歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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一昨30日、名古屋の栄中日文化センターに出講。

他の仕事との折り合いがつかずに、レジュメの作成が前夜未明までずれ込み、就寝は午前3時過ぎ。
6時過ぎには起床で、内外のネコの世話をはじめ、あれこれ雑用が大変。

13:00からは「信長公記を読み解く」第3クールの3回目。
テーマは「志賀の陣と『勅命講和』

レジュメはB4で15枚。
どうだという感じですな(爆)。
当然、時間内に終わるかどうか懸念されたが、途中端折ったりしたので、10分程度の超過で終了。

目玉は、綸旨や御内書、起請文などが天皇・義昭(二条晴良)・信長・義景(長政)・延暦寺の5者でどのように取り交わされたのかということを図示した点である。
史料の現存状況に制約されているものの、その多くが延暦寺に宛てられていることから、この和睦交渉が延暦寺の和睦承諾に精力を使ったことがうかがえた。
そして、いわゆる「勅命講和」も信長・義景を対象にしたとは思えず、義昭・晴良の説得や信長の起請文が延暦寺に功を奏さなかったため、綸旨が発給されたのではないかと推測してみた。

また奥野高広氏が紹介した宛所が切断された信長条書は誰宛てだったのかという推理もしてみた。通説の浅井長政宛てでないという結論。
ただ、この条書の冒頭に「勅宣」とあるのは何を意味するのかよくわからなかった。条書の日付からして、信長や義景に宛てた綸旨(勅命講和)だとは思えない。両者に綸旨が発給されたなら、『信長記』はむろん、『御湯殿の上の日記』『言継卿記』などに何らかの証跡が残ると思うからである。


15:30より教室を変えて、「戦国の手紙を読み解く」の6回目。
この講座の最終回となり、豊臣秀吉を取り上げた。
テーマは「豊臣秀吉―山の奧、海は櫓櫂の続き候迄―

副題は有名な奥州仕置からとった一節(浅野家文書)。
秀吉の自敬表現、有名な三国国割構想、秀吉遺言覚書(浅野家文書)、そして北政所やおひろい(秀頼)宛ての消息を読む。
プライベート面では、秀吉が豪姫を可愛がっていたことを確認。
豪姫を「五もじ」と呼んでいる。「五」は「ごう」の一字をとってあてたからではないかと解釈したが、よかったか?

織田信長、上杉景勝、安国寺恵瓊、伊達政宗、千利休そして豊臣秀吉と半年間読んできました。
熱心に受講され、多くの質問をされた受講生のみなさんに感謝です。

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【2010/10/02 16:27】 | 中日文化センター
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「五もじ」に関して
舘鼻 誠
はじめまして

「五もじ」の件ですが、この言葉は、娘や女性をさす言葉として、毛利家文書などにも頻繁に登場しています(弘治3年の三子教訓状8条のほか543号、544号など)。
このためあえて豪の当て字として読む必要はないかと思われます。
ご参考までに。

ところで先日、ご著書の『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船』を拝見し、そのなかで能島村上の根城を伯方島の城に比定され、能島を出城に位置づけた文章に目がとまりました。
私も、海賊の拠点は海城の能島だけを見るのではなく、その対岸を含めて考察する必要があることをかつて書いたことがありますが(『戦国争乱を生きるー大名・村・女たち』NHKライブラリー)、現地でのフィールド調査をふまえて考えると、伯方側よりも、対岸の大島の存在のほうが本拠としてはふさわしいのではないかと考えています。
たとえば村上氏は、信仰のシンボルとして宝篋印塔を建立していますが、大島には南北朝期からの大型の宝篋印塔が存在するのに対し、伯方にはこのクラスの宝篋印塔が1基も存在せず、あるのは小型塔ばかりです。
また五輪塔の分布も、大島側に集中します。
これは造塔者に階層差があることを示唆するもので、本拠が大島側にあったことを示す一例ではないかと思います(もちろん伯方側の機能も否定はしませんが)。
こうした石塔の分布や形態は、本拠や信仰空間などを復元するうえで極めて有効な歴史資料になりますが、2005年から4年間かけて私が実施した小早川領とその周辺地域における石塔調査(科研調査)では、時間的な制約もあって、島嶼部の調査は細かくできませんでした。
このため、上記の内容も、なお検討の余地が残りますが、『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書ー石造物編』(愛媛県教育委員会)を見ても、同様の傾向が読み取れます。
ご参考になれば幸いです。

ご教示御礼
桐野
舘鼻 誠さん、はじめまして。

お名前は存じ上げております。
いろいろご教示有難うございます。

「五もじ」の件、私もじつは疑問に感じていたのですが、毛利元就の一女五竜も「五もじ」と呼ばれていること。また秀吉消息で北政所(おねorねい)も「ねもじ」と呼ばれていることから類推して、その一字をとって「~もじ」としているのかと思ってしまいました。不勉強でした。

また拙著もご覧いただいたようで恐縮です。
能島水軍の拠点が伯方島ではなく反対側の大島の可能性が高いとのこと。それも宝篋印塔の分布や格式での推定など、大変参考になりました。

以上、2点有難うございました。


舘鼻誠
こんにちは。
お返事ありがとうございます。

「五もじ」に関して二、三の補足です。
「もじ」という言葉は、「ある語の後半を省き、その代わりに添えて品よくいう語」(日本国語大辞典)として、名前の一文字を略して使われることが多いですね。
秀吉も、側室の三条に宛てた書状で「ともし」と記しています。
吉川元春の妻も、子息の広家を「ひもし」と呼び(吉川家文書1217)、輝元の姉(吉見広頼妻)と見られる女性(大日本古文書は尾崎局としますが内容から姉と推察/五條小枝子「中の丸(毛利元就継室)考」)が輝元に宛てた書状にも、おじいさまを「ちもし」(ぢもじ)、母を「かもし」と記しています(毛利家文書1325)。
ご指摘の秀吉の「ねもし」もそうですね。

ただ、こうした表記は、すべて、仮名文字+もじという特徴があります。
これに対し「五もじ」は、漢字の「五」+もじで、表記が異なります。
宍戸隆家の正室を「五もじ」と呼んでいるのはご指摘の通りですが、これも、表記が漢字です。
彼女が五竜城に嫁いだため、「五竜」の五+もじと考えることもできますが、たとえば、隆元に宛てた元就の書状では、「五龍の五もし」(毛利家文書543号)という表記もあり、「五竜」をわざわざ書く点から見て、「五もじ」が五竜の略字ではないことがうかがわれます。

小学館の『大日本国語辞典』の「ご文字」の項目にもありますが、漢字表記の「五もじ」は、「御寮人」を「五」と略して、「もじ」をつけたのではないかと思います。
御寮人を「五」と略す理由は、よくわかりませんが、同じく『大日本国語辞典』の「五文字」の項目に引用される「婦の五徳を備へしいはれなり」というあたりが、案外あたっているのではないかと思います。

秀吉も、松の丸にあてた書状で、彼女を「西の丸 五もし」と表記し、彼女の侍女の「おぐら」「おく」に宛てた書状でも、「西のまるお五」と表記しています。
おそらく名門、佐々木京極の娘であることに敬意をあらわして、「たもじ」ではなく、あえて「五もじ」と表記したのでしょう。
この点から、秀吉の側室のなかでも、淀殿と松の丸は、別格の扱いを受けていたのではないかと推察され、それを故に、醍醐の花見の盃争いのようことも生じただと思います。

なお、ご指摘の「ねもじ」も、「ね」の下にさらに文字が続くから、「ねもじ」と略されたのだと思われます。
最近は、すっかり「ねね」説が否定され、「おね」か「ねい」の表記にかわってしまいましたが、上記の理由から、私は「ねね」の可能性は、まだかなり高いのではないかと考えています。
「ね」説への反論として、角田文衛の『日本の女性名』(教育社歴史新書、国書刊行会から再刊されたようです)をあげておきます。
ほとんど注目されていないようですが、私も、角田氏の見解で良いのではないかと思います。

長くなりましたが、ご参考まで。


五文字
桐野
舘鼻誠さん

再度の詳しいご教示有難うございます。

うろ覚えではなく、ちゃんと日国を調べたらよかったと思います。
日国には「五文字」に娘、少女という意味がありますものね。

語源は「婦の五徳」から来たとのこと。勉強になりました。
信長長女で徳川信康に嫁いだ五徳も何かそのあたりと関わりありそうですね。

故・角田文衛さんのご本はたしか持っていたと思いますので、再読してみます。

御礼まで。

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この記事へのコメント
「五もじ」に関して
はじめまして

「五もじ」の件ですが、この言葉は、娘や女性をさす言葉として、毛利家文書などにも頻繁に登場しています(弘治3年の三子教訓状8条のほか543号、544号など)。
このためあえて豪の当て字として読む必要はないかと思われます。
ご参考までに。

ところで先日、ご著書の『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船』を拝見し、そのなかで能島村上の根城を伯方島の城に比定され、能島を出城に位置づけた文章に目がとまりました。
私も、海賊の拠点は海城の能島だけを見るのではなく、その対岸を含めて考察する必要があることをかつて書いたことがありますが(『戦国争乱を生きるー大名・村・女たち』NHKライブラリー)、現地でのフィールド調査をふまえて考えると、伯方側よりも、対岸の大島の存在のほうが本拠としてはふさわしいのではないかと考えています。
たとえば村上氏は、信仰のシンボルとして宝篋印塔を建立していますが、大島には南北朝期からの大型の宝篋印塔が存在するのに対し、伯方にはこのクラスの宝篋印塔が1基も存在せず、あるのは小型塔ばかりです。
また五輪塔の分布も、大島側に集中します。
これは造塔者に階層差があることを示唆するもので、本拠が大島側にあったことを示す一例ではないかと思います(もちろん伯方側の機能も否定はしませんが)。
こうした石塔の分布や形態は、本拠や信仰空間などを復元するうえで極めて有効な歴史資料になりますが、2005年から4年間かけて私が実施した小早川領とその周辺地域における石塔調査(科研調査)では、時間的な制約もあって、島嶼部の調査は細かくできませんでした。
このため、上記の内容も、なお検討の余地が残りますが、『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書ー石造物編』(愛媛県教育委員会)を見ても、同様の傾向が読み取れます。
ご参考になれば幸いです。
2010/10/02(Sat) 22:13 | URL  | 舘鼻 誠 #2XsKFzVg[ 編集]
ご教示御礼
舘鼻 誠さん、はじめまして。

お名前は存じ上げております。
いろいろご教示有難うございます。

「五もじ」の件、私もじつは疑問に感じていたのですが、毛利元就の一女五竜も「五もじ」と呼ばれていること。また秀吉消息で北政所(おねorねい)も「ねもじ」と呼ばれていることから類推して、その一字をとって「~もじ」としているのかと思ってしまいました。不勉強でした。

また拙著もご覧いただいたようで恐縮です。
能島水軍の拠点が伯方島ではなく反対側の大島の可能性が高いとのこと。それも宝篋印塔の分布や格式での推定など、大変参考になりました。

以上、2点有難うございました。
2010/10/03(Sun) 09:03 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんにちは。
お返事ありがとうございます。

「五もじ」に関して二、三の補足です。
「もじ」という言葉は、「ある語の後半を省き、その代わりに添えて品よくいう語」(日本国語大辞典)として、名前の一文字を略して使われることが多いですね。
秀吉も、側室の三条に宛てた書状で「ともし」と記しています。
吉川元春の妻も、子息の広家を「ひもし」と呼び(吉川家文書1217)、輝元の姉(吉見広頼妻)と見られる女性(大日本古文書は尾崎局としますが内容から姉と推察/五條小枝子「中の丸(毛利元就継室)考」)が輝元に宛てた書状にも、おじいさまを「ちもし」(ぢもじ)、母を「かもし」と記しています(毛利家文書1325)。
ご指摘の秀吉の「ねもし」もそうですね。

ただ、こうした表記は、すべて、仮名文字+もじという特徴があります。
これに対し「五もじ」は、漢字の「五」+もじで、表記が異なります。
宍戸隆家の正室を「五もじ」と呼んでいるのはご指摘の通りですが、これも、表記が漢字です。
彼女が五竜城に嫁いだため、「五竜」の五+もじと考えることもできますが、たとえば、隆元に宛てた元就の書状では、「五龍の五もし」(毛利家文書543号)という表記もあり、「五竜」をわざわざ書く点から見て、「五もじ」が五竜の略字ではないことがうかがわれます。

小学館の『大日本国語辞典』の「ご文字」の項目にもありますが、漢字表記の「五もじ」は、「御寮人」を「五」と略して、「もじ」をつけたのではないかと思います。
御寮人を「五」と略す理由は、よくわかりませんが、同じく『大日本国語辞典』の「五文字」の項目に引用される「婦の五徳を備へしいはれなり」というあたりが、案外あたっているのではないかと思います。

秀吉も、松の丸にあてた書状で、彼女を「西の丸 五もし」と表記し、彼女の侍女の「おぐら」「おく」に宛てた書状でも、「西のまるお五」と表記しています。
おそらく名門、佐々木京極の娘であることに敬意をあらわして、「たもじ」ではなく、あえて「五もじ」と表記したのでしょう。
この点から、秀吉の側室のなかでも、淀殿と松の丸は、別格の扱いを受けていたのではないかと推察され、それを故に、醍醐の花見の盃争いのようことも生じただと思います。

なお、ご指摘の「ねもじ」も、「ね」の下にさらに文字が続くから、「ねもじ」と略されたのだと思われます。
最近は、すっかり「ねね」説が否定され、「おね」か「ねい」の表記にかわってしまいましたが、上記の理由から、私は「ねね」の可能性は、まだかなり高いのではないかと考えています。
「ね」説への反論として、角田文衛の『日本の女性名』(教育社歴史新書、国書刊行会から再刊されたようです)をあげておきます。
ほとんど注目されていないようですが、私も、角田氏の見解で良いのではないかと思います。

長くなりましたが、ご参考まで。
2010/10/03(Sun) 12:38 | URL  | 舘鼻誠 #2XsKFzVg[ 編集]
五文字
舘鼻誠さん

再度の詳しいご教示有難うございます。

うろ覚えではなく、ちゃんと日国を調べたらよかったと思います。
日国には「五文字」に娘、少女という意味がありますものね。

語源は「婦の五徳」から来たとのこと。勉強になりました。
信長長女で徳川信康に嫁いだ五徳も何かそのあたりと関わりありそうですね。

故・角田文衛さんのご本はたしか持っていたと思いますので、再読してみます。

御礼まで。
2010/10/07(Thu) 18:55 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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