歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第170回
―根拠ない薩摩藩黒幕説―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

この間、大河ドラマ「龍馬伝」の感想でも書いていますが、近江屋事件についての薩摩藩黒幕説がどう考えてもおかしいと思っていますので、新聞連載のほうでも2回にわたり、要点だけ書くことにしました。事件そのものより、事件が発生するに至る政治的な背景を重点に書いています。

今回は、龍馬と薩摩藩をめぐって、大政奉還か武力討幕かといった路線的な対立はなかったということを中心に書きました。
木戸孝允との往復書簡や佐々木高行『保古飛呂比』などを読むと、龍馬が慶応3年(1867)9月まで(最後の上洛まで)、いわゆる武力討幕派的な立場にいたことは明白です。
また龍馬はあくまで土佐藩は薩長と協調すべきだという持論をもっていました。

ところが、上洛してのち、龍馬は後藤象二郎の大政奉還建白を後押しするようになるのですが、それは薩摩と土佐の間で大政奉還を推進することで合意が成立したから、龍馬もそれに従っただけです。ですから、龍馬と薩摩藩が対立したわけではありません。薩摩藩も大政奉還建白を支持したことは『寺村左膳道成日記』などにはっきり書かれていますし、実際、小松帯刀が後藤象二郎以上にその線で動いています。

薩摩藩黒幕説を唱えたり、支持したりする人々は、龍馬が平和的、薩摩が武力的という形で対立していたとするわけですが、よくよく考えてみれば、両者とも幕府を廃止し、王政復古を実現することでは同じ立場です。何より龍馬も立ち会って賛成した薩土盟約にもはっきり書いてあります。

要は幕府を廃止するか否かが大きな問題であって、その手段は二次的な問題です。
一方、会津・桑名両藩や幕府強硬派(渋沢成一郎や新選組・見廻組を含む)はあくまで大政奉還に反対し、幕府を維持することを望み、そのためにいろいろ活動し、とくに慶喜の大政奉還を実力で阻止しようとしたり、それが無理だとわかると、骨抜きにしようとしてあれこれ画策しています。

幕府を廃止するか否かという大問題を前にして、どちらの対立が大きいか明らかでしょう。

龍馬にとって、武力的な手段か、平和的な手段かはさほど問題ではなく、あくまで土佐藩が薩長と一緒にやっていくことが重要だったといえます。龍馬の悲願は土佐が薩長に追いつくことにあったのですから。

なお、連載で龍馬が「武力討幕派」だったと書いていますが、これは龍馬に限らず、薩長両藩についても、そのように規定するのがよいのかどうかは再検討する余地があることを付言しておきます。そうした用語の定義の問題まで新聞連載では書けなかったので、一応通説的な見方に従っただけで、私個人としては留保しています。

そもそも「討幕」とは何かという定義をせずして、龍馬と薩摩藩が対立していたかどうかも論じられないでしょう。同時代の人で、慶応年間以降、「討幕」をきちんと定義したのは西郷吉之助のみです。西郷の定義する「討幕」は徳川追討の勅命と関東制圧が条件です。京都や大坂での武力決起は「討幕」ではないと、西郷は長州藩士に語っています。

世間一般で使われている「討幕」は、せいぜい西郷がいうところの京都(大坂も含む)での武力決起であり、天皇を戴いた京都政権の樹立を意味しているだろうと思います(関東政権の徳川氏はほとんど無傷)。しかも、これは武力行使とはいい条、戦争というよりクーデタ形式の可能性が高いでしょう。8・18政変的なクーデタ、12月9日の王政復古政変と似たようなものと考えていいと思われます。

そのような意味で、今回の記事では端折りましたが、「討幕」の定義をちゃんとしてから、この問題を語る必要があると思っています。

次回は大政奉還に反対する主要勢力だった会津藩などの動向を書きました。
龍馬と対立していたのは会津藩などの勢力ですよ。自明のはずですが、なぜか理解されないですね。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


スポンサーサイト

【2010/11/01 17:13】 | 信長
トラックバック(0) |


ながお
桐野様

こんにちは 龍馬の大政奉還運動は土佐藩を政局の前面に立たせるためのものだったのでしょうか。脱藩を繰り返しても土佐への思いはあったのでしょうね。薩長と出遅れた土佐という構図は後の自由民権運動あたりまでひきずっていると思います。

西郷
桐野
ながおさん

薩摩藩が大政奉還建白を支持したのは、土佐藩を前面に立てて、もう後退させないようにするという思惑もあったと思います。
そのような趣旨を書いた西郷の手紙が残っています。
要は、土佐を主役に祭り上げて、薩長との共同戦線から下りない担保にしようという面もあったでしょうね。
薩摩藩にとって、(長州藩が京都政局に登場できないため)土佐藩の存在はそれだけ重要だったということでしょう。

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
桐野様

こんにちは 龍馬の大政奉還運動は土佐藩を政局の前面に立たせるためのものだったのでしょうか。脱藩を繰り返しても土佐への思いはあったのでしょうね。薩長と出遅れた土佐という構図は後の自由民権運動あたりまでひきずっていると思います。
2010/11/02(Tue) 07:09 | URL  | ながお #-[ 編集]
西郷
ながおさん

薩摩藩が大政奉還建白を支持したのは、土佐藩を前面に立てて、もう後退させないようにするという思惑もあったと思います。
そのような趣旨を書いた西郷の手紙が残っています。
要は、土佐を主役に祭り上げて、薩長との共同戦線から下りない担保にしようという面もあったでしょうね。
薩摩藩にとって、(長州藩が京都政局に登場できないため)土佐藩の存在はそれだけ重要だったということでしょう。
2010/11/04(Thu) 19:57 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック