歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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第46回「土佐の大勝負」

1日遅れの感想です。
もはや、ずれまくった軌道は修正しようもないのですが……。

龍馬が土佐に運び込んだ小銃1000挺の一件、まったくいただけませんね。

まず基本的なことですが、龍馬は山内容堂と会っていません。というか、会えません。
容堂を説得して大政奉還の建白書を書かせたのは、後藤象二郎の仕事です。大政奉還を龍馬の仕事にしようとしていますが、後藤の手柄を横取りしてはいけないでしょう。
ドラマでは、後藤が容堂に龍馬がねたましかったと告白させていましたが、いえいえ、後藤は薩土盟約といい、大政奉還建白書といい、立派な仕事をしています。

そして小銃1000挺をめぐる一件も、これまで何度か紹介したように、龍馬と木戸の間で合意が図られたものです。
龍馬宛ての木戸書簡(9月4日付)で「狂言」とか「大芝居」という隠語を使って、京都・大坂での薩長芸三藩の挙兵計画を語り、これに土佐藩も合流するようにと木戸が勧めています。
すなわち、「乾頭取」(板垣退助)と「西吉座元」(西郷隆盛)が「此の狂言喰ひ違ひ候ては世上の大笑らひと相成り候」と述べ、土佐藩討幕派の代表である板垣と薩摩藩の西郷がしっかりと手を結び、歩調を合わせることが大事だと述べています。

龍馬はこの木戸書簡と小銃1000挺をもって土佐に乗り込むわけです。木戸書簡はほかでもない、長州藩の態度表明であると同時に、龍馬が自分の立場も木戸書簡によって語らせ、土佐藩の藩論を薩長芸三藩と合流する方向に導こうとしたわけです。

木戸書簡が土佐藩家老の渡辺弥久馬(のち斎藤利行)や大目付の本山只一郎に披露されていることは、龍馬の理解者で、龍馬と共に土佐に帰ってきた岡内俊太郎が長崎駐在の佐々木高行に宛てた書簡(10月4日付)でわかります。渡辺も本山も板垣に近い立場のようです。

「長藩木戸準一郎に薩長間の事情又将来為さんとする処の方策に付き、一之芝居に組み立て、其の者などに薩の西郷吉之助を始め、土佐人をも其の者となすの組み合わせたる手紙を書きもらい、此の手紙に龍馬より添へ手紙を認め、これを渡辺弥久馬殿に宛て届んため、一封となし、これを私携へ弥久馬殿お宅へ参り」云々

とあり、木戸書簡と龍馬書簡を岡内が渡辺弥久馬に届けたことがわかります。その後、本山只一郎宅にも行ったとありますから、本山にも見せたことは間違いないでしょう。

そして、龍馬が前述の木戸孝允書簡に返信を書いています(9月20日付)。
それには、小銃1000挺を土佐に運び込むのは「急々本国(土佐)をすくわん事を欲し」たためだとあります。また、1000挺を自分の一存で購入したのは、薩摩藩の大久保一蔵が長州に来たこと(薩長芸三藩の挙兵計画の交渉が目的)を知ったからだと述べています。
つまり、龍馬は土佐藩も薩長芸三藩挙兵計画に合流させようとし、そのためには武器が必要だと判断したわけです。ドラマとは趣旨が全然違います。

さらに龍馬は土佐に帰ると、「乾退助に引き合わせ置き、それより上国に出候て」つまり、板垣退助に武器を引き渡したうえで上京すると述べ、さらに「後藤庄次郎(象二郎)を国(土佐)にかへすか、又は長崎へ出すかに仕りたく存じ申し候」と注目すべきことを述べています。
龍馬はこの時点で、後藤の大政奉還路線が薩長の支持を得られずに行き詰まったと判断し、後藤を京都から国許か長崎に戻すべきだと述べているわけです。つまり、龍馬は後藤が失脚せざるをえないと判断したわけです。ドラマとはえらい違いです。龍馬としては土佐藩の顔を後藤から板垣に変える、そして薩長芸三藩と合流するという方針で一貫しています。

このことは前述の岡内書簡でも確認できます。

「我が本藩因循もはや一日も油断相成らず、速やかに土佐に帰り、大いにこれらの事情を陳べ(のべ)、是非薩長と事を合するほかこれなし、速やかに土佐に行かんと決し」

なお、ドラマで龍馬が久しぶりに実家に帰っていましたが、これは史実です。
もっとも、岡内書簡には「夜中竊に(ひそかに)上町の自宅に参り、実兄権平にも久し振りにて面会」とあり、大ぴらに帰ったのではなく、夜陰に紛れてひそかに帰ったわけです。脱藩士ですから当然ですね。
このとき、龍馬に同行したのは海援隊の中島信行と戸田雅楽(三条実美家士、のち尾崎三良)、そして岡内の3人です。

また岡内書簡は、在京の後藤象二郎に対して「畢竟(ひっきょう)後藤象二郎殿に説き、薩長と反せぬ様相運ぶ事を主と致し候事情に御座候」と書いています。
これは龍馬の方針とほぼ合致しています。つまり、後藤に土佐藩も薩長(芸)に同調すべきだと説くというわけです。もし後藤がそれを拒絶するなら、龍馬書簡にあったように、後藤を国許か長崎に帰すという段取りだったのでしょう。
岡内がこのように書き、龍馬も後藤の送還をにおわせるほど強気なのは、土佐に帰国しての説得工作により、板垣はむろん、渡辺や本山の同意を得て藩内の討幕派の意志一致ができて薩長芸三藩に合流する道筋ができた(藩論がほぼまとまったかどうかは微妙ですが)という感触があったからでしょう。

大河ドラマの展開と上に述べた史実とはかなり隔たっていることは理解していただけると思います。それと同時に、ドラマの最終盤が史実と大いに乖離するであろうことも予感させます。

なお、上京した龍馬が一転して、後藤に協力し、大政奉還に奔走するのもまた史実です。それにはまた情勢が一転した別の事情が介在しています。それは次回にでも書くことになるでしょう。一言でいえば、薩長芸三藩挙兵計画が(主に薩摩藩のお家事情で)頓挫したからです。

もういまさら何もいいませぬ。
ただ、史実を対置するのみです。

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【2010/11/15 23:47】 | 龍馬伝
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2010/11/21(Sun) 21:49 |   |  #[ 編集]
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だーっ、やっと終わったよ~。って『龍馬伝』でなく1冊分の仕事です。 とくにここ1週間は入稿作業で、睡眠2時間モードで何度意識を失ったことか。 いや~確実に寿命も縮まったことでしょう。 といyてもまだ2冊残っているので、後半戦突入といったところでしょうか。 積
2010/11/16(Tue) 14:39:19 |  shugoroの日記
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