歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第164回
―「大蔵谷回駕」で流罪に―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

伊牟田尚平シリーズの第4回です。
今回は伊牟田が流罪になるきっかけとなった事件である「大蔵谷回駕」を取り上げました。
といっても、あまりご存じない向きもあるかと思います。大蔵谷は現在の兵庫県明石市にあり、山陽道の宿場町でした。事件のことは連載記事を読んでいただけたらと思います。

それにしても、伊牟田をはじめとした薩摩藩や諸藩の尊攘派と、久光周辺はものの見事に思惑がすれ違っているのですが、それを知ってか知らずか、あるいは久光側を尊攘派側に巻き込もうとしたのか、伊牟田たちは懸命な工作をします。

それが伊牟田と平野国臣の暴走となってあらわれたのが「大蔵谷回駕」です。
井伊大老と同じ目に遭っていいのかという脅し文句もすごいですが、一脱藩浪士の一言に動揺して参勤交代の行列を返す黒田家もまた軟弱ですなあ……。

この一件が黒田家から久光に伝えられて、伊牟田は流罪になります。
流謫先については2説あり、トカラ列島の悪石島と大隅諸島のうちで屋久島の北方にある硫黄島(鬼界ヶ島)です。
伊牟田はのちに種子島に流謫先が変更になるのですが、「種子島家譜」80には「七島」から移されてきたとあります。「七島」はトカラ列島のことだと思われますので、悪石島を採用しました。

この流罪は伊牟田に2年半ほどの活動の空白をもたらしましたが、一面幸運だったかもしれません。
流罪にならなければ、寺田屋事件に巻き込まれていた可能性が高いです。そうなったら、落命したかもしれません。

次回はいよいよ江戸での攪乱工作あたりになりそうです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
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【2010/09/21 10:10】 | さつま人国誌
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ながお
桐野様 こんばんわ

大藩の殿様を欺くなんて、こんな大それたことをしてよく命があったなと思うのですが、流罪は軽かった方ですか。

地元?!
ばんない
ご無沙汰しております
桐野さんの話では珍しく兵庫県関連の地名が出てきたのでしゃしゃり出てきました。

大蔵谷は何回か車で通ったことがあり、「西国街道の面影なんてみじんもなかったような」と思ったら、あるところにはあるみたいです。
http://matinami.o.oo7.jp/kinki2/akasiookura.htm
また、大蔵谷は幕末の一瞬のみ機能していた「徳川道」の西側の起点だったようですが、東側の起点が、ちょうど我が家の近く?にあります。とんでもない坂道ですが…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E8%A1%97%E9%81%93#.E5.BE.B3.E5.B7.9D.E9.81.93

言路洞開
桐野
ながおさん

一介の脱藩浪士が藩主に会える、あるいは大藩に影響力を行使するというのは、考えてみれば大変なことですよね。

でも、この時代、一介の浪士が藩主と面会したことはよくあります。

たとえば、坂本龍馬も松平春嶽に会っています。
松平容保も藤本鉄石ら攘夷派の浪士を引見しています。
薩摩藩でも、久光ではないですが、小松帯刀や大久保正助らは伊牟田に会っています。

なぜ大藩の藩主が一介の浪士に会うかといえば、ひとつは脱藩浪士や草莽浪士(非武士身分)たちの力が侮れなくなっていたこと。

もうひとつは当時の思潮として、大藩の藩主が自分たちの度量の大きさを示す尺度として、「言路洞開」(げんろとうかい)、つまり身分を問わない一定の言論の自由と透明性を掲げていたからです。いわば、来る者拒まぬという態度を示せば、藩主個人とその藩の評判もよくなるということを計算してのことでしょう。

もっとも、伊牟田と平野の場合は明らかに身分詐称したうえに脅迫していますから、罪に問われるのは当然だと思います。
下手をすれば、処刑されてもおかしくなかったはずです。それをしなかったのは、攘夷派浪士集団からの報復を恐れていたからでしょう。




地元!!
桐野
ばんないさん

そうでした。ばんないさんの地元でしたね。

私も大蔵谷は名前だけは知っていたのですが、じつは行ったことがありません。
ここはおそらく、西郷が2回目に島流しになるとき、大久保が西郷に刺し違えようと迫ったことと関連がある場所ではなかったかと。

古い町並みも残っているようですから、一度は行ってみたいものです。


ながお
桐野様

ありがとうございました。浪士の力を過小評価していたようです。勉強になりました。

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コメント
この記事へのコメント
桐野様 こんばんわ

大藩の殿様を欺くなんて、こんな大それたことをしてよく命があったなと思うのですが、流罪は軽かった方ですか。
2010/09/21(Tue) 19:12 | URL  | ながお #-[ 編集]
地元?!
ご無沙汰しております
桐野さんの話では珍しく兵庫県関連の地名が出てきたのでしゃしゃり出てきました。

大蔵谷は何回か車で通ったことがあり、「西国街道の面影なんてみじんもなかったような」と思ったら、あるところにはあるみたいです。
http://matinami.o.oo7.jp/kinki2/akasiookura.htm
また、大蔵谷は幕末の一瞬のみ機能していた「徳川道」の西側の起点だったようですが、東側の起点が、ちょうど我が家の近く?にあります。とんでもない坂道ですが…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E8%A1%97%E9%81%93#.E5.BE.B3.E5.B7.9D.E9.81.93
2010/09/21(Tue) 23:45 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
言路洞開
ながおさん

一介の脱藩浪士が藩主に会える、あるいは大藩に影響力を行使するというのは、考えてみれば大変なことですよね。

でも、この時代、一介の浪士が藩主と面会したことはよくあります。

たとえば、坂本龍馬も松平春嶽に会っています。
松平容保も藤本鉄石ら攘夷派の浪士を引見しています。
薩摩藩でも、久光ではないですが、小松帯刀や大久保正助らは伊牟田に会っています。

なぜ大藩の藩主が一介の浪士に会うかといえば、ひとつは脱藩浪士や草莽浪士(非武士身分)たちの力が侮れなくなっていたこと。

もうひとつは当時の思潮として、大藩の藩主が自分たちの度量の大きさを示す尺度として、「言路洞開」(げんろとうかい)、つまり身分を問わない一定の言論の自由と透明性を掲げていたからです。いわば、来る者拒まぬという態度を示せば、藩主個人とその藩の評判もよくなるということを計算してのことでしょう。

もっとも、伊牟田と平野の場合は明らかに身分詐称したうえに脅迫していますから、罪に問われるのは当然だと思います。
下手をすれば、処刑されてもおかしくなかったはずです。それをしなかったのは、攘夷派浪士集団からの報復を恐れていたからでしょう。


2010/09/22(Wed) 20:55 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
地元!!
ばんないさん

そうでした。ばんないさんの地元でしたね。

私も大蔵谷は名前だけは知っていたのですが、じつは行ったことがありません。
ここはおそらく、西郷が2回目に島流しになるとき、大久保が西郷に刺し違えようと迫ったことと関連がある場所ではなかったかと。

古い町並みも残っているようですから、一度は行ってみたいものです。
2010/09/22(Wed) 20:59 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野様

ありがとうございました。浪士の力を過小評価していたようです。勉強になりました。
2010/09/22(Wed) 21:48 | URL  | ながお #-[ 編集]
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