白いですね。
山川浩も自藩の命運を背負って必死だったのがよく伝わってきます。
合併に反対したのが大隈重信だったというのが微妙なところですね。
彼を抜擢した小松帯刀が元気で生きていればどうなっていたか、興味深いところです。
斗南の横の弘前の菊池九郎の場合は、西郷を敬愛していて「不平」の質が自ずと違っていたようです。
会津と薩摩は何かと相性のよさを感じます。
白洲正子も、松平容保の孫にあたる節子(秩父宮勢津子妃殿下)さんと同級生として親友だったようですね。

山川豊
ばんない
こんばんは。前回の予告で「まさか」と思っていた、そのまさかの人だったのでニヤニヤしています(汗)。ちなみに、この人の名前を見ると、何故かこのコメントのタイトルで書いた演歌歌手の顔が浮かんでしまいます…苗字が同じ、かつ名前が漢字一字という共通点があるのでイメージがすり込まれてしまったようで(汗)

しかし、内容は全く知らない話だったのでビックリしました。よりによって、仇敵とも言える島津久光との連携を目指していたとは、驚きです。山川浩、戊辰戦争とその後の斗南藩の悲劇と、西南戦争後の一転した出世物語ばかりが注目されますが、なかなか策士な一面を持った人物なのかも知れませんね。

さて、余談?で書かれた『不如帰』の話ですが、これのせいで大山捨松はかなり不快な思いをしたようですね。



御礼
桐野
さわださん、こんにちは。

拙著を購入されるとか。有難うございます。
現在重版の印刷中なので、できれば、もう少し待っていただき、重版分の購入をお勧めします。誤植などを直していますから。
今後ともよろしく。

士族の不満
桐野
座忘さん、はじめまして。

明治初年の在野の士族を「不平士族」と呼びますが、語弊のある呼び方で再考が必要ではないかとずっと思っておりました。

明治初年、大久保利通らが進める政府の政策は、今日からみれば、相当大胆で野心的な改革だったと思います。
とくに全面的な欧化政策には、士族を中心に不安や反発があって当たり前だったでしょう。
そうした不満の行き着く先が、保守派の重鎮である島津久光であり、政府の重職にありながら下野した西郷隆盛だったのでしょうね。当人たちが望むと望まないとにかかわらず。

山川が戊辰の因縁を超えて鹿児島に行ったのも、そうした広い意味での士族の不満を表していたのでしょうね。

大山捨松
桐野
ばんないさん、こんにちは。

山川浩だと予想されていたんですか。さすがですね。

「不如帰」では捨松さんは嫁いびりをする姑に描かれているそうですな、ちゃんと読んだことないですけど(汗)。
何となく、民放の昼メロにふさわしい題材ですね(笑)。

大山巌はあの顔に似合わず西洋かぶれで、洋装の貴婦人然とし、英語を流暢に操る捨松にひと目ぼれしたんでしょうね。
むしろ、こちらこそ小説やドラマになってもいいといいという気がしますが。

因縁
ばんない
こんばんは。

久野明子『鹿鳴館の貴婦人・大山捨松』によれば、徳富蘆花は某華族夫人(実名不詳)から聞いた伝聞情報をネタにして『不如帰』を書いたそうです。ちなみに久野明子氏は大山巌の曾孫に当たります。

穿った見方をすれば、華族社会という狭い世間の中で、どうも大山捨松が浮き上がってしまっていた様子がうかがえます。早くから留学していてアメリカナイズされていて華やか(悪く言えば派手)な女性だったので、他の華族女性から見ると鼻持ちならない女と思われて根拠のない噂を立てられたように想像されます。

同様な女性に同志社創始者・新島襄の妻であった八重子がいます。彼女は留学経験はなかった物の「ハンサムウーマン」と夫に言われるような欧米ナイズされたところがあったようで、夫の死後、同志社の運営に関わった他の人たちとあわなかった部分があったようです。同志社出身であった徳富蘇峰とも不仲だったようで。

奇しくも大山捨松と新島八重子は会津藩出身、しかも”悪評”の背景にいたのが徳富兄弟というのが何とも因縁を感じさせます。

大山捨松と新島八重子
桐野
ばんないさん、こんばんは。

大山捨松と新島八重子のエピソード有難うございます。

うちの近所は蘆花恒春園(徳富蘆花終焉の地)で、蘆花の小さな資料館があります。そのなかに「不如帰」関係の資料が展示されていたのを思い出しました。

以前、中村半次郎の恋人、村田さとの墓を探しに、東山の同志社墓地に登りました。
八重子の墓のそばに蘇峰の墓もありました。死後の世界では仲がよい感じでした(笑)。

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この記事へのコメント
本文とは関係なくてすいません(笑。
先生が出された「島津の退き口」を読ませていただこうと思ってます。
幕末人気ですが、関ヶ原がいわば維新の原点でもありますので、
いまだに謎が多い島津軍の動きを先生流にどう解析されておられるのか楽しみにしております。
2010/07/27(Tue) 14:20 | URL  | さわだ #h5y3zjyM[ 編集]
不平の質
密偵の記録が重要史料になっているのが面白いですね。
山川浩も自藩の命運を背負って必死だったのがよく伝わってきます。
合併に反対したのが大隈重信だったというのが微妙なところですね。
彼を抜擢した小松帯刀が元気で生きていればどうなっていたか、興味深いところです。
斗南の横の弘前の菊池九郎の場合は、西郷を敬愛していて「不平」の質が自ずと違っていたようです。
会津と薩摩は何かと相性のよさを感じます。
白洲正子も、松平容保の孫にあたる節子(秩父宮勢津子妃殿下)さんと同級生として親友だったようですね。
2010/07/27(Tue) 21:35 | URL  | 坐忘 #BbVmplvY[ 編集]
山川豊
こんばんは。前回の予告で「まさか」と思っていた、そのまさかの人だったのでニヤニヤしています(汗)。ちなみに、この人の名前を見ると、何故かこのコメントのタイトルで書いた演歌歌手の顔が浮かんでしまいます…苗字が同じ、かつ名前が漢字一字という共通点があるのでイメージがすり込まれてしまったようで(汗)

しかし、内容は全く知らない話だったのでビックリしました。よりによって、仇敵とも言える島津久光との連携を目指していたとは、驚きです。山川浩、戊辰戦争とその後の斗南藩の悲劇と、西南戦争後の一転した出世物語ばかりが注目されますが、なかなか策士な一面を持った人物なのかも知れませんね。

さて、余談?で書かれた『不如帰』の話ですが、これのせいで大山捨松はかなり不快な思いをしたようですね。

2010/07/29(Thu) 22:54 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
御礼
さわださん、こんにちは。

拙著を購入されるとか。有難うございます。
現在重版の印刷中なので、できれば、もう少し待っていただき、重版分の購入をお勧めします。誤植などを直していますから。
今後ともよろしく。
2010/07/30(Fri) 12:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
士族の不満
座忘さん、はじめまして。

明治初年の在野の士族を「不平士族」と呼びますが、語弊のある呼び方で再考が必要ではないかとずっと思っておりました。

明治初年、大久保利通らが進める政府の政策は、今日からみれば、相当大胆で野心的な改革だったと思います。
とくに全面的な欧化政策には、士族を中心に不安や反発があって当たり前だったでしょう。
そうした不満の行き着く先が、保守派の重鎮である島津久光であり、政府の重職にありながら下野した西郷隆盛だったのでしょうね。当人たちが望むと望まないとにかかわらず。

山川が戊辰の因縁を超えて鹿児島に行ったのも、そうした広い意味での士族の不満を表していたのでしょうね。
2010/07/30(Fri) 12:45 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
大山捨松
ばんないさん、こんにちは。

山川浩だと予想されていたんですか。さすがですね。

「不如帰」では捨松さんは嫁いびりをする姑に描かれているそうですな、ちゃんと読んだことないですけど(汗)。
何となく、民放の昼メロにふさわしい題材ですね(笑)。

大山巌はあの顔に似合わず西洋かぶれで、洋装の貴婦人然とし、英語を流暢に操る捨松にひと目ぼれしたんでしょうね。
むしろ、こちらこそ小説やドラマになってもいいといいという気がしますが。
2010/07/30(Fri) 12:56 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
因縁
こんばんは。

久野明子『鹿鳴館の貴婦人・大山捨松』によれば、徳富蘆花は某華族夫人(実名不詳)から聞いた伝聞情報をネタにして『不如帰』を書いたそうです。ちなみに久野明子氏は大山巌の曾孫に当たります。

穿った見方をすれば、華族社会という狭い世間の中で、どうも大山捨松が浮き上がってしまっていた様子がうかがえます。早くから留学していてアメリカナイズされていて華やか(悪く言えば派手)な女性だったので、他の華族女性から見ると鼻持ちならない女と思われて根拠のない噂を立てられたように想像されます。

同様な女性に同志社創始者・新島襄の妻であった八重子がいます。彼女は留学経験はなかった物の「ハンサムウーマン」と夫に言われるような欧米ナイズされたところがあったようで、夫の死後、同志社の運営に関わった他の人たちとあわなかった部分があったようです。同志社出身であった徳富蘇峰とも不仲だったようで。

奇しくも大山捨松と新島八重子は会津藩出身、しかも”悪評”の背景にいたのが徳富兄弟というのが何とも因縁を感じさせます。
2010/08/06(Fri) 00:06 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
大山捨松と新島八重子
ばんないさん、こんばんは。

大山捨松と新島八重子のエピソード有難うございます。

うちの近所は蘆花恒春園(徳富蘆花終焉の地)で、蘆花の小さな資料館があります。そのなかに「不如帰」関係の資料が展示されていたのを思い出しました。

以前、中村半次郎の恋人、村田さとの墓を探しに、東山の同志社墓地に登りました。
八重子の墓のそばに蘇峰の墓もありました。死後の世界では仲がよい感じでした(笑)。
2010/08/07(Sat) 22:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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