歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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何度かコメントをいただいたばんないさん、いろいろご教示有難うございます。御案内のサイトはお気に入りに追加して勉強させていただきます。

さて、お返しといっては何ですが、京都大雲院にある島津以久の墓所をご紹介しておきます。

島津以久は、島津義久・義弘兄弟とは従弟にあたります。肝付氏と戦った廻城で壮烈な討死を遂げた島津忠将(貴久の弟)の嫡男です。

別名、幸久、征久とも呼ばれ、官途名は父と同じ右馬頭です。
慶長8年(1603)、徳川家に一度収公された島津豊久旧領である佐土原を与えられて大名となり、近世の佐土原島津家の祖となります。
そして同15年(1610)4月9日、伏見で亡くなっています。享年61。

京都で亡くなったせいか、墓所が大雲院になりました。大雲院と以久が生前に何らかの縁があったのかどうかはよく知りません。

前回コメントで書いたように、大雲院は織田信長嫡男の信忠の院号を寺名にしているように、織田家ゆかりの寺です。墓所にある一番大きな墓が信長・信忠父子の墓です。

そして、その墓の手前に石組みで区画された以久の墓所がありました(写真参照)。正面の石扉に「丸十」の家紋があったので、島津家ゆかりの墓所だとは思いましたが、その時点では誰の墓だかわかりませんでした。
島津以久墓所

石扉の奥はこんな感じで、墓が並んでいます(写真参照)。なお、写真の後ろ右手に白く大きな墓標が映っていますが、信長・信忠父子の墓です。
以久墓

正面の墓2基が中央メインに位置しており、夫婦墓だろうかと思いました。
右側の墓の線香台に小さな板状の卒塔婆?がありました(写真参照)。
念のため少し大きく撮影しておいたので、何とか墓の主がわかりました。
以久卒塔婆

卒塔婆?に「高月院殿照誉宗恕大居士」という院号・戒名が書かれていました。
これに該当するのは、以久しかいません。
『島津氏正統系図』によると、以久は入道名が宗恕で、法号が「照誉高月院」ですから、まさにぴったり一致します。

それでも、まだいくつか疑問があります。

以久の左横の墓は夫人なのかどうか? あるいは二代目の忠興か?
以久の手前に左右に並んでいる墓は、殉死でもした家臣の墓だと思っていましたが、ばんないさんのサイトによれば、佐土原島津家の歴代藩主の墓もこの寺にあるそうですから、もしかしたら歴代藩主の墓かもしれません。以久から左回りで歴代藩主の墓かもしれません。
左右に4基か5基ずつ並んでいたように記憶しています。

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【2007/03/04 16:08】 | 戦国島津
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大雲院
ばんない
大変興味深い写真をありがとうございました<(_ _)>

実は京都に大雲寺とか大雲院と言うところはあちこちあって(^^;)、島津以久の墓のある大雲院は寺町通りにあるということで、それらしいところを探したのですが、何しろ寺町通りは豊臣秀吉が寺を集めたので通りの名前になったというくらい寺だらけでよく分からなかったのです。

織田信忠の菩提寺ということで調べてみたら、このお寺、○○年前にクラスメートの父上のお葬式をしたので一度行ってました。最もそのころは島津以久なる人物すら全く知らなかったので、そんなすごい寺だとは全く知りませんでした。通常は円山公園という大観光地の中でひっそり戸を閉ざしている寺です。
おそらく桐野さんが拝観できたのは、作家の取材だったからではないかと思います。

拝観を拒絶しているのは、有名武将の菩提寺ということでマニアが殺到するのを避けているなどの事情があるのかも知れません。ただ、URL欄に書いたように、ここには「祇園閣」という昭和初期の珍建築があるので、そこの特別公開の時に墓所も見られるチャンスがあるかも知れませんね。



中村武生
 ごぶさたをしております。
 いつも興味深くブログを拝見しております。たいへん勉強させていただいております。

 さて大雲院の島津以久墓の前に並ぶ五輪塔5基については、京都の墓碑調査記録の最高峰とでもゆうべき寺田貞次『京都名家墳墓録』上巻、170-171ページにその銘文が記載されております。

 それによれば7名の戒名と没日の記載があり、うち4名がやはり殉死者で、慶長15年(1610)7月15日に亡くなっています。

 あとは寛永14年(1637)8月7日がふたり(月が読みにくいものがあるようで、でもおそらくは8月か)、承応2年(1653)6月22日がひとりです。

 寛永・承応の3人はどういう方かわかりません。
 
 何かのお役にたてば幸いです。
 当該部分がご入用でしたらご連絡くださいませ。

 すでにご承知のことでしたらお許しください。

殉死
桐野
中村武生さん、お久しぶりです。

ご教示有難うございます。
ちゃんとしたいい史料本があるのですね。

やはり殉死でしたか。ふつう、殉死した家臣の陪墓は主君のそれより小さく作ることが多いと思うのですが、島津以久の墓所では、ほとんど同じ大きさの墓ですね。

取り急ぎ御礼まで。
またご連絡します。

大雲院と春長寺
桐野
ばんないさん、こんにちは。

ご指摘のように、大雲院とよく似た寺名はありますね。私も洛北岩倉に大雲寺があるのを知ってします。

それで、大雲院の所在地ですが、2度移っているようですね。以下のサイトに少し詳しく書かれています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/daiun-in.htm

最初、正親町天皇の勅命により、信長・信忠父子の菩提を弔うために、御池御所(二条御所ではないかな?)に浄土宗の貞安上人が開山して、信忠の院号にちなんで大雲院と命名したようです。信長ではなく信忠だったのは、御池御所が信忠自刃の地か、その近くからだったと思われます。

その後、豊臣秀吉の京都改造計画により、ご存じのように寺町への寺院集住策がとられますが、そのとき、大雲院は寺町四条南に移転しています。現在の四条河原町交差点の高島屋の西南にあたる地です。

さらに幕末の禁門の変で大雲院は焼失したのに加え、寺町通りが繁華街になってしまったため、1973年(昭和48)に現在地に移転したようです。現在地に移ってから、まだ30年ちょっとしかたっていないのですね。

それで、大雲院のひとつ前の所在地だった寺町四条南の地(正確には、京都市下京区寺町通四条下る貞安前之町)には、現在、春長寺があります。

これは信長時代に京都所司代をつとめた村井貞勝の法号(春長軒)にちなみます。現住所に大雲院開山の貞安上人の名が含まれているので間違いないでしょう。
一度、訪れたことがありますが、境内に村井貞勝父子の墓がありました。

現在の大雲院の祇園祭の山車のような建物が「祇園閣」というんですね。一種の展望台でしょうか? 一度昇ってみたいものです。特別拝観期間もあるようですね。


太雲院
佐多
桐野様
はじめまして。
佐多と申します。関東生まれの関東育ちですが、両親は鹿児島出身です。歴史好きでネット検索して見つけた次第です。島津以久公の母は佐多上野介忠成の息女で遠い一族にあたります。拝観が可能であれば是非訪れたい所です。
さて、寛永年間の墓は宮崎県の地方郷土史会まいづるによると忠興公の殉死者だそうです。忠興公の墓もあるのかもしれないですね。
後、孫の久信公の幼名は菊寿丸です。その子久敏公は菊袈裟丸で東京の吉祥寺に巨大な五輪塔の墓が存在しています。その隣には町田図書久幸の墓もあります。その他品川の広岳院には島津玄蕃頭忠紀公の崩れた巨大な墓もありました。杉並の大円寺にも都城島津家や平佐北郷家、本城家(永吉家庶流)などもあります。一度見られるとよいかと思われます。

佐多家
桐野
佐多さん、こちらにもコメント有難うございます。

大雲院には、やはり忠興の墓もありましたか。
上記写真のなかで、おそらく以久の向かって左隣の墓がそうではないかと思います。
となりますと、手前左右の墓は以久・忠興父子のそれぞれの殉死者の可能性が高いですね。

垂水家と佐多家の縁、ご教示有難うございます。

そういえば、忠将の弟、尚久の一女も佐多忠常に嫁いでいますね。
佐多忠成は日新斎との関係が深かったので、そこから、忠将・尚久兄弟との縁も出来たのでしょうね。

佐多家といえば、知覧ですねえ。
有名な武家屋敷には行ったことがありますが、島津家墓所はまだ詣でたことがありません。今年行けたらいいなと思っております。

大円寺は知っておりましたので、前から行こうと思っていました。
ご教示の吉祥寺、広岳院なども機会があれば、行ってみたいです。




佐多
知覧へ行くのであれば知覧文化という冊子も閲覧されると佐多氏系譜なるものが記載されていて、人物関係がわかると思います。(国会図書館にも所蔵されていますが)
佐多忠成公の室は島津運久公の息女です。ここから相州家との縁が始まっています。忠常(久政)公の子息久慶公は中書家久公の息女を室に迎えています。忠充公は鎌田氏、忠治公は島津久元公の息女、この後は養子が入っていますので肝属家や宮之城家庶流、佐志家、加治木庶流、越前家などから正室を迎えています。久福公は当初重豪公の息女を正室へ迎えるはずでしたが、近思録崩れの影響で父が強制隠居になり、破談になったようです。
佐多忠将公は頴娃家の系譜によると頴娃氏から室を迎えているようです。領地が近接している為でしょうか。
知覧の島津墓地は五輪塔や山川石のような宝ぎょう殷塔、角石型や宗功寺のような家型(小さいです)など色々あります。

私の祖父も知覧に墓があります。麓の武家屋敷に居住はしていなかったので、かなり離れた庶流だと思います。系図を探しているのですが、親戚はばらばらで位牌すらどこにいったのかわからない状態で苦労しています。

佐多氏系図
桐野
佐多さん、こんにちは。

佐多氏の系譜が「知覧文化」に収録されていたり、今回図書館に所蔵されているとのこと、度々のご教示有難うございます。

さて、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺』諸氏系譜二にも、佐多氏の系図が第一と第二に分かれて2種類収録されています。
第一が本家、第二が庶流のように見受けられます。
ただ、第一のほうは江戸中期の久武までですね。幕末まではありません。
「知覧文化」などには幕末まで収録されているのでしょうか?

お名前からそうだろうと推察しておりましたが、やはり佐多さんもご一族なんですね。



佐多
桐野様、こんばんわ。
知覧文化ですが、
13号 佐多家文書(佐多直忠様の所蔵文書で佐多左馬介通久の後胤で志志目家より養子に入った直邑(…上にくが3つ付きます)から数代まで
16号 佐多久英覚書(慶長の役従軍記)
18号 有馬純正筆『佐多氏系譜』久福公代まで
20号 『本藩人物誌』所収佐多氏系譜
23号 内屋敷平山家文書(知覧島津家の役人、久峰公母堂伊地知氏女於半?様の法号微笑院?が記載されていたような気がします。その他佐多氏庶流の達山勘助が役人平山氏を殺害して逃亡し、出水で発見され獄死後に磔になったと記載があり何とも凄い事件があったものだし、よく活字化されたなぁと思います)
25号 佐多忠光関係史料について(初代の特定される文書があるか?といった内容)
28号 佐多式部少輔久治家文書
35号 佐多氏系譜後編(久邦公代の前半欠落~久徴公代途中まで)
大体嫡流と有力な庶流のみしかないです。
知覧の島津墓地には島津木工久治という墓があり、これが誰か不明です。系図には記載されていません。が、久徴公の嫡男ではないかと思われます。久徴公の後を剛二郎様が継承されていますので、二男なので剛二郎となったのではないかと推測しています。

知覧文化
桐野
佐多さん、こんにちは。

「知覧文化」、不勉強でよく知らなかったのですが、充実したラインナップですね。
古書もあるようなので、探してみたいと思います。
ご教示有難うございました。



佐多
桐野様
知覧文化は知覧町立図書館に在庫がある場合がありますので、ホ-ムページで確認された方がよいです。古書ですと高いです。刊行されているものもPDF化されていますので内容も確認出来ます。

元由廻城主
肝付人
桐野様
肝付家を調査している肝付人と申します。下記の肝付治部左衛門兼家(肝付兼続の一族、元由廻城主)は、どういう人物かご存知なら教えてください。
元由廻城主の意味が理解できません。廻城主なら福山廻城のことで、元由とはどういう意味か知識がありません。1561年福山廻城を16代肝付兼続が家臣肝付治部左衛門尉兼名に城攻めを命じ、落城後、島津家に明け渡すまで城主を務め、その後志布志地頭を務めました。ですから、福山廻城主は兼名だけです。
肝付治部左衛門兼家は肝付治部左衛門尉兼名の子でしょうか。宜しくお願いします。

島津以久は慶長15年(1610年)に江戸幕府の命で城建設の「お手伝い普請」を命じられ佐土原から上洛、同年4月9日に伏見にて客死しました。
島津氏は元々曹洞宗でしたが、この以久上洛中にここ大雲院の僧侶に非常に世話になったそうで、墓所もここに築き、更に佐土原島津家は浄土宗に宗旨替えしています。
なお、4人の家臣が慶長15年(1610)7月15日に殉死しました。
 ・久保権兵衛
 ・猿渡左近丞
 ・肝付治部左衛門兼家(肝付兼続の一族、元由廻城主)
 ・日高大炊左衛門重勝
この4人の墓も以久墓の側に築かれました。


コメント御礼
桐野
肝付人さま

メール中、肝付治部左衛門兼家(肝付兼続の一族、元由廻城主)はどんな資料に書いてあったのでしょうか?

『本藩人物誌』の島津以久譜に殉死の4人が載っていますが、そのなかに似たような記述があります。

「肝付治部左衛門兼家[肝付兼続の一族ノ由廻城ノ城主ナルベシ]」 []内は割書

これなら意味が通ります。
「元由」は「ノ由」の誤植でしょう。
「ノ」は「之」に通じます。
ご覧になった資料は「之」を「元」に間違えた可能性がありますね。よくある間違いです。

兼名と兼家が同一人物なのか親子なのか、私にはよくわかりませんが、年代的には同一人物の可能性は低いでしょうね。
島津以久が国分清水城主だった頃、廻城も以久の領内だったのでしょうかね? それで、兼名の縁者である兼家を城主にしたのかどうか? 父の仇ですけどね。

以上、あまりお答えになっていないですが。


元由の件
肝付人
桐野様  コメントありがとうございます。さすがに、ご指摘に納得しました。

肝付治部左衛門兼家(肝付兼続の一族、元由廻城主)はネット上の情報です。ご指摘の通り『本藩人物誌』の情報と思われます。
『本藩人物誌』は江戸後期に編纂されたとか。200年以上昔の人物紹介本で内容は不明な箇所も多々ありそうですが。
「元由」の説明がわかり、感謝です。長い間、意味不明で、やっと、すっきりしました。
高山郷土誌では、5代当主肝付兼右を黎明館に保存してある古文書には、5箇所に「兼石」と記載されているので、兼石(かねいし)とありますが、しかし、人名には「石」の字は使用しないはずです。なぜなら、石は愚か者の意味があります。もちろん、例外はありますが。
肝付兼続の一族の文も、兼続の子の意味でしょうか。
兼名と兼家は、別人です。ただ、親子の可能性はあると思いますが、資料がありません。兼家が廻城主であった可能性はないと思います。(父が兼名で廻城主と記された可能性はある。)
国合原の合戦で戦死した志布志地頭肝付三河守入道竹友の父母や子の名前が不明で、竹友は歴史上有名人で墓も現存していますが、桐野様ご存知なら教えてください。
僕の意見は、14代肝付兼久の弟越後守兼実の4男が竹友ではないか。たぶん、身分の高い人のはずです。ご教授ください。


肝付人
先日のコメントで、「兼家が廻城主であった可能性はないと思います。」と記載しましたが、志布志地頭竹友が戦死し、後に兼名が志布志地頭になり、福山廻城は息子の兼家が城主で、18代当主兼亮が福山廻城を島津家に差し出すまで城主だった可能性がありました。
たぶん、親子だと思います。

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コメント
この記事へのコメント
大雲院
大変興味深い写真をありがとうございました<(_ _)>

実は京都に大雲寺とか大雲院と言うところはあちこちあって(^^;)、島津以久の墓のある大雲院は寺町通りにあるということで、それらしいところを探したのですが、何しろ寺町通りは豊臣秀吉が寺を集めたので通りの名前になったというくらい寺だらけでよく分からなかったのです。

織田信忠の菩提寺ということで調べてみたら、このお寺、○○年前にクラスメートの父上のお葬式をしたので一度行ってました。最もそのころは島津以久なる人物すら全く知らなかったので、そんなすごい寺だとは全く知りませんでした。通常は円山公園という大観光地の中でひっそり戸を閉ざしている寺です。
おそらく桐野さんが拝観できたのは、作家の取材だったからではないかと思います。

拝観を拒絶しているのは、有名武将の菩提寺ということでマニアが殺到するのを避けているなどの事情があるのかも知れません。ただ、URL欄に書いたように、ここには「祇園閣」という昭和初期の珍建築があるので、そこの特別公開の時に墓所も見られるチャンスがあるかも知れませんね。
2007/03/04(Sun) 23:43 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
 ごぶさたをしております。
 いつも興味深くブログを拝見しております。たいへん勉強させていただいております。

 さて大雲院の島津以久墓の前に並ぶ五輪塔5基については、京都の墓碑調査記録の最高峰とでもゆうべき寺田貞次『京都名家墳墓録』上巻、170-171ページにその銘文が記載されております。

 それによれば7名の戒名と没日の記載があり、うち4名がやはり殉死者で、慶長15年(1610)7月15日に亡くなっています。

 あとは寛永14年(1637)8月7日がふたり(月が読みにくいものがあるようで、でもおそらくは8月か)、承応2年(1653)6月22日がひとりです。

 寛永・承応の3人はどういう方かわかりません。
 
 何かのお役にたてば幸いです。
 当該部分がご入用でしたらご連絡くださいませ。

 すでにご承知のことでしたらお許しください。
2007/03/05(Mon) 09:21 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
殉死
中村武生さん、お久しぶりです。

ご教示有難うございます。
ちゃんとしたいい史料本があるのですね。

やはり殉死でしたか。ふつう、殉死した家臣の陪墓は主君のそれより小さく作ることが多いと思うのですが、島津以久の墓所では、ほとんど同じ大きさの墓ですね。

取り急ぎ御礼まで。
またご連絡します。
2007/03/05(Mon) 15:05 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
大雲院と春長寺
ばんないさん、こんにちは。

ご指摘のように、大雲院とよく似た寺名はありますね。私も洛北岩倉に大雲寺があるのを知ってします。

それで、大雲院の所在地ですが、2度移っているようですね。以下のサイトに少し詳しく書かれています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/daiun-in.htm

最初、正親町天皇の勅命により、信長・信忠父子の菩提を弔うために、御池御所(二条御所ではないかな?)に浄土宗の貞安上人が開山して、信忠の院号にちなんで大雲院と命名したようです。信長ではなく信忠だったのは、御池御所が信忠自刃の地か、その近くからだったと思われます。

その後、豊臣秀吉の京都改造計画により、ご存じのように寺町への寺院集住策がとられますが、そのとき、大雲院は寺町四条南に移転しています。現在の四条河原町交差点の高島屋の西南にあたる地です。

さらに幕末の禁門の変で大雲院は焼失したのに加え、寺町通りが繁華街になってしまったため、1973年(昭和48)に現在地に移転したようです。現在地に移ってから、まだ30年ちょっとしかたっていないのですね。

それで、大雲院のひとつ前の所在地だった寺町四条南の地(正確には、京都市下京区寺町通四条下る貞安前之町)には、現在、春長寺があります。

これは信長時代に京都所司代をつとめた村井貞勝の法号(春長軒)にちなみます。現住所に大雲院開山の貞安上人の名が含まれているので間違いないでしょう。
一度、訪れたことがありますが、境内に村井貞勝父子の墓がありました。

現在の大雲院の祇園祭の山車のような建物が「祇園閣」というんですね。一種の展望台でしょうか? 一度昇ってみたいものです。特別拝観期間もあるようですね。
2007/03/05(Mon) 16:50 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
太雲院
桐野様
はじめまして。
佐多と申します。関東生まれの関東育ちですが、両親は鹿児島出身です。歴史好きでネット検索して見つけた次第です。島津以久公の母は佐多上野介忠成の息女で遠い一族にあたります。拝観が可能であれば是非訪れたい所です。
さて、寛永年間の墓は宮崎県の地方郷土史会まいづるによると忠興公の殉死者だそうです。忠興公の墓もあるのかもしれないですね。
後、孫の久信公の幼名は菊寿丸です。その子久敏公は菊袈裟丸で東京の吉祥寺に巨大な五輪塔の墓が存在しています。その隣には町田図書久幸の墓もあります。その他品川の広岳院には島津玄蕃頭忠紀公の崩れた巨大な墓もありました。杉並の大円寺にも都城島津家や平佐北郷家、本城家(永吉家庶流)などもあります。一度見られるとよいかと思われます。
2007/03/13(Tue) 20:04 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
佐多家
佐多さん、こちらにもコメント有難うございます。

大雲院には、やはり忠興の墓もありましたか。
上記写真のなかで、おそらく以久の向かって左隣の墓がそうではないかと思います。
となりますと、手前左右の墓は以久・忠興父子のそれぞれの殉死者の可能性が高いですね。

垂水家と佐多家の縁、ご教示有難うございます。

そういえば、忠将の弟、尚久の一女も佐多忠常に嫁いでいますね。
佐多忠成は日新斎との関係が深かったので、そこから、忠将・尚久兄弟との縁も出来たのでしょうね。

佐多家といえば、知覧ですねえ。
有名な武家屋敷には行ったことがありますが、島津家墓所はまだ詣でたことがありません。今年行けたらいいなと思っております。

大円寺は知っておりましたので、前から行こうと思っていました。
ご教示の吉祥寺、広岳院なども機会があれば、行ってみたいです。

2007/03/13(Tue) 23:53 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
知覧へ行くのであれば知覧文化という冊子も閲覧されると佐多氏系譜なるものが記載されていて、人物関係がわかると思います。(国会図書館にも所蔵されていますが)
佐多忠成公の室は島津運久公の息女です。ここから相州家との縁が始まっています。忠常(久政)公の子息久慶公は中書家久公の息女を室に迎えています。忠充公は鎌田氏、忠治公は島津久元公の息女、この後は養子が入っていますので肝属家や宮之城家庶流、佐志家、加治木庶流、越前家などから正室を迎えています。久福公は当初重豪公の息女を正室へ迎えるはずでしたが、近思録崩れの影響で父が強制隠居になり、破談になったようです。
佐多忠将公は頴娃家の系譜によると頴娃氏から室を迎えているようです。領地が近接している為でしょうか。
知覧の島津墓地は五輪塔や山川石のような宝ぎょう殷塔、角石型や宗功寺のような家型(小さいです)など色々あります。

私の祖父も知覧に墓があります。麓の武家屋敷に居住はしていなかったので、かなり離れた庶流だと思います。系図を探しているのですが、親戚はばらばらで位牌すらどこにいったのかわからない状態で苦労しています。
2007/03/14(Wed) 19:35 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
佐多氏系図
佐多さん、こんにちは。

佐多氏の系譜が「知覧文化」に収録されていたり、今回図書館に所蔵されているとのこと、度々のご教示有難うございます。

さて、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺』諸氏系譜二にも、佐多氏の系図が第一と第二に分かれて2種類収録されています。
第一が本家、第二が庶流のように見受けられます。
ただ、第一のほうは江戸中期の久武までですね。幕末まではありません。
「知覧文化」などには幕末まで収録されているのでしょうか?

お名前からそうだろうと推察しておりましたが、やはり佐多さんもご一族なんですね。
2007/03/15(Thu) 13:49 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野様、こんばんわ。
知覧文化ですが、
13号 佐多家文書(佐多直忠様の所蔵文書で佐多左馬介通久の後胤で志志目家より養子に入った直邑(…上にくが3つ付きます)から数代まで
16号 佐多久英覚書(慶長の役従軍記)
18号 有馬純正筆『佐多氏系譜』久福公代まで
20号 『本藩人物誌』所収佐多氏系譜
23号 内屋敷平山家文書(知覧島津家の役人、久峰公母堂伊地知氏女於半?様の法号微笑院?が記載されていたような気がします。その他佐多氏庶流の達山勘助が役人平山氏を殺害して逃亡し、出水で発見され獄死後に磔になったと記載があり何とも凄い事件があったものだし、よく活字化されたなぁと思います)
25号 佐多忠光関係史料について(初代の特定される文書があるか?といった内容)
28号 佐多式部少輔久治家文書
35号 佐多氏系譜後編(久邦公代の前半欠落~久徴公代途中まで)
大体嫡流と有力な庶流のみしかないです。
知覧の島津墓地には島津木工久治という墓があり、これが誰か不明です。系図には記載されていません。が、久徴公の嫡男ではないかと思われます。久徴公の後を剛二郎様が継承されていますので、二男なので剛二郎となったのではないかと推測しています。
2007/03/16(Fri) 01:25 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
知覧文化
佐多さん、こんにちは。

「知覧文化」、不勉強でよく知らなかったのですが、充実したラインナップですね。
古書もあるようなので、探してみたいと思います。
ご教示有難うございました。
2007/03/16(Fri) 13:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野様
知覧文化は知覧町立図書館に在庫がある場合がありますので、ホ-ムページで確認された方がよいです。古書ですと高いです。刊行されているものもPDF化されていますので内容も確認出来ます。
2007/03/17(Sat) 02:03 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
元由廻城主
桐野様
肝付家を調査している肝付人と申します。下記の肝付治部左衛門兼家(肝付兼続の一族、元由廻城主)は、どういう人物かご存知なら教えてください。
元由廻城主の意味が理解できません。廻城主なら福山廻城のことで、元由とはどういう意味か知識がありません。1561年福山廻城を16代肝付兼続が家臣肝付治部左衛門尉兼名に城攻めを命じ、落城後、島津家に明け渡すまで城主を務め、その後志布志地頭を務めました。ですから、福山廻城主は兼名だけです。
肝付治部左衛門兼家は肝付治部左衛門尉兼名の子でしょうか。宜しくお願いします。

島津以久は慶長15年(1610年)に江戸幕府の命で城建設の「お手伝い普請」を命じられ佐土原から上洛、同年4月9日に伏見にて客死しました。
島津氏は元々曹洞宗でしたが、この以久上洛中にここ大雲院の僧侶に非常に世話になったそうで、墓所もここに築き、更に佐土原島津家は浄土宗に宗旨替えしています。
なお、4人の家臣が慶長15年(1610)7月15日に殉死しました。
 ・久保権兵衛
 ・猿渡左近丞
 ・肝付治部左衛門兼家(肝付兼続の一族、元由廻城主)
 ・日高大炊左衛門重勝
この4人の墓も以久墓の側に築かれました。
2013/09/10(Tue) 23:46 | URL  | 肝付人 #-[ 編集]
コメント御礼
肝付人さま

メール中、肝付治部左衛門兼家(肝付兼続の一族、元由廻城主)はどんな資料に書いてあったのでしょうか?

『本藩人物誌』の島津以久譜に殉死の4人が載っていますが、そのなかに似たような記述があります。

「肝付治部左衛門兼家[肝付兼続の一族ノ由廻城ノ城主ナルベシ]」 []内は割書

これなら意味が通ります。
「元由」は「ノ由」の誤植でしょう。
「ノ」は「之」に通じます。
ご覧になった資料は「之」を「元」に間違えた可能性がありますね。よくある間違いです。

兼名と兼家が同一人物なのか親子なのか、私にはよくわかりませんが、年代的には同一人物の可能性は低いでしょうね。
島津以久が国分清水城主だった頃、廻城も以久の領内だったのでしょうかね? それで、兼名の縁者である兼家を城主にしたのかどうか? 父の仇ですけどね。

以上、あまりお答えになっていないですが。
2013/09/15(Sun) 19:21 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
元由の件
桐野様  コメントありがとうございます。さすがに、ご指摘に納得しました。

肝付治部左衛門兼家(肝付兼続の一族、元由廻城主)はネット上の情報です。ご指摘の通り『本藩人物誌』の情報と思われます。
『本藩人物誌』は江戸後期に編纂されたとか。200年以上昔の人物紹介本で内容は不明な箇所も多々ありそうですが。
「元由」の説明がわかり、感謝です。長い間、意味不明で、やっと、すっきりしました。
高山郷土誌では、5代当主肝付兼右を黎明館に保存してある古文書には、5箇所に「兼石」と記載されているので、兼石(かねいし)とありますが、しかし、人名には「石」の字は使用しないはずです。なぜなら、石は愚か者の意味があります。もちろん、例外はありますが。
肝付兼続の一族の文も、兼続の子の意味でしょうか。
兼名と兼家は、別人です。ただ、親子の可能性はあると思いますが、資料がありません。兼家が廻城主であった可能性はないと思います。(父が兼名で廻城主と記された可能性はある。)
国合原の合戦で戦死した志布志地頭肝付三河守入道竹友の父母や子の名前が不明で、竹友は歴史上有名人で墓も現存していますが、桐野様ご存知なら教えてください。
僕の意見は、14代肝付兼久の弟越後守兼実の4男が竹友ではないか。たぶん、身分の高い人のはずです。ご教授ください。
2013/10/11(Fri) 17:11 | URL  | 肝付人 #-[ 編集]
先日のコメントで、「兼家が廻城主であった可能性はないと思います。」と記載しましたが、志布志地頭竹友が戦死し、後に兼名が志布志地頭になり、福山廻城は息子の兼家が城主で、18代当主兼亮が福山廻城を島津家に差し出すまで城主だった可能性がありました。
たぶん、親子だと思います。
2013/10/31(Thu) 21:04 | URL  | 肝付人 #-[ 編集]
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