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今川義元墓

昨日、内輪の研究会仲間のKさんから、黒田日出男氏の表題論文をいただいた。感謝。

黒田日出男「桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』」 『立正史学』100号、2006年

桶狭間合戦の新説である。

長く通説となっていた旧参謀本部の「迂回奇襲説」が、藤本正行氏に批判されて、新たに「正面攻撃説」が有力な仮説となっていることはよく知られている。

そんななか、黒田氏は桶狭間合戦の研究史を三つの時期に分けて、その内容や画期を次のように提示している。

第Ⅰ期:参謀本部の「迂回奇襲説」
第Ⅱ期:藤本氏の定説批判と「正面攻撃説」

藤本氏の主な著作は次の2点である。

『信長の戦争軍事学』 JICC出版局 1993年
『信長の戦争』 講談社学術文庫 2003年


そして、1997年以降の研究が第Ⅲ期であり、藤本説の再検討の時期だということだが、まだ批判の段階で新たな仮説が提示されているわけではないという把握のしかたである。
なお、黒田氏は第Ⅲ期において、藤本説の「正面攻撃説」を批判し、再検討の必要性を示唆したものとして拙稿を取り上げている。学術誌ではなく商業誌に書いたものまでチェックしているのはさすがである。過大評価かもしれないが、有難いことだ。

拙稿「桶狭間合戦 信長は籠城案を退けて正面攻撃をしかけたか?」 『歴史読本』01年12月号

黒田氏の藤本説批判の要点は、『信長公記』の記述からは「正面攻撃説」を導き出せないというもので、この点には私も同感である。
また、黒田氏は「奇襲」や「正面攻撃」などの用語の定義を明らかにしたうえでないと、論争が生産的にならないとも指摘している。これもそのとおりだろう。
藤本氏の「正面攻撃説」は、いわゆる白昼堂々の「正面強襲説」ともいうべきものであり、敵の今川方に攻撃の企図を隠さないで、その全容を晒しての攻撃だという趣旨であろう。

そして、黒田氏が藤本氏の「正面攻撃説」を批判して提示するのが、「乱取状態急襲説」である。
今川軍は織田方の鷲津・丸根の両砦を落とし、さらに織田軍の攻撃をいったん撃退した。その戦勝に浮かれて兵士たちが乱取している隙をつき、信長本隊がそれに紛れるようにして、義元の本陣に近づき急襲したという結論である。

その史料的根拠は、表題にあるように『甲陽軍鑑』である。意外なことで驚く人も多いことだろう。
同書には「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方(味方)のやうに入まじり」云々という記述があり、今川軍兵士の乱取に紛れて接近する信長本隊が描かれている。
黒田氏の紹介によれば、『甲陽軍鑑』には桶狭間合戦の記事が随所に出てくる。私もこんなに多いのかと驚いたほどである。
さらに黒田氏は『信長公記』に、信長本隊の進撃ルートなどが省略されているのは理由があるとし、乱取の隙をつくという、あまりかっこよくない戦い方による勝利を具体的に記述するのを意図的に避けたとする。

なかなか興味深い新説だといえるが、すぐに納得できるかといえば、首をひねる方も多いのではないだろうか。

まずは、『甲陽軍鑑』の記事の信頼性の問題である。近年、『甲陽軍鑑』の史料的価値は再評価されつつあるといっても、武田氏や山本勘助に関する記述について誇張や歪曲など疑問視されている部分があるのに、他国の記述がどこまで信頼できるのかという素朴な疑問もあるだろう。

個人的には、『信長公記』に出てくる「山際」の解釈が気になった。黒田氏は「山際」を、義元本陣がある「おけはざま山」(桶狭間山)の麓と理解しているが、それでいいのだろうか?
この問題は、織田軍の迎撃体制や信長本隊の進路に関わる重要な点だと思っているが……。

ともあれ、停滞気味だった桶狭間合戦研究に、新たな波紋を投げかけたものであり、今後の論争が興味深い。

写真は桶狭間古戦場にある今川義元の供養塔

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【2007/02/23 21:42】 | 信長
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板倉丈浩
こんばんは。20000アクセス、おめでとうございます。
そういえば最初にここに書き込んだとき、ニフティでのやりとりと言われて、ちょっと思い至らなかったのですが、ひょっとして、あの方の官名をハンドルにもつあの方だったのでしょうか・・・?(今頃気づくなよ<自分)
大変失礼いたしました。これからも気ままなコメントが多いと思いますが、ご容赦くださいませ。

さて、桶狭間ですが、正面攻撃か迂回奇襲かについては、本隊より十町ほど先行していた松井兵部少輔が本隊の危機を知り引き返して戦死した(桶狭間合戦記)とか、間道から襲撃されたため七段の備えが無駄になった(老人雑話)等、諸史料がほぼ一致して織田軍の迂回を前提にした記述となっていることから、迂回はしていたんじゃないかと考えています。
信長公記の「山際まで御人数寄せられ候処」の記述は、中島砦東方の丘陵地帯を迂回して太子ヶ根の山麓で待機したとすれば、他の諸史料とそれほど矛盾しませんし。

ただし、従来いわれてきたような、信長が義元の本陣位置を探知しての襲撃ではなく、中島砦周辺で戦端を開き、慌てて救援に向かった今川軍が東海道を西進するところを横合いから攻撃した、というのが真相のような気がします。
つまり、今川軍は大高城周辺で戦う先手と沓掛城を出撃してこれを支援する後詰に分かれていたのですが、後者の動きが鈍く互いに離れていたので、信長はそこにつけ込んだのではないかということです。移動中の部隊を叩ければ兵力差は関係ないですし。
まあ、信長は「運は天にあり」なんて言っていますから(信長公記)、実際には出たとこ勝負で、勝ったのはたまたまだったのかもしれませんが・・・(^^;

あと、諸史料では今川本陣の「後の山」に廻ったとありますので(甫庵信長記、家忠日記、総見記、続明良洪範など)、織田軍が待機したのが太子ヶ根であるとすれば、今川本陣は、2つの古戦場跡や例の65mの丘よりはもう少し西北、有松駅南方の丘陵地帯(名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根とあるあたり)の方が、今川軍の布陣地「桶狭間山」としてはふさわしいような気がします。
ここからなら、従来の候補地より、主戦場である鳴海方面への眺望も良さそうなんですよね・・・。
地図とにらめっこしながら(笑)、そんなことを考えました。

史料批判
桐野
板倉さん

長文のコメント有難うございます。

迂回したかどうかについては、狭間筋(のち東海道)を通らずに、その東側に回り込むルートならすべてと定義すれば、まったくありえなかったことではないと、私も思っています。

ただ、迂回したか否かを、どの史料に基づいて認定するかという問題だと思うんですね。

桶狭間合戦については一次史料はほとんどなく、編纂史料ばかりです。とくに近世になってからのそれはたくさんあるので、際限がありません。
そこで、藤本氏が採用した方法論は、『信長公記』を根本史料に、『三河物語』など比較的信頼できるとされる史料を補助的に利用するという形で、使う史料をばっさりと刈り取ってしまったわけですね。

私はそれもひとつの考え方だと思います。
ただ、藤本説はその方法論を徹底していないように見受けられます。藤本説は上で述べたように、史料批判によって禁欲的な態度をとっていますが、考察と結論は必ずしも禁欲的とはいえません。『信長公記』が根本史料なら、同書でここまではいえるというのではなく、結論(正面攻撃)が飛躍しているように、私には思えます。

その点を徹底させてみたうえで、他の史料をどこまで活用して何がいえるかだと思うのですけど、拙稿でも申したように、藤本説によって切り捨てられた『甫庵信長記』がまったくの創作ではなくて、どうやら『信長公記』異本(天理本のことですが)を下敷きにしている可能性があり、そうなると、藤本説の方法論自体が揺らいでくると、ご紹介した黒田日出男氏は指摘しています。

なかなか難しい問題ですね。

『甫庵信長記』の桶狭間
かわい
>桐野さん、板倉さん
 以前、原稿のネタに使ったので、『甫庵信長記』はかなり読み込んだのですが、あの文章から通説の迂回ルートを読み取ることは不可能です。中島砦から北へ取って返したという記述もなく、素直に読むと狭間の東西どちらかの山際を移動したと解釈するしかないため、藤本説と大差のない移動経路を想定することになるはずです。
 それと「後の山」への移動ですが、『甫庵信長記』では信長がそう命令してはいますが、実際に移動する段では例の大雨の描写が挟まり、次はもう敵陣を見下ろす山の上の話になります。そこが目標の「後の山」であるかどうかは定かではなく、もちろん太子ヶ根に直結するような描写にもなっていません。ある意味、どうとでも解釈できる内容だと思います。
 藤本氏の『甫庵信長記』批判は、その影響を受けた後世の編纂物の分まで含めて槍玉に上げている観があり、いくらなんでも行き過ぎている気がします。

藤本説について
板倉丈浩
桐野さん、かわいさん、レスありがとうございます。
お二方のご指摘は私も同意見ですが、私なりに整理してみます。
藤本氏の正面攻撃説は次の2つの前提によって成立している説だと思います。

1,中島砦東方の丘陵地帯に「今川前軍」が布陣している。
2,中島砦を出撃した信長は「東向きに」戦闘を開始した。

1について、藤本氏は「彼自身は旗本とともに後方にいたとしても、その前方に一部隊(仮に「前軍」と呼ぶ)を進出させ、中嶋・善照寺の両砦を牽制したはずである」とするだけで典拠を示していません。
2については、信長公記の「東に向てかゝり給ふ」を根拠にしているようですが、その直前に今川軍敗走と信長の下知(義元旗本への攻撃命令)が書かれていますので、これは追撃にかかる記述と見るのが自然でしょう。
つまり、さんざん史料批判を展開しながら、肝心要の部分が「はずである」とか、牽強付会の解釈に陥ってしまっているわけで、小瀬甫庵や参謀本部への批判はバランスを欠いていると言わざるを得ません。

これ以外にも、信長公記がこの合戦を「天文廿一年」としている点について、藤本氏は「後世の加筆であろう」とするだけで、なぜ、こんな明らかに間違った記述が加筆(?)されたのかについて、全く考察がないのも問題です(ちなみに、甫庵信長記は正しく「永禄三年」としています)。
信長公記が比較的良質な史料であることは否定しませんが、基本的には後世編纂した軍記であり、史書として扱うときは注意が必要だと思います。
特に合戦の描写などは、他の軍記物と比較しても、大げさな記述が目立ちますので。

桶狭間合戦記
桐野
>かわいさん、板倉さん

参謀本部編『日本戦史』の「迂回奇襲」説の典拠は同書には書かれていなかったように思いますが、どうやら表題の史料のようです。

これは19世紀、つまり、江戸後期の編纂物で、山崎真人という尾張藩関係者が叙述したものです。なお、それに先行する同名の編纂物を、やはり尾張藩重臣の山澄英竜(1625-1703)が著していますが、現存していないとか。山崎のそれはこの山澄本の内容に近いと言われているようです。
表題の同書は『豊明市史』資料編補二に全文収録されており、『朝野旧聞襃藁』にも抜粋して収録してあります。

それで、同書に何と書いてあるかというと、

「爰に於て、信長自ら引率せらるゝ人数ハ、善照寺砦の東の峡間へ引分け、勢揃へして三千兵となり、(中略)諸士ハ、はや勝ちたる心地して、即ち旗を巻き兵を潜め中嶋より相原村へ掛り、山間を経て、太子根の麓に至る」

これを読むと、『日本戦史』の「迂回奇襲」説の根拠がいい加減であることがわかります。善照寺砦から東後方の「峡間」へという進路は、まず起点が不正確(ほんとは中嶋砦から)なうえに、いかにも不自然な進路を採用しています。

さらに後半部分を読むと、ますますおかしいですね。
東後方の「峡間」へと進路を秘匿して迂回したはずなのに、いつの間にか「中嶋」(中嶋砦)に現れて、ここから「相原村」(中嶋砦の東方に相原という地名あり)を経て太子根に至っています。

おそらく参謀本部は同書の不自然で矛盾した記述を誤読したものと思われます。善照寺砦から「東の峡間」を行くというのは、『桶狭間合戦記』の筆者も勘違いしたのかどうかわかりませんが、どう考えてもおかしいです。
むしろ、後半部分の中嶋→相原村→(山間)→太子根というルートなら、それほど不自然な進路ではありません。
どうも、『桶狭間合戦記』と『日本戦史』双方の不幸な勘違いの相互作用から、「迂回奇襲」説が生まれたようですね。

一方、私も内輪の報告で書いたのですが、かわいさんご指摘の『甫庵信長記』だけでなく、ほかにも『織田軍記』(総見記)『松平記』など、いわゆる評判の悪い近世の軍記物も決して「迂回奇襲」説を採用していません。これらの軍記物はいい意味で、『信長公記』首巻からそれほど逸脱していません。つまり、創作の度合いがかなり低いです。

したがって、『日本戦史』がいい加減だからといって、『甫庵信長記』などの軍記物も一緒に葬り去るのは無謀です。これらの軍記物も『信長公記』との関連で、比較検討されてしかるべきだと思います。


昔の話題に乱入してすいません。
かぎや散人
こんにちは。
相当時間がたってしまった話題なので恐縮なのですが、眼にとまったものですから、一言?参加させていただいても宜しいでしょうか。

実は、小生は『日本戦史』が「迂回奇襲」説の根拠にしたといわれる山崎真人の『桶狭間合戦記』には、それほど非合理なところはないと考えます。勿論、その結論に賛成するか、その説が正しいかということは別の問題としてのことですが・・・。

先生が紹介された文章は、「信長公は自らが引率されてきた人数の多くを、善照寺砦の東の峡間の方へ分離して敵の目から隠して、そこで勢揃をさせたのだが、その時点での信長の兵力は三千であった。」と訳せると、小生は思います。

「引分け」は信長が率いてきた軍勢を二つに分けたのであって、山間の狭間に分け入ったわけではないと思います。
ですから、先生のおっしゃられるような「善照寺砦から東の峡間へ行く」というようなルーとを採ったと著者が書いたとは思えないのです。

そして、そこで善照寺砦の「東の峡間」というのは、これが朝日出であると思うのですが、正確には善照寺からみるとちょっと東北になります。しかし、東でも不正確だとは言えない程度です。丹下砦からみますと東になります。

それに、信長の軍事行動としては、率いてきた二千からの軍勢の全てを善照寺砦に集めることは問題があります。
それは、そんなことをしたならば混雑してしまうからです。
ですから、信長は丹下を出発するときに、後続の兵士には朝日出で軍勢を整えるように指示したはずなのです。兵士を集合し整列させるには広いところが良いからですし、善照寺砦の外曲輪では手狭になるからです。
なぜなら、善照寺砦の本郭は東西60m、南北36mといわれていまして2,160㎡位になります。それに一人当り一坪半(約5㎡)~三坪(約10㎡)を当てはめてみますと、約220~430人の兵力しか籠れず、そこには既に佐久間一族が守備しているのですから、信長と多少の随行兵以上は受け入れることは難しいからです。
そして、二の曲輪が鳴海城側にあったと思われるのですが、そこの広さも本郭の三倍程度しかとれないように思えます。古城図が手元にないので確認はできませんが・・・。

それに、熱田を出発した信長は揉みに揉んで駆けつけているのですから、後続する将兵も軍列の乱れなどはお構いなしに追従したものと思われます。
ですから、足の速いものと遅いものは離れ離れになっており、善照寺に着いても原隊とは逸れてしまい、整列するのは大変だったと考えます。

このようなわけで、『桶狭間合戦記』の記述は、地理的におかしなところはないと思います。
「東の峡間」にあたる朝日出から中嶋へ移り、今度は扇川の左岸(ここは相原村に相当します)を東行して、半ノ木へ掛り、山間(神明~明願~細根山~現有松駅裏)を経て太子根の麓に至ると山澄英竜や山崎真人が考えても不自然でもおかしなところもないと思います。

このような説を採られる人には、現在では梶野渡氏がおられまして、『尾張の歴史・桶狭間合戦の真相に迫る』に書いておられます。
小生は、梶野説に賛成できないのですが、それは、信長が中島砦から扇川の川底を走ったとされるからです。しかし、陸上を行くのであれば行けなくはないのです。

また、天保十二年五月の鳴海村村絵図をみますと、相原村は扇川の左岸も村域に含んでいますから、おそらく合戦当時も相原村地であったと見てもよいのではないでしょうか。そして、天保十二年には半ノ木から細根までは道があります。・・・当時もあったとは言えませんから、織田勢が山中を行ったとするのであれば、山崎真人の考えた経路に問題はないと考えることができると思います。

長々と自説を述べてしまいましたが、いかがなものでしょうか。



お説有難うございます
桐野作人
かぎや散人さん、おはようございます。

ご意見、有難うございます。
いま、別件のため頭が桶狭間モードに切り替わっていないため、よく考えてみます。すぐのコメントはお許し下さい。

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この記事へのコメント
こんばんは。20000アクセス、おめでとうございます。
そういえば最初にここに書き込んだとき、ニフティでのやりとりと言われて、ちょっと思い至らなかったのですが、ひょっとして、あの方の官名をハンドルにもつあの方だったのでしょうか・・・?(今頃気づくなよ<自分)
大変失礼いたしました。これからも気ままなコメントが多いと思いますが、ご容赦くださいませ。

さて、桶狭間ですが、正面攻撃か迂回奇襲かについては、本隊より十町ほど先行していた松井兵部少輔が本隊の危機を知り引き返して戦死した(桶狭間合戦記)とか、間道から襲撃されたため七段の備えが無駄になった(老人雑話)等、諸史料がほぼ一致して織田軍の迂回を前提にした記述となっていることから、迂回はしていたんじゃないかと考えています。
信長公記の「山際まで御人数寄せられ候処」の記述は、中島砦東方の丘陵地帯を迂回して太子ヶ根の山麓で待機したとすれば、他の諸史料とそれほど矛盾しませんし。

ただし、従来いわれてきたような、信長が義元の本陣位置を探知しての襲撃ではなく、中島砦周辺で戦端を開き、慌てて救援に向かった今川軍が東海道を西進するところを横合いから攻撃した、というのが真相のような気がします。
つまり、今川軍は大高城周辺で戦う先手と沓掛城を出撃してこれを支援する後詰に分かれていたのですが、後者の動きが鈍く互いに離れていたので、信長はそこにつけ込んだのではないかということです。移動中の部隊を叩ければ兵力差は関係ないですし。
まあ、信長は「運は天にあり」なんて言っていますから(信長公記)、実際には出たとこ勝負で、勝ったのはたまたまだったのかもしれませんが・・・(^^;

あと、諸史料では今川本陣の「後の山」に廻ったとありますので(甫庵信長記、家忠日記、総見記、続明良洪範など)、織田軍が待機したのが太子ヶ根であるとすれば、今川本陣は、2つの古戦場跡や例の65mの丘よりはもう少し西北、有松駅南方の丘陵地帯(名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根とあるあたり)の方が、今川軍の布陣地「桶狭間山」としてはふさわしいような気がします。
ここからなら、従来の候補地より、主戦場である鳴海方面への眺望も良さそうなんですよね・・・。
地図とにらめっこしながら(笑)、そんなことを考えました。
2007/02/23(Fri) 23:24 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
史料批判
板倉さん

長文のコメント有難うございます。

迂回したかどうかについては、狭間筋(のち東海道)を通らずに、その東側に回り込むルートならすべてと定義すれば、まったくありえなかったことではないと、私も思っています。

ただ、迂回したか否かを、どの史料に基づいて認定するかという問題だと思うんですね。

桶狭間合戦については一次史料はほとんどなく、編纂史料ばかりです。とくに近世になってからのそれはたくさんあるので、際限がありません。
そこで、藤本氏が採用した方法論は、『信長公記』を根本史料に、『三河物語』など比較的信頼できるとされる史料を補助的に利用するという形で、使う史料をばっさりと刈り取ってしまったわけですね。

私はそれもひとつの考え方だと思います。
ただ、藤本説はその方法論を徹底していないように見受けられます。藤本説は上で述べたように、史料批判によって禁欲的な態度をとっていますが、考察と結論は必ずしも禁欲的とはいえません。『信長公記』が根本史料なら、同書でここまではいえるというのではなく、結論(正面攻撃)が飛躍しているように、私には思えます。

その点を徹底させてみたうえで、他の史料をどこまで活用して何がいえるかだと思うのですけど、拙稿でも申したように、藤本説によって切り捨てられた『甫庵信長記』がまったくの創作ではなくて、どうやら『信長公記』異本(天理本のことですが)を下敷きにしている可能性があり、そうなると、藤本説の方法論自体が揺らいでくると、ご紹介した黒田日出男氏は指摘しています。

なかなか難しい問題ですね。
2007/02/24(Sat) 19:44 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
『甫庵信長記』の桶狭間
>桐野さん、板倉さん
 以前、原稿のネタに使ったので、『甫庵信長記』はかなり読み込んだのですが、あの文章から通説の迂回ルートを読み取ることは不可能です。中島砦から北へ取って返したという記述もなく、素直に読むと狭間の東西どちらかの山際を移動したと解釈するしかないため、藤本説と大差のない移動経路を想定することになるはずです。
 それと「後の山」への移動ですが、『甫庵信長記』では信長がそう命令してはいますが、実際に移動する段では例の大雨の描写が挟まり、次はもう敵陣を見下ろす山の上の話になります。そこが目標の「後の山」であるかどうかは定かではなく、もちろん太子ヶ根に直結するような描写にもなっていません。ある意味、どうとでも解釈できる内容だと思います。
 藤本氏の『甫庵信長記』批判は、その影響を受けた後世の編纂物の分まで含めて槍玉に上げている観があり、いくらなんでも行き過ぎている気がします。
2007/02/24(Sat) 20:52 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
藤本説について
桐野さん、かわいさん、レスありがとうございます。
お二方のご指摘は私も同意見ですが、私なりに整理してみます。
藤本氏の正面攻撃説は次の2つの前提によって成立している説だと思います。

1,中島砦東方の丘陵地帯に「今川前軍」が布陣している。
2,中島砦を出撃した信長は「東向きに」戦闘を開始した。

1について、藤本氏は「彼自身は旗本とともに後方にいたとしても、その前方に一部隊(仮に「前軍」と呼ぶ)を進出させ、中嶋・善照寺の両砦を牽制したはずである」とするだけで典拠を示していません。
2については、信長公記の「東に向てかゝり給ふ」を根拠にしているようですが、その直前に今川軍敗走と信長の下知(義元旗本への攻撃命令)が書かれていますので、これは追撃にかかる記述と見るのが自然でしょう。
つまり、さんざん史料批判を展開しながら、肝心要の部分が「はずである」とか、牽強付会の解釈に陥ってしまっているわけで、小瀬甫庵や参謀本部への批判はバランスを欠いていると言わざるを得ません。

これ以外にも、信長公記がこの合戦を「天文廿一年」としている点について、藤本氏は「後世の加筆であろう」とするだけで、なぜ、こんな明らかに間違った記述が加筆(?)されたのかについて、全く考察がないのも問題です(ちなみに、甫庵信長記は正しく「永禄三年」としています)。
信長公記が比較的良質な史料であることは否定しませんが、基本的には後世編纂した軍記であり、史書として扱うときは注意が必要だと思います。
特に合戦の描写などは、他の軍記物と比較しても、大げさな記述が目立ちますので。
2007/02/26(Mon) 23:11 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
桶狭間合戦記
>かわいさん、板倉さん

参謀本部編『日本戦史』の「迂回奇襲」説の典拠は同書には書かれていなかったように思いますが、どうやら表題の史料のようです。

これは19世紀、つまり、江戸後期の編纂物で、山崎真人という尾張藩関係者が叙述したものです。なお、それに先行する同名の編纂物を、やはり尾張藩重臣の山澄英竜(1625-1703)が著していますが、現存していないとか。山崎のそれはこの山澄本の内容に近いと言われているようです。
表題の同書は『豊明市史』資料編補二に全文収録されており、『朝野旧聞襃藁』にも抜粋して収録してあります。

それで、同書に何と書いてあるかというと、

「爰に於て、信長自ら引率せらるゝ人数ハ、善照寺砦の東の峡間へ引分け、勢揃へして三千兵となり、(中略)諸士ハ、はや勝ちたる心地して、即ち旗を巻き兵を潜め中嶋より相原村へ掛り、山間を経て、太子根の麓に至る」

これを読むと、『日本戦史』の「迂回奇襲」説の根拠がいい加減であることがわかります。善照寺砦から東後方の「峡間」へという進路は、まず起点が不正確(ほんとは中嶋砦から)なうえに、いかにも不自然な進路を採用しています。

さらに後半部分を読むと、ますますおかしいですね。
東後方の「峡間」へと進路を秘匿して迂回したはずなのに、いつの間にか「中嶋」(中嶋砦)に現れて、ここから「相原村」(中嶋砦の東方に相原という地名あり)を経て太子根に至っています。

おそらく参謀本部は同書の不自然で矛盾した記述を誤読したものと思われます。善照寺砦から「東の峡間」を行くというのは、『桶狭間合戦記』の筆者も勘違いしたのかどうかわかりませんが、どう考えてもおかしいです。
むしろ、後半部分の中嶋→相原村→(山間)→太子根というルートなら、それほど不自然な進路ではありません。
どうも、『桶狭間合戦記』と『日本戦史』双方の不幸な勘違いの相互作用から、「迂回奇襲」説が生まれたようですね。

一方、私も内輪の報告で書いたのですが、かわいさんご指摘の『甫庵信長記』だけでなく、ほかにも『織田軍記』(総見記)『松平記』など、いわゆる評判の悪い近世の軍記物も決して「迂回奇襲」説を採用していません。これらの軍記物はいい意味で、『信長公記』首巻からそれほど逸脱していません。つまり、創作の度合いがかなり低いです。

したがって、『日本戦史』がいい加減だからといって、『甫庵信長記』などの軍記物も一緒に葬り去るのは無謀です。これらの軍記物も『信長公記』との関連で、比較検討されてしかるべきだと思います。
2007/02/28(Wed) 23:41 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
昔の話題に乱入してすいません。
こんにちは。
相当時間がたってしまった話題なので恐縮なのですが、眼にとまったものですから、一言?参加させていただいても宜しいでしょうか。

実は、小生は『日本戦史』が「迂回奇襲」説の根拠にしたといわれる山崎真人の『桶狭間合戦記』には、それほど非合理なところはないと考えます。勿論、その結論に賛成するか、その説が正しいかということは別の問題としてのことですが・・・。

先生が紹介された文章は、「信長公は自らが引率されてきた人数の多くを、善照寺砦の東の峡間の方へ分離して敵の目から隠して、そこで勢揃をさせたのだが、その時点での信長の兵力は三千であった。」と訳せると、小生は思います。

「引分け」は信長が率いてきた軍勢を二つに分けたのであって、山間の狭間に分け入ったわけではないと思います。
ですから、先生のおっしゃられるような「善照寺砦から東の峡間へ行く」というようなルーとを採ったと著者が書いたとは思えないのです。

そして、そこで善照寺砦の「東の峡間」というのは、これが朝日出であると思うのですが、正確には善照寺からみるとちょっと東北になります。しかし、東でも不正確だとは言えない程度です。丹下砦からみますと東になります。

それに、信長の軍事行動としては、率いてきた二千からの軍勢の全てを善照寺砦に集めることは問題があります。
それは、そんなことをしたならば混雑してしまうからです。
ですから、信長は丹下を出発するときに、後続の兵士には朝日出で軍勢を整えるように指示したはずなのです。兵士を集合し整列させるには広いところが良いからですし、善照寺砦の外曲輪では手狭になるからです。
なぜなら、善照寺砦の本郭は東西60m、南北36mといわれていまして2,160㎡位になります。それに一人当り一坪半(約5㎡)~三坪(約10㎡)を当てはめてみますと、約220~430人の兵力しか籠れず、そこには既に佐久間一族が守備しているのですから、信長と多少の随行兵以上は受け入れることは難しいからです。
そして、二の曲輪が鳴海城側にあったと思われるのですが、そこの広さも本郭の三倍程度しかとれないように思えます。古城図が手元にないので確認はできませんが・・・。

それに、熱田を出発した信長は揉みに揉んで駆けつけているのですから、後続する将兵も軍列の乱れなどはお構いなしに追従したものと思われます。
ですから、足の速いものと遅いものは離れ離れになっており、善照寺に着いても原隊とは逸れてしまい、整列するのは大変だったと考えます。

このようなわけで、『桶狭間合戦記』の記述は、地理的におかしなところはないと思います。
「東の峡間」にあたる朝日出から中嶋へ移り、今度は扇川の左岸(ここは相原村に相当します)を東行して、半ノ木へ掛り、山間(神明~明願~細根山~現有松駅裏)を経て太子根の麓に至ると山澄英竜や山崎真人が考えても不自然でもおかしなところもないと思います。

このような説を採られる人には、現在では梶野渡氏がおられまして、『尾張の歴史・桶狭間合戦の真相に迫る』に書いておられます。
小生は、梶野説に賛成できないのですが、それは、信長が中島砦から扇川の川底を走ったとされるからです。しかし、陸上を行くのであれば行けなくはないのです。

また、天保十二年五月の鳴海村村絵図をみますと、相原村は扇川の左岸も村域に含んでいますから、おそらく合戦当時も相原村地であったと見てもよいのではないでしょうか。そして、天保十二年には半ノ木から細根までは道があります。・・・当時もあったとは言えませんから、織田勢が山中を行ったとするのであれば、山崎真人の考えた経路に問題はないと考えることができると思います。

長々と自説を述べてしまいましたが、いかがなものでしょうか。

2007/12/21(Fri) 14:51 | URL  | かぎや散人 #jOGvZT7o[ 編集]
お説有難うございます
かぎや散人さん、おはようございます。

ご意見、有難うございます。
いま、別件のため頭が桶狭間モードに切り替わっていないため、よく考えてみます。すぐのコメントはお許し下さい。
2007/12/23(Sun) 09:20 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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