歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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帰鹿報告その2。

2日目の指宿訪問を書くつもりだったが、1日目に福昌寺を訪れたことを書き忘れていた。
福昌寺に来たのは、大河「翔ぶがごとく」の取材のとき以来だから、十数年ぶりである。以前とほとんど変わっていない風景に心が落ち着く。鹿児島の風景や景観もここ10年ほどでめまぐるしく変化しているだけに、変わらないものを見ると、ホッとする。

福昌寺は、島津家の菩提寺である。
14世紀末、島津元久の要請により、曹洞宗の高僧、石屋真梁が建立したが、明治初期の廃仏毀釈によって破壊された。その後、再建されたが、院号・戒名だけでなく、神号が付いている墓もある。

そぼ降る雨の中、玉竜高校の裏手の同寺に行く。
まず、調所氏の先祖である調所広郷の墓に詣でた。これは永年東京にあったものを、近年、調所氏が分骨して建立されたものである。島津一族ではないため、塀の中ではなく、門外の一角にあった。
この区画には、島津家に貢献した人士が時代を超えて眠っている。調所広郷のほか、明治初期、政府に抗議して自害した横山安武(森有礼の兄)や、関ヶ原の退き口で島津義弘の身代わりとなって討死した長寿院盛淳の墓もあった(写真参照)。
長寿院盛淳

門内に入ると、歴代島津家当主の墓がたくさん並んでいる。非常に広くゆったりとしている。昔日には玉竜高校の敷地も墓域だったという。
島津重豪、同斉興、同斉彬夫妻、同久光など、幕末関係の殿様に一通り挨拶した。とくに久光の墓は広くて、墓標も大きい。大きな鳥居が建った神式の墓所である。「前左大臣従一位大勲位公爵~」という位人臣を極めた称号がひときわ目立つ(写真参照)。
そう、久光は藩主にはなれなかったものの、歴代島津一族の中で、もっとも高い官位を得た人である。
島津久光

それから、戦国コーナーに回る。
拙著でも書いた島津義久、同義弘などの墓所に手を合わせる。

そして、前回の訪問では気づかなかったことに気づいた。
義久の左隣が甥で女婿の久保(義弘二男)、その左が義弘だが、さらにその左は誰だろうと思ったが、他にはある墓碑が壊れていてわからない。そういえば、以前来たときにも壊れていた気がする。

誰だろうと墓標に近づき、刻まれた院号(庵号か)を見て驚いた。

持明彭庵主

と書かれているではないか(写真参照)。
亀寿

何と、
ジメサア
こと、亀寿である。
島津義久の三女にして、従弟の忠恒(のち家久)夫人。

夫である家久の墓域にないのは単なる偶然なのか。
朝鮮で陣没した前夫久保のそばにいるのが、せめてものことかもしれないと思った。亀寿と久保の結婚生活は短かったが、二人は仲睦まじかったという。

もっとも、二人の間に義弘の墓があるのが何とも(笑)。
義弘と久保の位置を変えればいいのに、と不謹慎なことを思ったりした。


次回こそ指宿です。

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【2007/02/28 16:43】 | 戦国島津
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福昌寺 島津家久妻の墓
ばんない
こんばんは。

福昌寺跡をご訪問されたとのことでうらやましいです。
これからますます花粉も出ますし、季節が良くなれば墓場は藪蚊がすごいので、今が一番墓参りにはいい季節なのでしょうね。

ところで、十八代当主の方の島津家久(…ややこしい)の正室と側室たちの墓なんですが、『島津歴代略記』という島津家から出された小冊子に福昌寺の墓地地図が載ってまして、それによれば家久の妻達は一人も家久と一緒には葬られてないようなんですよ。他の当主は妻と隣どおしか近隣に墓がある当主が多いので、家久の孤立ぶりが目立ちます(苦笑)。

ただ、この福昌寺の墓なんですが廃仏毀釈とか、近年島津家が行ったという合祀の時などに改葬や墓地の移動があったのではないかという疑いを持っているのですが。この件、どこに確認すればいいのか分からないので未だに未確認です。

島津家久の妻たち
桐野
ばんないさん

『島津歴代略記』は、私も持っていましたので見てみました。
たしかに家久とその妻たちの墓は離れていますね。
後夫人の2人は、亀寿の墓の近くにありますね。
なぜ、その周辺に家久の墓がないのか微妙ではあります。

もっとも、家久の墓の横には子の光久、孫の綱貴の墓が並んでいますので、近世薩摩藩の歴代藩主というくくりというか、グループ分けだと理解することもできるかもしれません。
それでも、せめて後夫人たちの墓はその側に置かれてもいいのではと思いますが……。

福昌寺墓所の由緒のことは私も全くわかりません。
明治以降に再建されたか、再利用されたのではないかとは思いますが……。やはり島津家でないと、その間のいきさつはわからないのかもしれませんね。

なお、福昌寺墓所でいつも気になっているのは、墓標に使われている黄土色の石材のことです。
他の大名家などではあまり見たことがありません。
何か特殊な石材なんでしょうかね? 一説には花倉石ではないかと聞いたのですが……。

山川石
桐野
追加。
調所一郎氏よりメールあり。携帯からは書き込めないとのことで、伝言があった。

私が疑問に思った石材のことである。島津齊彬などの宝篋印塔に使われている黄色っぽい石材は、山川(やまがわ)石といって、指宿の先の山川あたりでとれる石で、灰色っぽいのが花倉(けくら)石だそうである。

調所氏が島津家に確認してくれた情報です。調所氏に多謝。



やまもも
やまももです、こんばんは。

 
 獅子文六は『南の風』で、福昌寺の墓について、「石燈籠のような形で、なんという石か知らないが、カステラの菓子のような、黄と褐色で、南国の初夏の日光を浴びると、黄金の輝きを、放つのである」と書いていますが、私も島津齊彬などの宝篋印塔に使われている黄色っぽい石材がどんなものなのかとても気になっていました。

 そけだけに、調所一郎氏が島津家に問い合わされて「花倉石」と判明したとのお話、とても興味深く読ませていただきました。

 それから、今和泉の島津忠剛の墓の写真を拝見し、私が拙ブログ等に載せていた写真が違う方のお墓だということが分かりました。それで正しい写真に差し替えておきましたが、桐野作人さんのこのブログは本当に勉強になります。


武藤 臼
こんばんわ
鹿児島というと、仕事ではここ5年の内に何度か行っているのですが、戦国島津に興味があるわりには、島津絡みの史跡はほとんど回っていませんでした。島津家の墓所もノーチェックです。
今年のGWは、鹿児島をゴールに宮崎周遊を考えているのですが、福昌寺へは是非詣でてみようかと思ってます。

山川石です
桐野
やまももさん、こんにちは。

獅子文六の小説にそんな記述があるとは知りませんでした。たしかにあの色は不思議な色ですね。
先日、近づいてしげしげと眺めましたが、軟らかくて加工しやすい性質をもっているように見えました。
とくに殿様の宝篋印塔は精巧な彫刻が施してありますから、軟らかい方が細工がしやすいと思います。

ちなみに、あの黄色の石は山川石です。念のため。
私が勘違いしておりましたが、花倉石は灰色っぽい石のようです。


福昌寺
桐野
武藤臼さん、お久しぶりです。

鹿児島に行かれたときは、ぜひ福昌寺も訪ねて下さい。
ちょっと奥まってわかりにくい場所ですが、玉竜高校を目印にすれば、タクシーでも大丈夫です。

現在でも相当立派ですが、廃仏毀釈で破壊される前はもっとすごかったのだろうなと思わせます。
戦国系は貴久、義久、義弘、久保、亀寿、家久などの墓があります。

そうそう、京都の大雲院(八坂神社裏手の祇園祭の山車が屋根になっているお寺)に、島津以久(忠将の子、義久・義弘の従弟)の墓があるのはご存じですか?


福昌寺の宝篋印塔について
やまもも
桐野作人さん、こんばんは、やまももです。

 福昌寺の宝篋印塔は山川石で出来ているんですね。了解いたしました。


武藤 臼
福昌寺是非訪ねてみます。

島津以久の墓所が近所とは知りませんでした。
さすが京都あなどれません(笑)
近々詣でてきます。

墓石
ばんない
御晩です(汗)

墓石は近所?の山川石なのですね。九州は古代から独特の石の文化があるところなので、他地域でよく墓石に使う花崗岩には見向きもしなかったということでしょうか(冗談です)
山川石は加工しやすい石と言うことですが、そういう石に限って往々にして風化しやすい性質ではないかと思うのですが、なぜ耐久性が求められる墓石にその石を使ったのか興味深いところです。

後、今まで読み過ごしていたのですが、亀寿の墓標はわざと壊されたような感じなのでしょうか?

ところで横レスになりますが、島津以久の墓がある大雲院は拝観拒絶寺院です。(URI欄に、詳細な説明がある掲示板へのリンクを書いております)


山川石
桐野
ばんないさん、こんにちは。

山川石、軟らかそうに見えますが、表面を磨いてあるのを見ると、非常に緻密な粒子が詰まっているようにも見えます。風化しやすいというほどではないかもしれませんが、よくわかりません。
福昌寺の山川石を使った墓標は、廃仏毀釈後の再建がほとんどだと思われますので、最大に見積もっても、百数十年しか経っていないことになります。風化の経年変化を観察するにはまだ時間が足りないような(笑)。

亀寿の墓については、前回やや不正確なことを書いてしまいました。
福昌寺墓地の墓は殿様かそれに準じる人物には、墓の右手前に名前を書いた墓碑が立っていますが、亀寿のはその位置にはありません。
その代わり、左手前に何か立っていた形跡があり、柱だけが残っています。どうやら墓碑というより、小さな灯籠だったのではないかと思わせます。

そうだとすれば、もともと墓碑は立てられていないと見るべきかもしれません。
島津家でも、夫人の墓標が夫のそれと並んでいるのを例外として、妻妾や庶子については墓碑を立てていない例が多いように思いますので、亀寿の例もそれにあてはまるのかもしれません。


島津以久の墓
桐野
武藤臼さん、ばんないさん

京都・大雲寺の島津以久の墓ですが、ばんないさんがご指摘のように、無断拝観はできないようですが、私は以前お願いして見せてもらいました。
電話でお願いしたうえで、拝観するときに事情を説明したらOKでした。もっとも、取材だからと告げたからかもしれません。

私の拝観の目的は以久ではなくて、織田信長・信忠父子と、(伝)石川五右衛門の墓でした。
大雲院はもと、春長寺ともいいました。春長(軒)は京都所司代村井貞勝の出家名です。現在も春長寺は別にありますが、そこから現在の地に移って大雲院と称しました。ちなみに、大雲院とは信忠の院号です。

信長・信忠の墓を見ていたら、その手前に丸十の家紋が付いた墓があったので誰だろうと調べたら、以久だったというわけでして(笑)。
以久の墓を中心に家臣と思われる陪墓がいくつか並んでいました。
以久はたしか伏見城だったかの修築を命じられて上京した折りに京都で病死したと思います。

もし大雲院の拝観が可能になりましたら、信長・信忠の墓の手前にあります。丸十の家紋が付いているので、すぐ見つかると思います。

そのうち、以久の墓の写真もアップしておきましょう。



福昌寺の墓標
ばんない
福昌寺の墓標は最近(?)の再建と言うことですが、島津家は明治以降神道に宗旨替えしたのに、仏教式の宝匡印塔というのは興味深いですね。

亀寿の墓碑はどうも元からない可能性が高そうですね。細かいところまでご教示ありがとうございました。


武藤 臼
こんばんわ
確かに大雲寺は門を閉じている寺という記憶はありますが、昨日春の陽気の中東山を少し散策しました。日没後でしたが。

信忠の墓所もあるとなると、なおのこと詣でてみたいものですね。


武藤 臼
今日・・・日付けが変わったので昨日になりますが、篠突く雨の中、福昌寺へ墓参に寄ってきました。あれだけ沢山の古くて立派な墓石が並んでいると壮観、さすが島津家という感じです。
今回の九州行きは宮崎がメインだったので、佐土原や飫肥にも寄ってきました。
佐土原の前、後島津家廟所、飫肥安国寺跡にある伝豊州家忠朝の墓と、墓参りばかりしてきたわけではないですが。飫肥って伊東一色で、島津とか新納の情報ってないものなんですねえ。

飫肥
桐野
武藤 臼さん、どうも。

宮崎、鹿児島に行かれたんですね。それもなかなか通好みの史跡ばかり(笑)。

この欄で書かれた福昌寺にもさっそく行かれたとはすごい。道に迷いませんでしたか?
ムトウスさんなら、やはり戦国期の墓をじっくり見られたことでしょう。当主ではないですが、歳久の墓もあったのですが、お気づきだったでしょうか?

佐土原は一度取材で行ったことがあるんですが、飫肥は未訪で、私にとっては憧れの地です。伊東一色も致し方ないことかもしれません。歴史的に反島津の気運が形成されていそうですから。
豊州家忠朝といえば、豊州家全盛期の頃の当主ですね。この頃は志布志、末吉、梅北など大隅方面にも版図を広げていました。
『本藩人物誌』の忠朝の項によれば、「今猶飫肥安楽寺に墓有之、月舟の二字彫付有之由」とあります。
安楽寺と安国寺は同じ寺なんでしょうか?


墓参
武藤 臼
>それもなかなか通好みの史跡ばかり(笑)。
今回は戦国から江戸関係の城中心に回りましたから、そうなるかもしれません(笑)。おいおいとブログに紹介していきますので、楽しみにしておいていてください(^^;

>道に迷いませんでしたか?
場所は大雑把には事前に確認してましたが、目標物を失念しまして現地からこのブログで確認しました(笑)

>当主ではないですが、歳久の墓もあったのですが、お気づきだったでしょうか?
鹿児島はあまり時間がありませんで、しかも大雨の中だったもので、案内版とこちらの情報を見ながら貴久、義久、義弘、久保、それに斉彬、久光の墓を確認して手を合わせて回っただけでした。歳久どこにあったんですか?!

>飫肥は未訪で、私にとっては憧れの地です。
雰囲気はなかなか良い街ですね。もう少し戦国期の情報が案内されているとなお良いのですが(笑)

>伊東一色も致し方ないことかもしれません。
そもそも飫肥は島津の領地だったわけで、伊東に奪われてから島津が取りかえすまで10年。もしこの10年がなかったら、飫肥は鹿児島県の一部になっていたかとか想像しますが。(今時分、伊東が悪いとか島津が良いとかという話ではないですが)

>安楽寺と安国寺は同じ寺なんでしょうか?
どうなんでしょう。現地の案内板には足利尊氏に縁りの安国寺とあり、観光協会のガイドには忠廉が近隣他所から移した寺とあります。飫肥のパンフレットに承応年間のものという地図が載っていまして、二文字目は国がまえに見えます。

墓を訪ねたときに、忠朝のしかないのかと思ったのですが、忠朝の子忠広の墓所は串間でしょうか。義弘の養父は都城だったんですね。忠廉はあっても良いと思うのですが。
写真のURLを貼っておきますが墓の右に建つ碑は、ガイドによれば「大正七年、その末裔である海軍中将黒岡帯刀氏によって・・・建てられた」とあります。
http://homepage2.nifty.com/seika-shi/sozai/blog/200705060.jpg

豊州家のその後
桐野
武藤 臼さん、どうも。

歳久の墓は義久の墓の後ろにあります。正確にいうと、向かって左斜め後方ですが、塀で隔てられているので、わかりにくいですね。

豊州家の忠広(忠朝嫡子)は養嗣子の忠親に家督を譲ると、福島に隠居しています。福島って串間だったですかね?
忠親はご存じのとおり、都城の北郷忠相の子で、豊州家から請われて忠広の養子になりました。義弘を養子にしたのはこの人ですね。
忠親の代で、豊州家は飫肥を伊東方に奪われました。そのため、忠親は実家の都城で失意のうちに没しています。墓も当然都城にあります。

子孫の黒岡帯刀中将ですが、黒岡氏は豊州家二男家として知られ、豊州家七代目久賀(義弘女婿の朝久の嫡子)の二男久元から始まっています。江戸初期に興った家ですね。黒岡を名乗ったのは明治になってからかもしれません。代々、帯刀を名乗る当主が多いですね。くだんの海軍中将氏も帯刀と名乗っているのが面白いです。


鹿児島
武藤 臼
>福島って串間だったですかね?
串間で間違いないかなとは思ってます。
櫛間城跡がどうなっているかと串間に寄ったのですが、なにも残っていませんでした。忠広のことは帰宅してから調べたので、串間の図書館に寄った時に知っていたら市史をもうすこし丁寧に当ったのですが。

>歳久の墓は義久の墓の後ろにあります。
今まで仕事で九州と縁があったのが今年で交代したので、ひとまずの区切りとして九州へ行ったのですが、思えば鹿児島などは仕事で行く機会はありましたが、あまり観光していません。来年とはいいませんが、遠からず機会を作って回らないと消化不良は否めないですね(笑)

黒岡帯刀
桐野
黒岡帯刀海軍中将、どこかで見たような、聞いたような名前だと思いました。
たしか岩倉使節団の留学生の一人ですね。大久保利通を中心に写っている集合写真にいたと思います。

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福昌寺 島津家久妻の墓
こんばんは。

福昌寺跡をご訪問されたとのことでうらやましいです。
これからますます花粉も出ますし、季節が良くなれば墓場は藪蚊がすごいので、今が一番墓参りにはいい季節なのでしょうね。

ところで、十八代当主の方の島津家久(…ややこしい)の正室と側室たちの墓なんですが、『島津歴代略記』という島津家から出された小冊子に福昌寺の墓地地図が載ってまして、それによれば家久の妻達は一人も家久と一緒には葬られてないようなんですよ。他の当主は妻と隣どおしか近隣に墓がある当主が多いので、家久の孤立ぶりが目立ちます(苦笑)。

ただ、この福昌寺の墓なんですが廃仏毀釈とか、近年島津家が行ったという合祀の時などに改葬や墓地の移動があったのではないかという疑いを持っているのですが。この件、どこに確認すればいいのか分からないので未だに未確認です。
2007/02/28(Wed) 22:08 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
島津家久の妻たち
ばんないさん

『島津歴代略記』は、私も持っていましたので見てみました。
たしかに家久とその妻たちの墓は離れていますね。
後夫人の2人は、亀寿の墓の近くにありますね。
なぜ、その周辺に家久の墓がないのか微妙ではあります。

もっとも、家久の墓の横には子の光久、孫の綱貴の墓が並んでいますので、近世薩摩藩の歴代藩主というくくりというか、グループ分けだと理解することもできるかもしれません。
それでも、せめて後夫人たちの墓はその側に置かれてもいいのではと思いますが……。

福昌寺墓所の由緒のことは私も全くわかりません。
明治以降に再建されたか、再利用されたのではないかとは思いますが……。やはり島津家でないと、その間のいきさつはわからないのかもしれませんね。

なお、福昌寺墓所でいつも気になっているのは、墓標に使われている黄土色の石材のことです。
他の大名家などではあまり見たことがありません。
何か特殊な石材なんでしょうかね? 一説には花倉石ではないかと聞いたのですが……。
2007/03/01(Thu) 00:39 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
山川石
追加。
調所一郎氏よりメールあり。携帯からは書き込めないとのことで、伝言があった。

私が疑問に思った石材のことである。島津齊彬などの宝篋印塔に使われている黄色っぽい石材は、山川(やまがわ)石といって、指宿の先の山川あたりでとれる石で、灰色っぽいのが花倉(けくら)石だそうである。

調所氏が島津家に確認してくれた情報です。調所氏に多謝。
2007/03/02(Fri) 02:28 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
やまももです、こんばんは。

 
 獅子文六は『南の風』で、福昌寺の墓について、「石燈籠のような形で、なんという石か知らないが、カステラの菓子のような、黄と褐色で、南国の初夏の日光を浴びると、黄金の輝きを、放つのである」と書いていますが、私も島津齊彬などの宝篋印塔に使われている黄色っぽい石材がどんなものなのかとても気になっていました。

 そけだけに、調所一郎氏が島津家に問い合わされて「花倉石」と判明したとのお話、とても興味深く読ませていただきました。

 それから、今和泉の島津忠剛の墓の写真を拝見し、私が拙ブログ等に載せていた写真が違う方のお墓だということが分かりました。それで正しい写真に差し替えておきましたが、桐野作人さんのこのブログは本当に勉強になります。
2007/03/02(Fri) 20:59 | URL  | やまもも #2ZuXDQH2[ 編集]
こんばんわ
鹿児島というと、仕事ではここ5年の内に何度か行っているのですが、戦国島津に興味があるわりには、島津絡みの史跡はほとんど回っていませんでした。島津家の墓所もノーチェックです。
今年のGWは、鹿児島をゴールに宮崎周遊を考えているのですが、福昌寺へは是非詣でてみようかと思ってます。
2007/03/03(Sat) 00:34 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
山川石です
やまももさん、こんにちは。

獅子文六の小説にそんな記述があるとは知りませんでした。たしかにあの色は不思議な色ですね。
先日、近づいてしげしげと眺めましたが、軟らかくて加工しやすい性質をもっているように見えました。
とくに殿様の宝篋印塔は精巧な彫刻が施してありますから、軟らかい方が細工がしやすいと思います。

ちなみに、あの黄色の石は山川石です。念のため。
私が勘違いしておりましたが、花倉石は灰色っぽい石のようです。
2007/03/03(Sat) 10:51 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
福昌寺
武藤臼さん、お久しぶりです。

鹿児島に行かれたときは、ぜひ福昌寺も訪ねて下さい。
ちょっと奥まってわかりにくい場所ですが、玉竜高校を目印にすれば、タクシーでも大丈夫です。

現在でも相当立派ですが、廃仏毀釈で破壊される前はもっとすごかったのだろうなと思わせます。
戦国系は貴久、義久、義弘、久保、亀寿、家久などの墓があります。

そうそう、京都の大雲院(八坂神社裏手の祇園祭の山車が屋根になっているお寺)に、島津以久(忠将の子、義久・義弘の従弟)の墓があるのはご存じですか?
2007/03/03(Sat) 10:56 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
福昌寺の宝篋印塔について
桐野作人さん、こんばんは、やまももです。

 福昌寺の宝篋印塔は山川石で出来ているんですね。了解いたしました。
2007/03/03(Sat) 23:23 | URL  | やまもも #2ZuXDQH2[ 編集]
福昌寺是非訪ねてみます。

島津以久の墓所が近所とは知りませんでした。
さすが京都あなどれません(笑)
近々詣でてきます。
2007/03/04(Sun) 00:38 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
墓石
御晩です(汗)

墓石は近所?の山川石なのですね。九州は古代から独特の石の文化があるところなので、他地域でよく墓石に使う花崗岩には見向きもしなかったということでしょうか(冗談です)
山川石は加工しやすい石と言うことですが、そういう石に限って往々にして風化しやすい性質ではないかと思うのですが、なぜ耐久性が求められる墓石にその石を使ったのか興味深いところです。

後、今まで読み過ごしていたのですが、亀寿の墓標はわざと壊されたような感じなのでしょうか?

ところで横レスになりますが、島津以久の墓がある大雲院は拝観拒絶寺院です。(URI欄に、詳細な説明がある掲示板へのリンクを書いております)
2007/03/04(Sun) 01:07 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
山川石
ばんないさん、こんにちは。

山川石、軟らかそうに見えますが、表面を磨いてあるのを見ると、非常に緻密な粒子が詰まっているようにも見えます。風化しやすいというほどではないかもしれませんが、よくわかりません。
福昌寺の山川石を使った墓標は、廃仏毀釈後の再建がほとんどだと思われますので、最大に見積もっても、百数十年しか経っていないことになります。風化の経年変化を観察するにはまだ時間が足りないような(笑)。

亀寿の墓については、前回やや不正確なことを書いてしまいました。
福昌寺墓地の墓は殿様かそれに準じる人物には、墓の右手前に名前を書いた墓碑が立っていますが、亀寿のはその位置にはありません。
その代わり、左手前に何か立っていた形跡があり、柱だけが残っています。どうやら墓碑というより、小さな灯籠だったのではないかと思わせます。

そうだとすれば、もともと墓碑は立てられていないと見るべきかもしれません。
島津家でも、夫人の墓標が夫のそれと並んでいるのを例外として、妻妾や庶子については墓碑を立てていない例が多いように思いますので、亀寿の例もそれにあてはまるのかもしれません。
2007/03/04(Sun) 09:47 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
島津以久の墓
武藤臼さん、ばんないさん

京都・大雲寺の島津以久の墓ですが、ばんないさんがご指摘のように、無断拝観はできないようですが、私は以前お願いして見せてもらいました。
電話でお願いしたうえで、拝観するときに事情を説明したらOKでした。もっとも、取材だからと告げたからかもしれません。

私の拝観の目的は以久ではなくて、織田信長・信忠父子と、(伝)石川五右衛門の墓でした。
大雲院はもと、春長寺ともいいました。春長(軒)は京都所司代村井貞勝の出家名です。現在も春長寺は別にありますが、そこから現在の地に移って大雲院と称しました。ちなみに、大雲院とは信忠の院号です。

信長・信忠の墓を見ていたら、その手前に丸十の家紋が付いた墓があったので誰だろうと調べたら、以久だったというわけでして(笑)。
以久の墓を中心に家臣と思われる陪墓がいくつか並んでいました。
以久はたしか伏見城だったかの修築を命じられて上京した折りに京都で病死したと思います。

もし大雲院の拝観が可能になりましたら、信長・信忠の墓の手前にあります。丸十の家紋が付いているので、すぐ見つかると思います。

そのうち、以久の墓の写真もアップしておきましょう。

2007/03/04(Sun) 09:57 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
福昌寺の墓標
福昌寺の墓標は最近(?)の再建と言うことですが、島津家は明治以降神道に宗旨替えしたのに、仏教式の宝匡印塔というのは興味深いですね。

亀寿の墓碑はどうも元からない可能性が高そうですね。細かいところまでご教示ありがとうございました。
2007/03/04(Sun) 23:25 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
こんばんわ
確かに大雲寺は門を閉じている寺という記憶はありますが、昨日春の陽気の中東山を少し散策しました。日没後でしたが。

信忠の墓所もあるとなると、なおのこと詣でてみたいものですね。
2007/03/06(Tue) 00:27 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
今日・・・日付けが変わったので昨日になりますが、篠突く雨の中、福昌寺へ墓参に寄ってきました。あれだけ沢山の古くて立派な墓石が並んでいると壮観、さすが島津家という感じです。
今回の九州行きは宮崎がメインだったので、佐土原や飫肥にも寄ってきました。
佐土原の前、後島津家廟所、飫肥安国寺跡にある伝豊州家忠朝の墓と、墓参りばかりしてきたわけではないですが。飫肥って伊東一色で、島津とか新納の情報ってないものなんですねえ。
2007/05/06(Sun) 02:48 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
飫肥
武藤 臼さん、どうも。

宮崎、鹿児島に行かれたんですね。それもなかなか通好みの史跡ばかり(笑)。

この欄で書かれた福昌寺にもさっそく行かれたとはすごい。道に迷いませんでしたか?
ムトウスさんなら、やはり戦国期の墓をじっくり見られたことでしょう。当主ではないですが、歳久の墓もあったのですが、お気づきだったでしょうか?

佐土原は一度取材で行ったことがあるんですが、飫肥は未訪で、私にとっては憧れの地です。伊東一色も致し方ないことかもしれません。歴史的に反島津の気運が形成されていそうですから。
豊州家忠朝といえば、豊州家全盛期の頃の当主ですね。この頃は志布志、末吉、梅北など大隅方面にも版図を広げていました。
『本藩人物誌』の忠朝の項によれば、「今猶飫肥安楽寺に墓有之、月舟の二字彫付有之由」とあります。
安楽寺と安国寺は同じ寺なんでしょうか?
2007/05/06(Sun) 09:38 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
墓参
>それもなかなか通好みの史跡ばかり(笑)。
今回は戦国から江戸関係の城中心に回りましたから、そうなるかもしれません(笑)。おいおいとブログに紹介していきますので、楽しみにしておいていてください(^^;

>道に迷いませんでしたか?
場所は大雑把には事前に確認してましたが、目標物を失念しまして現地からこのブログで確認しました(笑)

>当主ではないですが、歳久の墓もあったのですが、お気づきだったでしょうか?
鹿児島はあまり時間がありませんで、しかも大雨の中だったもので、案内版とこちらの情報を見ながら貴久、義久、義弘、久保、それに斉彬、久光の墓を確認して手を合わせて回っただけでした。歳久どこにあったんですか?!

>飫肥は未訪で、私にとっては憧れの地です。
雰囲気はなかなか良い街ですね。もう少し戦国期の情報が案内されているとなお良いのですが(笑)

>伊東一色も致し方ないことかもしれません。
そもそも飫肥は島津の領地だったわけで、伊東に奪われてから島津が取りかえすまで10年。もしこの10年がなかったら、飫肥は鹿児島県の一部になっていたかとか想像しますが。(今時分、伊東が悪いとか島津が良いとかという話ではないですが)

>安楽寺と安国寺は同じ寺なんでしょうか?
どうなんでしょう。現地の案内板には足利尊氏に縁りの安国寺とあり、観光協会のガイドには忠廉が近隣他所から移した寺とあります。飫肥のパンフレットに承応年間のものという地図が載っていまして、二文字目は国がまえに見えます。

墓を訪ねたときに、忠朝のしかないのかと思ったのですが、忠朝の子忠広の墓所は串間でしょうか。義弘の養父は都城だったんですね。忠廉はあっても良いと思うのですが。
写真のURLを貼っておきますが墓の右に建つ碑は、ガイドによれば「大正七年、その末裔である海軍中将黒岡帯刀氏によって・・・建てられた」とあります。
http://homepage2.nifty.com/seika-shi/sozai/blog/200705060.jpg
2007/05/06(Sun) 23:30 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
豊州家のその後
武藤 臼さん、どうも。

歳久の墓は義久の墓の後ろにあります。正確にいうと、向かって左斜め後方ですが、塀で隔てられているので、わかりにくいですね。

豊州家の忠広(忠朝嫡子)は養嗣子の忠親に家督を譲ると、福島に隠居しています。福島って串間だったですかね?
忠親はご存じのとおり、都城の北郷忠相の子で、豊州家から請われて忠広の養子になりました。義弘を養子にしたのはこの人ですね。
忠親の代で、豊州家は飫肥を伊東方に奪われました。そのため、忠親は実家の都城で失意のうちに没しています。墓も当然都城にあります。

子孫の黒岡帯刀中将ですが、黒岡氏は豊州家二男家として知られ、豊州家七代目久賀(義弘女婿の朝久の嫡子)の二男久元から始まっています。江戸初期に興った家ですね。黒岡を名乗ったのは明治になってからかもしれません。代々、帯刀を名乗る当主が多いですね。くだんの海軍中将氏も帯刀と名乗っているのが面白いです。
2007/05/07(Mon) 10:15 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
鹿児島
>福島って串間だったですかね?
串間で間違いないかなとは思ってます。
櫛間城跡がどうなっているかと串間に寄ったのですが、なにも残っていませんでした。忠広のことは帰宅してから調べたので、串間の図書館に寄った時に知っていたら市史をもうすこし丁寧に当ったのですが。

>歳久の墓は義久の墓の後ろにあります。
今まで仕事で九州と縁があったのが今年で交代したので、ひとまずの区切りとして九州へ行ったのですが、思えば鹿児島などは仕事で行く機会はありましたが、あまり観光していません。来年とはいいませんが、遠からず機会を作って回らないと消化不良は否めないですね(笑)
2007/05/08(Tue) 00:02 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
黒岡帯刀
黒岡帯刀海軍中将、どこかで見たような、聞いたような名前だと思いました。
たしか岩倉使節団の留学生の一人ですね。大久保利通を中心に写っている集合写真にいたと思います。
2007/05/08(Tue) 00:32 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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