歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

一昨5日、鹿児島県日置市伊集院町での講演は無事終わりました。
どれくらいの方においでいただけるのか不安があったのですが、会場はほぼ満杯でした。

鹿児島空港まで、同市教育委員会のT田さんが迎えに来てくれる。
この間、会のあれこれでお世話になった人。
じつは、同市の公民館が所蔵していた小松帯刀書簡を事前に教えていただき、写真版も見せていただいた。
在京の小松が国許の家老桂久武に宛てたもので、年次は慶応3年(1867)5月15日。
ちょうど四侯が二条城に登営して将軍徳川慶喜と会見したことを詳しく報告したもの。
いわゆる四侯会議のいきさつは越前藩の『続再夢紀事』がいちばん詳しいと思うが、薩摩藩側からも新たに見つかったことになる。

この小松書簡を講演会直前に、南日本新聞が写真付きの大きな記事にしてくれたこともあり、市民の関心も高くなり、集客にもつながったかもしれない。
また、会当日、この小松書簡とほかの小松文書2点(和歌と礼状)も展示されていた。
私は小松書簡の日付(四侯会議より3カ月後の日付になっている)について疑問があり、写真版だけでは不明だったが、原文書を間近で見て疑問が氷解した。

演題は「小松帯刀と龍馬」。
あとで、「小松帯刀と坂本龍馬」と据わりのよいタイトルにすればよかったと少し後悔。
講演では、小松と龍馬の出会い、薩長同盟、寺田屋事件、霧島新婚旅行など2人の関わりと交流についてひととおり話したのち、薩長同盟が締結された可能性が高い、小松の京都屋敷「御花畑」の所在地についての探索結果、そして小松の闘病生活とその死がどのようなものだったのか、地元の人たちにはぜひ知っていただきたかったので、小松の墓所も含めて資料とパワーポイントを使ってかなり詳しくお話した。

講演会が始まる前、日置市長さんに挨拶し、拙著『関ヶ原 島津退き口』を贈呈。島津義弘の話で盛り上がる。
その後、T田さんから地元の史跡で行きたいところに連れて行くといわれたので、迷わず市来鶴丸城をリクエスト。
日置市は旧日置郡の伊集院、東市来、日吉、吹上の4町が合併したことにより、有名な史跡や観光名所をたくさんもっている。私がすぐ思いつくだけでも、

徳重神社(旧妙円寺、島津義弘菩提寺)
小松帯刀墓所、菩提寺清浄寺
美山(薩摩焼のふるさと)
伊作城(現・島津本家発祥の地)
日置島津家関係史跡(島津歳久や赤山靱負の墓など)
(有名人では、長渕剛、稲森いずみ、中島美嘉などの出身地)

市来鶴丸城もそのひとつ。
鶴丸城といえば、近世島津氏の居城となった鹿児島市のそれが有名だが、市来鶴丸城は中世の山城だから、こちらのほうが古い。
ここに行きたかったのは山城としての魅力もあるが、何といっても、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルとアルメイダが訪れたことがあること。
市来鶴丸城の城主は日新斎忠良の家老、新納康久。その家宰がザビエルに帰依して、ミゲルという洗礼名をもらった(実名は不明)。ミゲルが戦国期薩摩を代表するキリシタンである。ザビエルとアルメイダの布教とミゲルの顕彰も込めて、近年、同城の一角にザビエルとミゲルの銅像が立ったと聞いていたので、一度訪れてみたかった。
もう夕暮れだったため、写真が暗いですが、挙げておきます。

市来鶴丸城

講演終了後、15年前、関ヶ原の退き口踏破のとき、お世話になったI崎さん(現・県議)から宴席に招かれる。
そしてお会いしたのがK田さん。15年前の踏破行のときお会いし、この踏破行を始められたK田さんのご子息。父上のK田さんは数年前に他界された。
K田さんが始められたこの踏破行は今年までじつに50年以上も欠かさず毎年続けられている。私も15年前、在りし日のK田さんにお会いして、深い印象をもった。まさに薩摩隼人、薩摩兵児とはかくなる人かと思うほど、古武士然とされた方だった。
その息子さんとお会いできて、とてもよかった。15年前の踏破行のことなどで話が弾み、ついつい焼酎を飲み過ぎてしまった。

翌6日。
ホテルの朝食が奄美の鶏飯だった。
縁起がいいなと思った。奄美で花開いた画家、田中一村の展示を見に行くつもりだったからだ。
2週間前、郷里で講演をしたとき、時間の関係で見られなかったから、ようやく見ることができた。
会場は鹿児島市立美術館。終了1日前という幸運だった。
10年近く前にも一度鑑賞したことがあるが、そのときより点数も増え、さらに作品の考証や研究が一段と進んだようで、展示法が整然としていて、わかりやすかった。
とくにあまり知られていなかった千葉時代の20年の作品がたくさん展示されていた。奄美時代とはまた異なる画風で、南画というのか日本画的な色彩が強い。
それが、奄美に移ってから強烈な画風になる。やはり、「アダンの海辺」など一連の作品は圧巻である。今回、初めて間近(わずか10センチほどまで)で見ることができ、細部まで神経が行き届いた作品であることを納得。

ただ、会場には絵はがきや一筆箋などのグッズが置いてなかった。
あったのは重くて厚い図録のみ。著作権その他がからんでいるのかもしれないと思ったが、やや寂しかった。
以前、奄美大島の田中一村記念館で購入したものがなくなってしまっていたので買いたかったのだが……。

一村展を見終わってから、隣接する鹿児島県立図書館に行く。
ずっと懸案になっていた史料(おもに自治体史)を郷土史関係コーナーからいくつか探し出し、複写した。
同コーナーには拙著も置いてあった。有難うございます。

それから、空港行きのリムジン乗り場に向かったが、途中、最近できた像をいくつか見た。
鹿児島市が市内数カ所に一度に立てたもので、銅像ではなく、何かの合金でできている。
坂本龍馬とお龍の像もあるのを知っていたが、時間の関係で撮影できなかった。
撮影したのは、島津重豪と伊地知正治・吉井幸輔という渋い人選のもの。念のためにあげておきます。
アルミ像1

アルミ像2

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

スポンサーサイト

【2010/11/07 11:56】 | イベント
トラックバック(0) |

質問です
岩剣石塁
 講演、とても面白かったです。
質問する時間がなかったのでこちらで。

 なぜ小松・西郷・大久保らは、治外法権の
京屋敷を出て、治安の悪い市街に居を構える
必要があったのでしょうか?
 当時の京屋敷の規模はわかりませんが、
藩士の宿泊施設くらいありそうなものですし、
ましてや命を狙われている家老クラスの人物。
保安上、問題がありそうです。
藩屋敷内に部屋くらい割り当てられなかったの
でしょうか?

家族、京都妻
桐野
岩剣石塁さん

先日の講演には、わざわざ遠いところから駆けつけていただき、有難うございました。

ご質問についてですが、一言でいえば、藩邸内では手狭とプライバシーの確保が難しいということでしょう。
藩邸にもちろん公務の部屋はあります。しかし、プライベートは別でして。
貧乏で若い下級武士は藩邸内の長屋に住むしかありませんが、小松帯刀など重役はほぼ例外なく私邸を別に用意していますね。
私が確認できたところでは、小松のほか、西郷、大久保、伊地知正治、吉井幸輔、内田仲之助などです。
小松は家老、西郷、大久保は側役、伊地知は軍役奉行、吉井と内田は京都留守居役で、それぞれ本禄とは別に役料が付きます。

家老は役料1000石
側役は役料90石+15人賄料
京都留守居は役料87石

といった具合です。時代によって上下します。
とくに幕末は在京勤務の場合、さらに手当が付いたと思われます。
また、小松・西郷・大久保クラスになると、国事周旋に関わるというので、別に交際費もあったと思われます。
それらを元手に藩邸近くの民家を借りるわけですね。小松の場合は家老ということで、格別に近衛家別邸を借用しています。

たしかに藩邸内にいるほうが治安面では安心ですが、私邸にも警固はいます。
たとえば、西郷ですと、弟の信吾(のち従道)、従弟の大山弥助などの親類、ほかに黒田清隆や村田新八まで同居していましたから、自然と彼らが西郷の警固にあたります。
大久保も、警固用の家宅に用心棒を入れていましたし、また品川弥二郎など長州藩士も住まわせていました。
小松の場合は大身の一所持ですから、自前の家臣団をもっています。京都にもおそらく10人以上の家来や郎党を連れてきているはずです。
ですから、逆にこれだけの大所帯を藩邸内に住まわせるのは大変です。

そんなわけで、藩邸ほどではないにしろ、少人数での襲撃には十分対処できたと思います。

あと、彼らが私邸を借りる一番の理由は家族、といいますか、京都妻と一緒に住むためでしょう。さすがに藩邸内に彼女たちを住まわせるわけにはいきませんから。
小松の場合、慶応年間に京都妻2人との間に4人(うち1人は夭逝)の子どもができていますから、もはや家族ですよね。
小松は講演でお話しした近衛家別邸「御花畑」のほか、もうひとつ別邸をもっていた可能性があります。おそらく2人の京都妻が住み分けしていたと思われます。
さすがに家老ともなると違いますね(笑)。

以上でよろしいでしょうか。

なるほど
岩剣石塁
 即答、ありがとうございます。
なるほど。西郷の警備に従道、大山弥助、
黒田清隆、村田新八なら蒼々たるメンバー
ですね。
 それと京都妻の存在。
確かに藩邸に住まわせるのはいろいろと
問題がおこりそうですね(笑)

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
質問です
 講演、とても面白かったです。
質問する時間がなかったのでこちらで。

 なぜ小松・西郷・大久保らは、治外法権の
京屋敷を出て、治安の悪い市街に居を構える
必要があったのでしょうか?
 当時の京屋敷の規模はわかりませんが、
藩士の宿泊施設くらいありそうなものですし、
ましてや命を狙われている家老クラスの人物。
保安上、問題がありそうです。
藩屋敷内に部屋くらい割り当てられなかったの
でしょうか?
2010/11/10(Wed) 00:49 | URL  | 岩剣石塁 #qHI8YIeE[ 編集]
家族、京都妻
岩剣石塁さん

先日の講演には、わざわざ遠いところから駆けつけていただき、有難うございました。

ご質問についてですが、一言でいえば、藩邸内では手狭とプライバシーの確保が難しいということでしょう。
藩邸にもちろん公務の部屋はあります。しかし、プライベートは別でして。
貧乏で若い下級武士は藩邸内の長屋に住むしかありませんが、小松帯刀など重役はほぼ例外なく私邸を別に用意していますね。
私が確認できたところでは、小松のほか、西郷、大久保、伊地知正治、吉井幸輔、内田仲之助などです。
小松は家老、西郷、大久保は側役、伊地知は軍役奉行、吉井と内田は京都留守居役で、それぞれ本禄とは別に役料が付きます。

家老は役料1000石
側役は役料90石+15人賄料
京都留守居は役料87石

といった具合です。時代によって上下します。
とくに幕末は在京勤務の場合、さらに手当が付いたと思われます。
また、小松・西郷・大久保クラスになると、国事周旋に関わるというので、別に交際費もあったと思われます。
それらを元手に藩邸近くの民家を借りるわけですね。小松の場合は家老ということで、格別に近衛家別邸を借用しています。

たしかに藩邸内にいるほうが治安面では安心ですが、私邸にも警固はいます。
たとえば、西郷ですと、弟の信吾(のち従道)、従弟の大山弥助などの親類、ほかに黒田清隆や村田新八まで同居していましたから、自然と彼らが西郷の警固にあたります。
大久保も、警固用の家宅に用心棒を入れていましたし、また品川弥二郎など長州藩士も住まわせていました。
小松の場合は大身の一所持ですから、自前の家臣団をもっています。京都にもおそらく10人以上の家来や郎党を連れてきているはずです。
ですから、逆にこれだけの大所帯を藩邸内に住まわせるのは大変です。

そんなわけで、藩邸ほどではないにしろ、少人数での襲撃には十分対処できたと思います。

あと、彼らが私邸を借りる一番の理由は家族、といいますか、京都妻と一緒に住むためでしょう。さすがに藩邸内に彼女たちを住まわせるわけにはいきませんから。
小松の場合、慶応年間に京都妻2人との間に4人(うち1人は夭逝)の子どもができていますから、もはや家族ですよね。
小松は講演でお話しした近衛家別邸「御花畑」のほか、もうひとつ別邸をもっていた可能性があります。おそらく2人の京都妻が住み分けしていたと思われます。
さすがに家老ともなると違いますね(笑)。

以上でよろしいでしょうか。
2010/11/10(Wed) 12:34 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
なるほど
 即答、ありがとうございます。
なるほど。西郷の警備に従道、大山弥助、
黒田清隆、村田新八なら蒼々たるメンバー
ですね。
 それと京都妻の存在。
確かに藩邸に住まわせるのはいろいろと
問題がおこりそうですね(笑)
2010/11/10(Wed) 23:56 | URL  | 岩剣石塁 #qHI8YIeE[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。