歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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帰鹿報告その3。

二日目は前日と打って変わって好天で、陽ざしがとても強かった。
指宿まで遠出することにした。

途中、南林寺を通過したので、調所氏に頼んで寄ってもらう。
ここには、西郷とともに入水した勤王僧月照の墓がある(写真参照)。
月照

前回来たときには、無縁塚が所狭しと並んでいたが、きれいに整理してあった。
月照だけでなく、ある程度名前の知られた人物の墓がいくつもあった。気づいただけでも、

薬丸兼義(幕末期の薬丸自顕流当主)
美玉三平(生野の乱のリーダー)
篠崎彦十郎(江戸藩邸留守居役、焼き打ち事件で自害)
森山新蔵(西郷・村田らと流刑となるが自害)
赤塚源六(戊辰戦争時、春日丸艦長)
徳田邕興(江戸期の軍学者)


撮影を終えてから、一路、指宿に向かう。
桜島は頂上に雲がかかってみて、全容が見えない。一日中、ずっとそうだった。ちなみに、開聞岳もガスっていて見えなかった。

指宿市役所で、今和泉家墓所を尋ねる。案内のパンフレットをもらったが、まだ地元も宣伝に本腰を入れていない感じだった。

今和泉島津家の墓所は、市街の北のはずれにあった(写真参照)。
今和泉家墓所

初代から11代までの墓がある。そのうち初代~5代までは合葬されており、6代目から単独の墓である。ここの墓所の成立時期と関わると思われる。

10代当主が忠剛(ただたけ)である(写真参照)。
この人が天璋院篤姫の父親だ。
島津忠剛

じつは、島津本宗家の26代斉宣(斉彬祖父)の七男だが、一門家の今和泉家の養子となって家督を継いだ。
いくつかの墓標や灯籠などがだいぶ傷んでおり、早いうちに補修したほうがよいのではと思われた。

その後、今和泉邸跡に行く。現在は今和泉小学校になっている。
海に面しており、とても風が強かった。
領主仮屋跡とされる石垣が残っている(写真参照)。この一帯は隼人松原とも呼ばれていて、松並木がきれいである。
海岸には積荷の運搬施設である雁木が残っていた。
隼人松原

ほかにも、小学校内に今和泉家ゆかりの手水鉢などが保存されているそうだが、今回は見学しなかった。

一応、目的は達したので、鹿児島に戻ることにしたが、調所氏が近所の温泉に先祖の調所広郷の銘を刻んだ手水鉢があるというので、見に行くことにした。

二月田温泉(にがつでん~)といい、地元の人たちが利用する鄙びた温泉である。
でも、別名を「殿様湯」ともいい、江戸期の島津家の殿様がわざわざ入湯したという由緒がある。
その湯殿跡も残っていたが、江戸期にもかかわらず、タイル張りだったから、往時は立派なものだったと思われる。

手水鉢は温泉に隣接した小さな八幡宮の境内にひっそりと置かれていた。
その側面に「文政十一年」(1828)と年次があり、左下に「調所笑左衛門広郷」と刻んであった。
調所広郷が、重豪か斉興の入湯に同行したときのものか。

鹿児島に帰ってから、もう少し撮影したものがあるが、それは次回に。
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【2007/03/02 02:09】 | 幕末維新
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