歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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この半月ばかり、講演と原稿締切が交互にやってくる状態で忙しく、なかなか更新もままなりませんでした。

先月分から書きますと、

11月21日(土)
午前中、上越新幹線で、信州上田まで。東京からだと、わずか80分程度で着く。
午後から、池波正太郎真田太平記館で講演あり。
当館は以前も訪れたことがある。
毎年、池波正太郎の作品にちなんだ企画展をやっているが、今回は池波氏没後20周年事業の一環で、「池波正太郎『人斬り半次郎』の舞台を歩く」が開催され、それに伴い、小生に声がかかった次第。

演題は「桐野利秋『京在日記』の魅力」。
同館1Fの開放型ホールが会場となった。
上田市と桐野利秋の縁といえば、何といっても、桐野による上田藩士、赤松小三郎暗殺に尽きる。
当然、『京在日記』の記事をもとにその話をするつもりで、項目としては9つ用意していて、赤松一件はその1番目だった。
案の定というべきか、赤松一件だけで、1時間以上しゃべってしまい、残りの8項目を駆け足でといういつもながらのパターンに陥る(汗)。
結局、20分ほどオーバーして終了。

終了後、東京方面から来てくれた人たち数人とお茶。
夜は青木村の田沢温泉の老舗旅館「ますや」に宿泊。島崎藤村ゆかりの温泉宿のようである。
レトロな旅館だったが、誤算は温泉の湯温がぬるいこと。おそらく35度程度だったのではないか。
かけ流しも善し悪しだと思った。
体が温まらずに早めに就寝。

翌日、真田太平記館のT屋館長が迎えに来てくれ、市内の名所旧跡をいくつか案内してくれた。
田沢温泉近くの大法寺に行く。ここは鎌倉末期の三重塔が国宝になっている。正慶2年(1333)、まさに北条得宗家が滅亡した年に建立されている。
正法寺

そのあと、上田市内に戻り、上田城に赤松小三郎の顕彰碑を見に行く。
講演終了後、この碑について質問があって、私は未見だったので、何とも答えようがなかったから気になっていた。
碑文を読んでみたが、質問にあった「會刺客」云々は会津の刺客ではなくて、私が答えたように、明らかに「會」は「たまたま」と読むべきだろう。また東郷平八郎が同郷の桐野の名前を先頭に出しているから、謝罪の気持ちがあったのか云々についても、答えようもない。
だいたい、この碑は上田史談会が建立したもので、当然、文責も同会にある。東郷の撰文ではない。その証拠に、碑文中に「東郷大将」云々という文字がある。東郷本人なら、自分をそう呼ぶはずがない。おそらく同会が東郷から聞いた話をまとめたものだろう。
碑文中に赤松の教えを受けた薩摩藩士の名前が出ており、「桐野、篠原、樺山」云々とあった。桐野以外は篠原国幹、樺山資紀だろう。桐野の名前が先頭にあるのは明治陸軍の階級順、先任順にすぎないだろう。
赤松暗殺一件で、それほど頭を悩ませるような碑文だとは思えないが……。
赤松小三郎


上田城に行きながら、戦国関係は一切関係なしというのも珍しい。
上田城内に入った頃から雨が降り出してきたので、市内の月窓寺に行き、赤松の遺髪墓を見学。

その後、郊外の信濃国分寺跡に行く。
ここを希望したのは、関ヶ原合戦の前哨戦となった上田城の攻防直前、真田昌幸と東軍に属した長男信幸や本多忠政との開城交渉の舞台になったところだったから。以前、何度か上田を訪れたが、ここは来たことがなかった。
国分寺は現在現役のお寺があり、こちらも三重塔があった。
国分寺三重塔

国分寺跡には現在、資料館がある。
そこで館長さんにご挨拶。軽食をいただいたうえに図録まで頂戴した。
雨のなか、国分寺跡を見学。講堂の礎石群などを見る。国分尼寺跡は線路の向こう側のようだ。JRの線路で分断されたようで。
国分寺講堂


昼食時になり、そばが食べたいとリクエストしたら、T屋館長が「刀屋」に連れて行ってくれた。
池波正太郎が愛した蕎麦屋。2Fの座敷でゆっくりいただいた。
「並」を注文したのに、山のように盛ったのが出てきて驚く。とにかくすごい量が出てくる。隣の若いお客たちが「特大」を注文しているのを見、さらにあっという間に完食したのに目を丸くした。
刀屋

その後、上田駅まで送ってもらう。
T屋館長にはお世話になりました。

ほかのイベントも書くつもりでしたが、長くなったのでいったんこれで切ります。

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【2010/12/05 09:45】 | イベント
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拝聴しました。
中村太郎
講演会では、いろいろ変な質問を致しまして、失礼申し上げました。
「赤松の碑文」の件ですが、私の言い方がまずくて済みませんでした。
おっしゃるように、上田史談会の撰文で、しかも東郷亡きあとの碑の建立ですのに、あの碑文をまるで東郷(or薩摩藩)が贖罪で書いたと勘違いしている地元の人とか某作家の方がおられる、ということを言いたかったのです。
前提が違ってるのですから、東郷に贖罪の気持ちがあったかどうかは論外です。それをお聞きしたかったわけではないのです。
桐野氏が碑について、はっきり書いてくださったので、とてもすっきりしました。
「會」は勉強になりました。有難うございました。

例の写真の件
桐野
中村太郎さん

わざわざ上田まで出席いただき、有難うございました。
桐野の若い頃の写真ですが、奈良迫ミチさんの論文を読み返してみたら、隣の女性は村田家の長女カツだとしていますね。迂濶でした。
奈良迫さんが子孫の方から得られた情報なのかどうか未確認ですが、仮に子孫の話だとしても、鵜呑みにはできないのではないかと思っています。
というのは、例の写真の撮影場所が大阪だという説もあり、まったくの別人の可能性もあるからです。
この件については、今後の課題だと思います。

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この記事へのコメント
拝聴しました。
講演会では、いろいろ変な質問を致しまして、失礼申し上げました。
「赤松の碑文」の件ですが、私の言い方がまずくて済みませんでした。
おっしゃるように、上田史談会の撰文で、しかも東郷亡きあとの碑の建立ですのに、あの碑文をまるで東郷(or薩摩藩)が贖罪で書いたと勘違いしている地元の人とか某作家の方がおられる、ということを言いたかったのです。
前提が違ってるのですから、東郷に贖罪の気持ちがあったかどうかは論外です。それをお聞きしたかったわけではないのです。
桐野氏が碑について、はっきり書いてくださったので、とてもすっきりしました。
「會」は勉強になりました。有難うございました。
2010/12/06(Mon) 23:49 | URL  | 中村太郎 #-[ 編集]
例の写真の件
中村太郎さん

わざわざ上田まで出席いただき、有難うございました。
桐野の若い頃の写真ですが、奈良迫ミチさんの論文を読み返してみたら、隣の女性は村田家の長女カツだとしていますね。迂濶でした。
奈良迫さんが子孫の方から得られた情報なのかどうか未確認ですが、仮に子孫の話だとしても、鵜呑みにはできないのではないかと思っています。
というのは、例の写真の撮影場所が大阪だという説もあり、まったくの別人の可能性もあるからです。
この件については、今後の課題だと思います。
2010/12/12(Sun) 23:25 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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