歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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第31回「西郷はまだか

ドラマ進行時点は慶応元年(1865)閏5月頃か。

ようやく本日再放送を観ました。
時系列が混乱しているのと、龍馬の居所がフィクションばかりなので、肝心の薩長和解の流れが寸断されて、よくわからないようになってますね。

その最大の要因は、龍馬やその仲間たちの鹿児島行きをスルーしてしまったことです。
それはかなり意図的な操作と思われ、薩摩藩が長州との和解に前年の元治元年暮れあたりからすでに乗り出したこと、つまり、龍馬の登場とは別のところで、すでに薩長和解が動き出していたことを意識的に無視し、薩長和解における龍馬の主導権を強調し、薩摩藩の迷いや逡巡を際立たせることにあるのでしょう。

龍馬は同年5月に鹿児島に行き、西郷の世話になっています。その後、薩摩を出国した龍馬が横井小楠、太宰府の三条実美ら、長州の桂小五郎に会ったのは単なる偶然ではなく、薩摩藩の意向を受けての行動だと推測するのが合理的です。
でも、史実どおりに描くと、龍馬の主導権を表現できなくなるので、鹿児島行きを無視するしかなかったということでしょう。だから、龍馬は長崎から太宰府に行くという変なことになっています。陸奥陽之助も同行していないと思います。

西郷はすでに前年の元治元年(1864)12月、豊前小倉で、中岡慎太とも会い、さらに筑前藩の月形洗蔵や早川養敬らの勧めで馬関海峡を渡り、下関で長州藩の諸隊長と会見しています。すでに薩長和解のレールは敷かれていたのです。
龍馬の役割はそれを促進したことであり、主導したわけではありません。

また、中岡慎太はバリバリの尊攘派浪士で、八・一八政変ののち、都落ちした七卿の警固にあたり、禁門の変では戦って足に負傷し、その後も太宰府に移った五卿の警固にあたるかたわら、長州諸隊のひとつ、南園隊総督になっています。そして京都をはじめ各所に情報収集と国事周旋のために出かけています。
先ほど述べたように、中岡はすでに小倉で西郷と会っています。このとき、中岡は筑前藩の早川養敬の従者に扮し、あわよくば西郷を斬るつもりだったようですが、西郷に説得されてしまいました。
それをきっかけに、中岡は仇敵だったはずの薩摩藩に急速に接近し、上京して薩摩藩邸に入り、西郷だけでなく、大久保一蔵、小松帯刀、吉井幸輔らと交流しているほどです。まさしく龍馬の軌跡と立場こそ違え、好一対といってよいです。

龍馬も中岡も薩長両藩に人脈があり、その和解に奔走するだけの理由と役割があったといえます。
なお、ドラマでは両者が太宰府の五卿の宿舎で再会したことになっていましたが、これはフィクションです。
龍馬が三条らを訪ねたのは5月24日。
その頃、中岡は上京して薩摩藩邸におり、24日当日は伏見にいます。両者が太宰府で会うはずがないのです。

そして、西郷が桂との会見をキャンセルしてしまったとされる一件ですが、ドラマでは急用があるから下関に寄らずに上京するという通説に疑問を感じていたのか、西郷たちが乗り込んでいた薩摩藩船に幕府の間諜が忍び込んでいたという設定になっていました。残念ながら、そんな話は聞いたことがありません。

このとき、西郷らの船は長崎に向かう西回りではなく、日向沿岸を行く東回りをとっています。これは大坂方面に行く目的のほうが強いですし、中岡が下船したのは国東半島よりずっと南の佐賀関です。近年、西郷キャンセル事件の通説に疑問が出されていますが、果たして、西郷と桂の会見はどれくらい現実性があったのか、中岡が薩摩側から確たる言質をとったのかどうか、なかなか確定的なことはいえないうようです。

西郷が下関に寄る予定はあったのかどうか。どうもそういう情勢ではなかったのではないかと、私には思われます。
というのは、西郷に先立ち、すでに大久保が上京していましたが、長州再征がにわかに現実性を帯び、しかも将軍家茂も近いうちに上京してくるのが確実でした。
薩摩藩は第一次長州征伐で、西郷が戦争をせずに長州の謝罪を引き出した既成事実があります。ですから、長州再征は無理で大義名分がないという立場から、薩摩藩は出兵を拒絶する態度を表明しようとしていました。これは幕府との対決を鮮明にすることで、薩摩藩が反幕の立場に大きく踏み込むことを意味します。だからこそ、京都の大久保たちは一刻も早い西郷の上京を望んでいたと思われます。

この流れからいえば、そもそも下関寄港は日程に組み込まれていなかったか、仮に桂との会見が予定されていたのをキャンセルしたとしても、その代わりに西郷が長州再征反対論を京都で主張することは、間接的には長州藩の利益につながります。
桂ならば、そういた大局観が理解できないはずがありません。西郷はどちらにしろ、長州を裏切っていないし、その意図もないのです。

余談ながら、武市半平太が切腹したのは閏5月11日で、龍馬と中岡が薩長和解に奔走しているときです。龍馬はすでに下関で桂と会見したあと、中岡は鹿児島で西郷を説得中のときです。ドラマでは両者が太宰府で会ったとき、武市の遺志を継ぐみたいなセリフを述べていましたが、実際はまだ武市は生きていますぞ。
ドラマ構成上、致し方ないのでしょうが、時系列の混乱はかくのごとしです。

龍馬の仕事でもっとも大事な所を描いているはずですが、史実からあまりにも乖離しすぎていて、どうも観たいという気が起きませぬ。したがって、この感想もいつまで続くか……。

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【2010/08/07 21:19】 | 龍馬伝
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感想うんぬん
市川
桐野先生、こんばんは。

先生の史実的な解釈を読めば読むほど、大河ドラマの龍馬像がもはや単なる龍馬大好きファンのためのものに成り下がっている感じがします。私の郷土は鹿児島なのですが、幕末ではとことん薩摩藩は悪者扱い、いかに敗者に優しい日本文化といえども、もう少し国を作った人達に敬意を表して欲しいものです。

9月に榎木孝明さん主演で映画「半次郎」をやるらしいので、それを見てあの時代の余韻に浸ろうと思います。



意図的ですね
桐野
市川さん、こんにちは。

たしかに薩摩が損な役回りですね。対照的に長州はよく描かれています。

以前、脚本家は山口県出身だと教えてもらいました。勘繰りたくはないですけどね。

贔屓したり、肩入れしたり、疎外したりというのではなく、史実に敬意を払った(全面的に史実に基づくべきという意味ではありません)ドラマが観たいだけなんですけどね。

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感想うんぬん
桐野先生、こんばんは。

先生の史実的な解釈を読めば読むほど、大河ドラマの龍馬像がもはや単なる龍馬大好きファンのためのものに成り下がっている感じがします。私の郷土は鹿児島なのですが、幕末ではとことん薩摩藩は悪者扱い、いかに敗者に優しい日本文化といえども、もう少し国を作った人達に敬意を表して欲しいものです。

9月に榎木孝明さん主演で映画「半次郎」をやるらしいので、それを見てあの時代の余韻に浸ろうと思います。

2010/08/08(Sun) 00:13 | URL  | 市川 #-[ 編集]
意図的ですね
市川さん、こんにちは。

たしかに薩摩が損な役回りですね。対照的に長州はよく描かれています。

以前、脚本家は山口県出身だと教えてもらいました。勘繰りたくはないですけどね。

贔屓したり、肩入れしたり、疎外したりというのではなく、史実に敬意を払った(全面的に史実に基づくべきという意味ではありません)ドラマが観たいだけなんですけどね。
2010/08/08(Sun) 17:41 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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取材で出かけており、戻ってきたのが3日の午前様。 なんとか録画までは観たのですが、そこで力尽きました。 今回は亀山社中設立からの話ですが、どうもこの薩長同盟の流れが、 本筋を欠いてしまっているので気持ち悪いです。 亀山社中設立後、龍馬は陸奥とともに大宰府に行
2010/08/08(Sun) 07:08:36 |  shugoroの日記
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