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先日、TV「開運なんでも鑑定団」で信長朱印状が登場したことを当ブログで書いた

本日、ぴえーるさんからのコメントで、信長朱印状の全文がほぼはっきりわかる写真をご提供いただいた。ここです
ぴえーるさんには、厚く御礼申し上げます。

それで、さっそくおこしてみました。一部不鮮明なところがあるのと、私の力不足でよく読みとれない部分があります。読める方、ご教示いただければ幸いです(かわとさんやろあんさんのご教示により、一部訂正しました)。

讃岐国之儀、其方
任本領之旨申談候、
全可有領知候、前々
家来・国人□(等カ)も
招寄、廻調略可
被達本意候、於
信長不可有疎意之
状如件、

天正八
 四月五日 信長(朱印)


番組のナレーションによると、持ち主の先祖は讃岐の香川氏の右筆だったそうだから、香川信景宛てだろうか?
宛所が切れていてわからないのが残念である。

冒頭の部分、讃岐にある本領を与えるという意味なのか、あるいは讃岐国全部を与えるという意味なのか、とりづらい。
香川氏宛てだとすれば、讃岐国全部ということはないと思うが……。

あるいは、ほかに宛所の該当者が考えられるか?

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【2007/03/04 17:12】 | 信長
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自信はないですが…
かわと
4行目
字が薄くてよく見えないのですが、下の字は「者」か「共」でしょうかね。「共」かなぁと思ったんですが、よく見ると「者」の方が良さそうな感じですねえ…。
とすると上は何が入りますかね。「衆」とかでしょうか…?

5~6行目
「調略」の下は「可」かなぁという気がします。
6行目冒頭は「不」と読まれていますが、「被」ではないでしょうか。「本意を達せらるべく候」と読むように思います。
あと、最後の「如件」の下に「■」を充てられていますが、字はないように思いますが、いかがでしょうか。

私はこの文書の背景については何も知識をを持ち合わせておりませんが、率直にまだ信長発給の新出文書ってあるんだなぁ、などと思いました。


かわと
度々失礼します。
すみません。コメントを編集しました。
「共」は「者」の方がよさそうかなぁ、と思い直しました。

信長新出文書
桐野
かわとさん、こんにちは。

ご教示有難うございました。
ご指摘のとおりではないかと思いました。

「共」は私もそうじゃないかなと思ったのですが、何せ色が薄いもので。
(後記:かわとさんの再コメントで「者」ではないかとのこと。たしかに「国人衆共」では二重複数形になる。「国人共」だけのほうがいいけれど)

「不」を「被」に代えるとすっきりと意味が通りますね。私も内心、「本意を達せず候」では意味が逆だと思っておりました。該当の一字に微妙に虫損らしきものがあり、「不」に見えてしまいました。

この信長文書、明らかに新出だと思います。信長の新出文書は最近でもけっこうありますね。管見のかぎりでも、10点近く見ています。
とくに今回のは、信長文書がほとんどない香川県からなので貴重です(塩飽諸島が香川県に属するなら、ここにも信長文書が1点あります)。

内容的にも、信長の四国政策に関わっています。この辺は史料の空白期間なので、非常に興味深いです。
冒頭の部分、讃岐一国を本領として与えるという意味なんでしょうかね? もしそう解釈していいなら、どえらいことではないかと思っているのですが……。



かわと
即レスにて失礼します。
「共」or「者」の上の字ですが、「衆」か、もしくは「等」あたりが該当しそうですね。これはやはり現物か鮮明な写真を見ないと確定はし難いところです。

なぜ宛所がないんでしょうね…? 意図的に切ったとすれば、その背景が興味深いところですね。
まだまだ未発見の文書って信長クラスでもあるんですね。わくわくする反面、ちょっと怖い気もします(笑)。

冒頭の部分ですが、「讃岐国の儀、その方本領に任するの旨、申し談じ候」と読むのでしょうか。そうであれば、讃岐国一国を本領として安堵した文書と理解できるように思います。その上で、当国中の家臣や国人層の糾合(含意するのは一国の「無為」)を命じたのでしょうかね。

やはり
桐野
かわとさん

度々のコメント有難うございます。

やはり讃岐一国を本領として安堵する、または宛行うと解釈できそうですね。

となると、ますます宛所が誰なのかが気になります。
家来・国人を「招寄」という部分が気になっているのですが、どうも讃岐の国外から呼び寄せるニュアンスを感じてしまうのですが……。
その場合、信長三男の信孝の可能性が浮上します。天正10年5月に、実際に信長が信孝に讃岐一国を与えるという朱印状を発給しています(三好康長には阿波を与えるという、いわゆる四国国分令です)。
もし2年前に遡って信長が先行的に命じていたのなら、これまでの織田権力の四国政策を読み替える必要も出てきます。

個人的には、今月中旬刊行の拙著に取り入れたかった史料でした。あとの祭りとはこのこと(爆)。


「招寄」
かわと
「衆」ヵとした字、じーっと目を凝らすと(笑)、「之」かもしれません。いずれにせよ文意にはあまり影響はありませんが。

この文書の宛所を勘案するには、ご指摘の通り「招寄」の用法が鍵になりそうですね。信長発給文書で類例が既にあるのであれば、そこから背景を探れそうです。

私は信長文書にあまり当たったことがないのではっきりしたことは言えませんが、「招寄」が他国からの招聘を指すことが明確であれば、宛所を切断したと思われることや、現在の所蔵者も勘案すると、香川氏に充てたものではない可能性が高まりますでしょうか。

この辺は、私は生半可に深読みはしないようにします(笑)。是非次著にて新解釈がご呈示されるよう期待申し上げます。

宛所
桐野
かわとさん、どうも。

度々のご教示有難うございます。
不明文字、私の目には薄すぎて読めません。まるであぶり出しのようです(笑)。
その一方で、末尾の「状如件」のあとも一字ありそうに見えるし、果たして「件」でいいのかなと思ったりもします。
いずれにせよ、実物か、鮮明な写真版がないと確定できないですね。

「招寄」は、やはり讃岐国在住だと、ちょっと違うような気もしますが、西讃の有力国人である香川氏の右筆の子孫に伝来しているなら、やはり香川氏の存在は無視できないかもしれません。

当時の当主、香川信景は信長からの一字拝領とされ、天正三年以来、反三好路線の一致から信長に服属しているとされます。また同時に、当該朱印状の頃、長宗我部元親の二男親和を養子に迎えて同盟を強化しています。

問題は天正八年当時の讃岐支配がどのように行われていたかだと思います。
讃岐は阿波三好家の領域でしたが、当主の三好(十河)存保が岩倉城合戦で長宗我部氏に敗れて、阿波を保てず、讃岐に退転していました。また西讃は香川氏や香西氏らが割拠して、反三好勢力が優勢でした。

そういうなかで、信長が三好存保をどう見ていたかがよくわかりません。服属していたのか否かが確認できません。この時期はむしろ、長宗我部氏が親信長派であり、天正八年夏前後、十河城(三好存保が籠っていると見られる)を攻めていることは、新出の元親書状(羽柴秀吉宛て)で確認できます。

したがって、信長は香川氏もしくは長宗我部氏の讃岐での行動を暗黙に是認しているように思われます。とすれば、両者はともに当該朱印状の宛所の候補であると思います。

信孝が宛所だとすれば、三好存保の改易を前提にした措置だと思われますが、天正八年では、やや時期尚早な気もします。

いずれにしろ、この時期の讃岐情勢は史料的な空白が多くて不明な部分が多いです。
当該朱印状はその空白を埋める恰好の史料ですが、いかんせん、宛所が切断されているのが画竜点睛を欠いております。宛所さえあれば、信長の讃岐への仕置方針がかなり鮮明になったのに、残念です。




ろあん
この文書、関心が有りましたので。コメントお許し下さい。
以前の写真より、やや鮮明な物が提供されて、ぴえーるさんには感謝感謝です。

四行目の最後は、「も」ではないかと思います。その上に「等」が有るかも知れません。墨が薄くて判別しにくいですが。

文脈から言えば、「前々 家来・国人等も 」と思われます。
五行目の「招寄」は信長文書では用語の例が確認できませんが、他に読み方は無いように思われます。
七行目の最後は、「之」だと思います。信長文書では、「状」の前には「之」を記す用例が多数あります。
「不可有疎意之状如件」だと思います。
また、「件」の後に文字はないと思います。「状如件」が書留文言ですので、その後に文字があれば、おかしいです。


讃岐国之儀、其方
任本領之旨申談候、
全可有領知候、前々
家来・国人□(等か)も
招寄、廻調略可
被達本意候、於
信長不可有疎意之
状如件、

天正八
 四月五日 信長(朱印)


本文の行間が等間隔にあいている点、また署判の部分、署名の上に朱印が捺されているのが確認出来ますので、一応良いモノだと思われますが。ただし、写真では朱印が縦長ではなく、正円に近いように見えます。

僕も、この朱印状が良い物だとすれば、武井夕庵の手になると思いますが、原本を見てみないことには何とも言えません。
あと、紙質の問題ですが、信長の家臣に発給した物ではないようなので、料紙は雁皮か鳥ノ子の、いわゆる斐紙系の紙が使用されているとベストだと思います。

この文書、既に専門家が見ているのではと思います。思文閣の社長が右筆の「武井夕庵」の手だと発言したようなので、事前に専門家に意見を聞いた可能性が大だと思います。

朱印の部分が欠けるなど、欠損が多くて非常に残念です。
一度、良質な写真など見てみたいものです。
失礼しました。


招寄
桐野
ろあんさん、こんにちは。

いろいろご教示有難うございます。
料紙や右筆まで詳しく教えていただき有難うございます。
本文のほうもご指摘の分を反映させたいと思います。

「招寄」という用語、信長文書ではやはり珍しいとのこと。私はどうも他国から呼び寄せるというニュアンスが強いのではないかと思っておりますが、比較検討の材料がないのが何とも。ろあんさんはいかがお考えでしょうか。

いずれにしろ、近年の新出の信長文書ではかなり貴重なものではないかと思います。
これからも、いろいろ教えて下さい。

別の意味ですごい
小池
私のような素人には、このような古文書を読み解ける方は、ただただ尊敬です


吉田松陰大好き
小池様もなかなか素晴らしいものをお持ちですよ!鎌倉に関して尊敬しております。私は更に、ど素人です!!鎌倉に吉田松陰の兄の御子孫の方が御住まいです(ただの宣伝です)。いつか御会いしたい方ですね。桐野様のブログにヘンテコリンな事を書き込んで申し訳ありません。皆様を大変尊敬しております。今後の研究の御健闘を祈っております。


桐野
>小池さん

いろんな方のご協力のおかげで、ほぼ解読できたように思います。正式には、原文書か、その精密な写真版で確定したほうがいいと思います。

信長の朱印状のなかでも、知行関係とくに一国規模の領知宛行なので、信長の四国政策ひいては西進政策を知るうえで、非常に重要な史料だといえそうです。

>吉田松陰大好きさん

吉田松陰の兄さんの子孫が健在なのですね。全然知りませんでした。
ヘンテコリンだとは思っていないので、ご安心下さい。

信長の四国政策
板倉丈浩
こんばんは。盛り上がっているようですので私も参加させてください。
くずし字方面はさっぱりなので(笑)、内容について考察します。

「信長」と署名する印判状で書止文言が「状如件」となっている文書は信長晩年に多く見られます。
今回の朱印状によく似た文書の例としては次のような文書があり、書札礼から見ても、外様の大名クラスの武士に宛行を約した文書と見てよいような気がします。

 周防・長門両国事、全可有進止候、聊不可相違之状状如件

  天正七
   十一月廿七日       信長(朱印)
   大友左兵衛督殿

文面ですが、信長がこの武士に対して次のことを告げています。

1,「讃岐は本領(本来の所領、相伝の所領)である」という主張の承認
2,「前々(以前の)家来・国人らを招集し、調略を廻らし本意(願望)を達せられるように」との激励

つまり、讃岐の旧国主の復帰運動を支援するという文書のようです。
となると、宛先は自ずと限られてくるわけで、細川氏か三好氏の有力者ということになりますが、天正10年に子息信孝を三好康長の養子として讃岐を与えていますから、この文書の宛先は康長とするのが妥当なように思えます。

信長は康長に河内半国を与えるなど優遇していますし、天正8年6月には三好式部少輔(康長の子で阿波岩倉城主。長宗我部氏に居城を奪われた)に対する信頼は変わらない趣旨の朱印状を長宗我部氏向けに発給しています。この朱印状では「詳細は三好康長から伝える」と結んでいますので、丁度この時期から三好康長が信長政権の四国担当者として活動していたようです。

もろもろ考え合わせると、天正8年4月に康長に讃岐を給付するという政策は大いにあり得ることだと思います。

若干質問をさせてくださいm(_ _)m
あほやん
大変レベルの高い議論をされてるところ申し訳ありませんが、若干質問をさせてくださいm(_ _)m

①「讃岐国之儀、其方任本領之旨申談候、全可有領知候」
今のところ「本領」は「讃岐国」全体を指していると解されているようですが、「其方」に対し元々持ってたある特定の讃岐国内の所領=「本領」をそのまま「任(まかす)」旨を話し合って「全」=落度なく領有すべき、とも解釈できそうですが、どうでしょうか?

②「前々家来・国人□(等カ)も招寄、廻調略可被達本意候」
~「招寄」という部分が気になっているのですが、どうも讃岐の国外から呼び寄せるニュアンスを感じてしまう~
ことから「家来・国人」は讃岐国外の者である可能性を挙げておられますが、「国人」の「国」は「讃岐国之儀」の「国」をうけていると思われ、かわとさんののべたように「当国中の家臣や国人層」と解釈した方がよいように思われますが、どうでしょうか?
なんとなく「家来」と「国人」を書き分けてることにも意味がありそうな気もします。

史料が少なく研究も進んでないとこで、こんな質問してすみませんm(_ _)m


板倉丈浩
こんばんは。
あほやんさんのブログ、いつも楽しく拝見させていただいております(^^

さて、①についてですが、前回コメントで引用した大友義統あての文書もそうですが、その国の一円支配を認めるときの独特の言い回しなのかなと感じています。
例えば、国の一部を安堵する場合は、次のように書くからです。

 甲斐国本地分事、聊以不可相違、
 然而河尻与兵衛被遣之分与入組之儀、
 以年寄令相博、立堺目、全可有領知之状如件
 
  天正十
   四月十日       信長(朱印)
   穴山陸奥入道殿

今回の文書は「讃岐国之儀・・・全可有領知候」としていることから、讃岐一国の宛行だと思います。

「任本領之旨」については、この頃の文書でよく「任御下知之旨」のような用例を見かけますので、「本領の旨に任せ」と読み、「本領と(信長が)認めた趣旨に従い」という解釈でよいのではないかと考えています。

②についてはご指摘の通りだと思います。


板倉丈浩
↑ありゃりゃ。またトリップが違ってますね。
すみません・・・。

三好康長
桐野
板倉さん、こんばんは。

あほやんさん、はじめましてでしたっけ? コメント有難うございます。

宛所が三好康長ではないかとのこと。
なかなか興味深いですね。私も康長を候補の一人に想定しておりました。

近刊拙著でも少し触れていますが、羽柴秀吉宛ての長宗我部元親の新出文書があります(藤田達生氏紹介)。これが天正8年11月24日付でして、くだんの信長朱印状の半年後くらいのものですが、そのなかに、「三好山城守、近日讃州安富館に至り、下国必定に候」という一節があります。
これは、三好康長の讃岐下向を元親が危惧するニュアンスで書かれているように思いますが、「下国」という言葉に引っかかりを感じておりました。

「下国」というのは、ふつう、国司が任国に下ることをいうのですが、戦国時代には律令制の国司なんていませんから、その用法がどのように変化しているのかわかりませんが、康長が讃岐一国を与えられたとすれば、「下国」と使うのはそれほど不自然ではありません。

なお、康長の本領というか本貫の地は阿波岩倉だとされています(編纂物が論拠なので検討の要あり)。それとは別に、信長から河内南半国の守護に任じられています。
それに従えば、康長は讃岐に「本領」がなかったことになり、この場合の「本領」は讃岐を新知として宛行う意味合いが強くなるかもしれませんね。

となると、「家来・国人等も招寄」という一節も、河内や阿波から康長ゆかりの者を呼び寄せると解釈できないでしょうか。讃岐国がもともとの「本領」であれば、「招寄」とわざわざ使う必要もない気がします。

この場合の「国人」は、讃岐国の「国」と対応するというより、康長の領する南河内の国人(あるいは阿波の国人)と考えても、それほど不都合ではないように思うのですが。

むろん、宛所が康長以外の可能性を排除するものではないことをお断りしておきます。

吉田松陰
小池直行
桐野様のブログをチャットのように、使って申し訳ありませんが、確か吉田松陰のおじさんが鎌倉の瑞泉寺の住職でした。黒船が来た時吉田松陰は瑞泉寺に泊まっています。その時の記念碑が瑞泉寺に立っています

レスありがとうございます
板倉丈浩
ご紹介の文書については全く知りませんでした。近刊の御著書楽しみにしています。

さて、三好康長ですが、主に河内を中心に活動している人なので、讃岐にはあまり縁がなさそうです。
だから讃岐は実質的には新知なんでしょうが、康長はかつての「八ヶ国の覇者」三好一族の代表者として「讃岐は三好氏の"本領"である」と主張し、信長がそれを認めたということなのだと思います。

『日葡辞書』の「前々(マエマエ)」の項で「前々御見参人でござる」という例が挙げられていて、「それはもうずっと以前に貴方が会ったよくご存じの人です」という意味であると記してあります。

となると、この文書の「前々家来」というのは「ずっと以前に三好氏に仕えていた武士」という意味であり、「前々家来・国人等も招寄」は「讃岐国に入国し現地の旧三好氏家臣や国人らに広く声をかけて集めよ」という信長の指示と解釈するのが妥当ではないか、家来と国人を分けているのは讃岐国では必ずしも三好氏の家臣とはいえない武士(香川氏など)もいたからそういう表現になったのではないか・・・と考えています。

まあ「招寄」についてはあまり用例を見ない語ですので、桐野さんが仰るような解釈もできそうな気もしますし、確定的なことは言えないのですが・・・(^^;


阿波三好家
桐野
板倉さん、いつも興味深く鋭いご意見有難うございます。

日葡辞書での「前々」の意味、よくわかりました。有難うございます。
「家来・国人」の区別については、戦国大名一般でもありうることだと思います。
たとえば、甲斐武田氏ですと、根本被官や譜代衆とは別に征服した信州や西上野、駿河などの領主は「国人」に分類されるだろうと思います。

そこで、信長朱印状の宛所が三好康長だとすれば、「国人」は河内・阿波・讃岐などにいる外様領主だということになるのでしょうね。

板倉さんの以下のご見解、なかなか面白くて、ありえそうですね。

>康長はかつての「八ヶ国の覇者」三好一族の代表者として「讃岐は三好氏の"本領"である」と主張し、信長がそれを認めたということなのだと思います。

ただ、三好一族一般で語るのはやや漠然としすぎているかもしれません。
三好氏については、天野忠幸氏が面白い論文を書かれています(「三好氏の権力基盤と阿波国人」 『年報 中世史研究』31号、2006年)。

それによれば、三好長慶系統の本宗家と、その実弟である三好実休の阿波三好家は別家であり、区別して考えるべきだという立場です。

実休は阿波守護家(いわゆる「下屋形」)の細川持隆から守護の軍事動員権を奪い、長慶とともに将軍義輝の相伴衆になったことにより、阿波三好家が本宗家とは別に成立したというわけです。
阿波三好家の勢力範囲は、阿波・讃岐の両国と淡路の一部と河内南半です。

それで、天正八年当時、阿波三好家の当主は三好存保だったはずですが、同七年暮れに岩倉城合戦に敗れて居城の勝瑞城を保てず、讃岐十河城に逼塞していたと思われます。
ご存じのとおり、存保は兄長治の自害によって、泉州堺から阿波に入り、阿波三好家の家督を継いでいます。その際、『南海通記』によれば、信長の命によって阿波に入ったとしておりますから、信長は存保の阿波三好家相続を認めていたと思われます。

一方、同八年の夏頃、長宗我部元親は讃岐に侵攻して、羽床・十河の両城を攻めています。これは存保の勢力圏を侵しているはずですが、信長から咎められた節もありません。

どうも、この頃、信長は存保を見切っていたかもしれませんね。それは阿波三好家の改易と理解していいか、難しいところです。

例の信長朱印状をみれば、信長は存保の代わりに、河内半国守護の康長を取り立てて讃岐の国主にしようとしたという解釈もできそうです。
その際、康長は阿波三好家の家督を存保から継いだというよりも、新たに織田政権の分国大名として取り立てられた、つまり、阿波三好家の否定のうえに実現した、あくまで織田政権による讃岐の分国化といえないでしょうか。

その後、信長は三男信孝を分国大名へと引き上げるため、恰好の対象となったのが子どものいない康長であり、康長に旧阿波三好家の本領である阿波を与える代わりに、養子の信孝を讃岐に所替するという玉突き人事を行ったのかもしれません。讃岐・阿波両国の領有は三好一族にとって形式的には厚遇ですので、これで納得させたかどうか。

それが一方で、長宗我部氏の既得権益の否定になることはいうまでもありません。



いささか脱線・暴走気味ですが・・・(笑)
板倉丈浩
長文のレスありがとうございます。

>三好長慶系統の本宗家と、その実弟である三好実休の阿波三好家は別家であり、区別して考えるべき

「阿波三好家」については、三好実休が阿波守護細川氏の権限を継承した(簒奪した)というのはわかるのですが、讃岐は細川宗家(京兆家)、河内は畠山氏が代々守護を務めているので、阿波以外の国の権限は長慶から付与された一時的なものであり、子・長治がそれを継承したかどうかは疑問です。ただ、

>阿波三好家の勢力範囲は、阿波・讃岐の両国と淡路の一部と河内南半です。

阿波・讃岐・南河内・・・信長が康長に与えた国とピタリ一致しますねえ(笑)
信長はかつての「阿波三好家」の範囲に限定して三好家再興を認めたということになりましょうか。

>康長は阿波三好家の家督を存保から継いだというよりも、新たに織田政権の分国大名として取り立てられた、つまり、阿波三好家の否定のうえに実現した、あくまで織田政権による讃岐の分国化といえないでしょうか。

これはどうでしょうか。
後に信長は信孝に対して「康長を主君とも父母とも思って忠節を尽くせ」と訓戒していますので、養子といっても北畠氏などとのケースとは明らかに違っており、三好家の再興と見た方がいいと思います。


三好家の再興
桐野
板倉さん、こんにちは。

>後に信長は信孝に対して「康長を主君とも父母とも思って忠節を尽くせ」と訓戒していますので、養子といっても北畠氏などとのケースとは明らかに違っており、三好家の再興と見た方がいいと思います。

三好康長と信孝の養子縁組ですが、この天正10年5月7日付の朱印状はこのように書いていますが、その直後に書かれた別の史料には次のようにあります。

「御朱印(5月7日付)は四国きりとりの御朱印に候、おもてむきは三吉(三好)養子に御なり候分に候」

これは、信孝の所領である伊勢神戸の慈円院住持正以の書状です(「神宮文庫所蔵文書、『三重県史』資料編中世1下)。

こちらのほうが実態に合っているんじゃないでしょうか。今度の阿波出陣の目的は「四国きりとり」であり、信孝と康長との関係も「おもてむき」、つまり、かりそめの関係にすぎず、信孝が四国に勢力を扶植するための培養基として必要というのが、織田方の本音だったと思われます。

信長の四国国分令は形式上は三好氏優遇策であることは否定しませんが、信孝が養子なので、康長の隠居か死後は実権はすべて信孝に移ってしまいます。その時点で、北畠氏がそうだったように、名前だけ残って中身が入れ替えられてしまうことになるのでは……。

それと、織田権力の北畠氏への対応と異なるのは、信長の2種類の朱印状(天正8年4月5日付、同10年5月7日付)のいずれもが、知行宛行状の形式になっていることです。
つまり、これは織田権力の分国化以外の何者でもありません。三好家再興は三好一族とその家中に対するリップサービスではないでしょうか。





信孝の養子入りについて
板倉丈浩
こんにちは。
脱線・暴走ついでに(笑)議論を続けますが・・・。

>「御朱印(5月7日付)は四国きりとりの御朱印に候、おもてむきは三吉(三好)養子に御なり候分に候」

この書状ですが、この部分に続けて、四国征伐は短期間で片づくだろうという見通しと根こそぎの大動員令が下されていることが記されていますから、文の趣旨としては「信長朱印状には養子入りのことしか書いていないけど、実際には四国征伐なんだよ」という事実を伝えるものであって、

>信孝と康長との関係も「おもてむき」、つまり、かりそめの関係にすぎず、信孝が四国に勢力を扶植するための培養基として必要というのが、

とか、そこまで信長の意図を深読みしたものではないような気がします。

>康長の隠居か死後は実権はすべて信孝に移ってしまいます。その時点で、北畠氏がそうだったように、名前だけ残って中身が入れ替えられてしまうことになるのでは……。

なるほど。
ただ、利用するだけ利用して後で乗っ取る前提の養子縁組とはちょっとヒドイですね(笑)。信長らしくないというか。
北畠氏の場合は実質的には降伏条件でしたけど、三好氏の場合はこれから本領を回復するわけですからね・・・。

>知行宛行状の形式になっていることです。つまり、これは織田権力の分国化以外の何者でもありません。

例えば、大友義統あてに周防・長門の知行宛行状を発給していますし(前掲)、必ずしもそうとはいえないと思います。
この時期の信長は天下人として、自らの分国以外についても知行宛行状を出していたということではないかと。


信長朱印状の持ち主
春長軒
すでに御存知かも知れませんが。余所から得た情報です。

>持ち主の先祖は讃岐の香川氏の右筆だったそうだから、香川信景宛てだろうか?

件の信長朱印状の持ち主は、江戸期に周防岩国藩主吉川氏の家老香川氏に仕えた右筆の後裔らしいです。なんでも、先祖がゴミ入れのなかから見つけたということです???。


讃岐の香川氏ではなく、戦国期に安芸の八木に割拠した武将の子孫らしいです。吉川元春の家臣で香川兵部大輔(春継)という部将の名が吉川家文書にしばしば見られます。



吉川家家臣とは
桐野
春長軒さん、どうも。

貴重な情報有難うございます。
もし差し支えなかったら、情報源を教えていただけませんか。むろん無理にとはいいません

讃岐の国人ではなく、吉川家の家来でしたか。
『吉川家文書』をざっと見てみましたら、とりあえず1点だけ見つけました。
同書三の34号文書の差出人が「香又左」で、香川春継と注釈されていました。

毛利氏減封後、この香川氏はそのまま吉川家に仕えたのでしょうかね? 右筆ならその可能性が高いと思いますが、あるいは毛利家にスライドしたか。だったら、『萩藩閥閲録』も見たほうがいいかも。
う~ん、かえって謎が深まった気がします。
なぜ吉川家家臣の香川家に伝来したのか、その事情がなかなか想像がつきませんね。



私の推測が
ぴえーる
まずかったようで御迷惑をおかけしました。申し訳ありません。

東大史料編纂所所蔵の「吉川家中系図」に「香川邦太郎系図」というのが載っているようです。吉川家臣の香川家とはこの家でしょうか?
同所所蔵の「長陽従臣略系」によると、香川春継の兄の妻が熊谷信直の娘のようなので、その辺の縁故が関係あるのではないかと。

伝来経路は?
桐野
ぴえーるさん、お久しぶりです。

いえいえ。気にしないで下さい。ぴえーるさんのご好意で、この書簡の解読もできたことですから。

やはり吉川家臣に香川家があるのは間違いないようですね。
ご紹介の「吉川家中系図」を見てみましたが、10家ほどの系譜があるようです。そのなかに含まれているのですから、香川家はそれなりの家柄だといえそうですね。

う~ん、それにしてもなぜこの香川家に讃岐関係者に宛てたと思われる信長朱印状が伝来しているのでしょうか。
ひとつは、香川信景の代、元吉合戦により、香川氏が一度毛利方を頼って亡命していますが、それは関係ないか? でも、元吉合戦より前から香川春継は吉川家に仕えているし、信長朱印状の年次も元吉合戦よりあとですね。

今のところ、伝来経路がよくわかりません。


市野澤 永
こんばんわ。
お世話になります。

信長の朱印状が砺波市文化財に
http://mytown.asahi.com/toyama/news.php?k_id=17000001107280001

信長文書御礼
桐野
市野澤さん

新出の信長文書の紹介有難うございます。
すごいかどうかはわかりませんが、けっこう出てくるものですね。

新出?
ハンク
新出なのでしょうか。補遺144号では?『根尾村史』などにも紹介されている文書ではないでしょうか。

説明不足でした
市野澤 永
桐野さん、こんばんわ。
誤解を招く書き込みになってしまい、
失礼致しました。
これでは新出の信長文書が発見されたと思いますよね。

佐賀城本丸歴史館にて
佐賀城築城400年記念プレ企画2「佐賀鍋島藩の誕生」展
平成23年7月22日(金) ~8月31日(水)
佐賀城築城400年記念企画「戦のデザイン」展
平成23年10月14日(金) ~11月23日(水・祝
が開催中です。

佐賀城本丸歴史館
http://sagajou.jp/

龍造寺から鍋島へ 佐賀鍋島藩の誕生展
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2006973.article.html
「佐賀新聞」より

安八町氷取の生涯学習センター「ハートピア安八」にて、稲葉正成の展示が開催中です。
http://www.town.anpachi.gifu.jp/heartpia/

春日局の夫 正成を紹介 安八で企画展http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyo110726_2.htm
「読売新聞」より

Re: 新出?
桐野
ハンクさん

返事が遅くなりました。
「補遺」見てみました。
ご指摘のとおりでした。有難うございます。


情報御礼
桐野
市野澤さん

またイベント情報有難うございます。
とくに佐賀県関係が面白そうですね。
せめて図録だけでも入手しようかと思います。

特別展「戦国から江戸へ-本多政重をめぐる人々-」
市野澤 永
こんばんわ。

>とくに佐賀県関係が面白そうですね。
>せめて図録だけでも入手しようかと思います。

佐賀城本丸歴史館では、図録やパンフレットを作成していないそうです。

藩老本多蔵品館
特別展「戦国から江戸へ-本多政重をめぐる人々-」
8月26日~11月30日
http://www.honda-museum.jp/

8月8日~織田信長・上杉景勝・直江兼続の書状を展示中だそうです(H.Pより)。



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コメント
この記事へのコメント
自信はないですが…
4行目
字が薄くてよく見えないのですが、下の字は「者」か「共」でしょうかね。「共」かなぁと思ったんですが、よく見ると「者」の方が良さそうな感じですねえ…。
とすると上は何が入りますかね。「衆」とかでしょうか…?

5~6行目
「調略」の下は「可」かなぁという気がします。
6行目冒頭は「不」と読まれていますが、「被」ではないでしょうか。「本意を達せらるべく候」と読むように思います。
あと、最後の「如件」の下に「■」を充てられていますが、字はないように思いますが、いかがでしょうか。

私はこの文書の背景については何も知識をを持ち合わせておりませんが、率直にまだ信長発給の新出文書ってあるんだなぁ、などと思いました。
2007/03/04(Sun) 23:49 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
度々失礼します。
すみません。コメントを編集しました。
「共」は「者」の方がよさそうかなぁ、と思い直しました。
2007/03/04(Sun) 23:58 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
信長新出文書
かわとさん、こんにちは。

ご教示有難うございました。
ご指摘のとおりではないかと思いました。

「共」は私もそうじゃないかなと思ったのですが、何せ色が薄いもので。
(後記:かわとさんの再コメントで「者」ではないかとのこと。たしかに「国人衆共」では二重複数形になる。「国人共」だけのほうがいいけれど)

「不」を「被」に代えるとすっきりと意味が通りますね。私も内心、「本意を達せず候」では意味が逆だと思っておりました。該当の一字に微妙に虫損らしきものがあり、「不」に見えてしまいました。

この信長文書、明らかに新出だと思います。信長の新出文書は最近でもけっこうありますね。管見のかぎりでも、10点近く見ています。
とくに今回のは、信長文書がほとんどない香川県からなので貴重です(塩飽諸島が香川県に属するなら、ここにも信長文書が1点あります)。

内容的にも、信長の四国政策に関わっています。この辺は史料の空白期間なので、非常に興味深いです。
冒頭の部分、讃岐一国を本領として与えるという意味なんでしょうかね? もしそう解釈していいなら、どえらいことではないかと思っているのですが……。
2007/03/05(Mon) 00:04 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
即レスにて失礼します。
「共」or「者」の上の字ですが、「衆」か、もしくは「等」あたりが該当しそうですね。これはやはり現物か鮮明な写真を見ないと確定はし難いところです。

なぜ宛所がないんでしょうね…? 意図的に切ったとすれば、その背景が興味深いところですね。
まだまだ未発見の文書って信長クラスでもあるんですね。わくわくする反面、ちょっと怖い気もします(笑)。

冒頭の部分ですが、「讃岐国の儀、その方本領に任するの旨、申し談じ候」と読むのでしょうか。そうであれば、讃岐国一国を本領として安堵した文書と理解できるように思います。その上で、当国中の家臣や国人層の糾合(含意するのは一国の「無為」)を命じたのでしょうかね。
2007/03/05(Mon) 00:13 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
やはり
かわとさん

度々のコメント有難うございます。

やはり讃岐一国を本領として安堵する、または宛行うと解釈できそうですね。

となると、ますます宛所が誰なのかが気になります。
家来・国人を「招寄」という部分が気になっているのですが、どうも讃岐の国外から呼び寄せるニュアンスを感じてしまうのですが……。
その場合、信長三男の信孝の可能性が浮上します。天正10年5月に、実際に信長が信孝に讃岐一国を与えるという朱印状を発給しています(三好康長には阿波を与えるという、いわゆる四国国分令です)。
もし2年前に遡って信長が先行的に命じていたのなら、これまでの織田権力の四国政策を読み替える必要も出てきます。

個人的には、今月中旬刊行の拙著に取り入れたかった史料でした。あとの祭りとはこのこと(爆)。
2007/03/05(Mon) 00:33 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
「招寄」
「衆」ヵとした字、じーっと目を凝らすと(笑)、「之」かもしれません。いずれにせよ文意にはあまり影響はありませんが。

この文書の宛所を勘案するには、ご指摘の通り「招寄」の用法が鍵になりそうですね。信長発給文書で類例が既にあるのであれば、そこから背景を探れそうです。

私は信長文書にあまり当たったことがないのではっきりしたことは言えませんが、「招寄」が他国からの招聘を指すことが明確であれば、宛所を切断したと思われることや、現在の所蔵者も勘案すると、香川氏に充てたものではない可能性が高まりますでしょうか。

この辺は、私は生半可に深読みはしないようにします(笑)。是非次著にて新解釈がご呈示されるよう期待申し上げます。
2007/03/05(Mon) 16:12 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
宛所
かわとさん、どうも。

度々のご教示有難うございます。
不明文字、私の目には薄すぎて読めません。まるであぶり出しのようです(笑)。
その一方で、末尾の「状如件」のあとも一字ありそうに見えるし、果たして「件」でいいのかなと思ったりもします。
いずれにせよ、実物か、鮮明な写真版がないと確定できないですね。

「招寄」は、やはり讃岐国在住だと、ちょっと違うような気もしますが、西讃の有力国人である香川氏の右筆の子孫に伝来しているなら、やはり香川氏の存在は無視できないかもしれません。

当時の当主、香川信景は信長からの一字拝領とされ、天正三年以来、反三好路線の一致から信長に服属しているとされます。また同時に、当該朱印状の頃、長宗我部元親の二男親和を養子に迎えて同盟を強化しています。

問題は天正八年当時の讃岐支配がどのように行われていたかだと思います。
讃岐は阿波三好家の領域でしたが、当主の三好(十河)存保が岩倉城合戦で長宗我部氏に敗れて、阿波を保てず、讃岐に退転していました。また西讃は香川氏や香西氏らが割拠して、反三好勢力が優勢でした。

そういうなかで、信長が三好存保をどう見ていたかがよくわかりません。服属していたのか否かが確認できません。この時期はむしろ、長宗我部氏が親信長派であり、天正八年夏前後、十河城(三好存保が籠っていると見られる)を攻めていることは、新出の元親書状(羽柴秀吉宛て)で確認できます。

したがって、信長は香川氏もしくは長宗我部氏の讃岐での行動を暗黙に是認しているように思われます。とすれば、両者はともに当該朱印状の宛所の候補であると思います。

信孝が宛所だとすれば、三好存保の改易を前提にした措置だと思われますが、天正八年では、やや時期尚早な気もします。

いずれにしろ、この時期の讃岐情勢は史料的な空白が多くて不明な部分が多いです。
当該朱印状はその空白を埋める恰好の史料ですが、いかんせん、宛所が切断されているのが画竜点睛を欠いております。宛所さえあれば、信長の讃岐への仕置方針がかなり鮮明になったのに、残念です。

2007/03/05(Mon) 19:33 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
この文書、関心が有りましたので。コメントお許し下さい。
以前の写真より、やや鮮明な物が提供されて、ぴえーるさんには感謝感謝です。

四行目の最後は、「も」ではないかと思います。その上に「等」が有るかも知れません。墨が薄くて判別しにくいですが。

文脈から言えば、「前々 家来・国人等も 」と思われます。
五行目の「招寄」は信長文書では用語の例が確認できませんが、他に読み方は無いように思われます。
七行目の最後は、「之」だと思います。信長文書では、「状」の前には「之」を記す用例が多数あります。
「不可有疎意之状如件」だと思います。
また、「件」の後に文字はないと思います。「状如件」が書留文言ですので、その後に文字があれば、おかしいです。


讃岐国之儀、其方
任本領之旨申談候、
全可有領知候、前々
家来・国人□(等か)も
招寄、廻調略可
被達本意候、於
信長不可有疎意之
状如件、

天正八
 四月五日 信長(朱印)


本文の行間が等間隔にあいている点、また署判の部分、署名の上に朱印が捺されているのが確認出来ますので、一応良いモノだと思われますが。ただし、写真では朱印が縦長ではなく、正円に近いように見えます。

僕も、この朱印状が良い物だとすれば、武井夕庵の手になると思いますが、原本を見てみないことには何とも言えません。
あと、紙質の問題ですが、信長の家臣に発給した物ではないようなので、料紙は雁皮か鳥ノ子の、いわゆる斐紙系の紙が使用されているとベストだと思います。

この文書、既に専門家が見ているのではと思います。思文閣の社長が右筆の「武井夕庵」の手だと発言したようなので、事前に専門家に意見を聞いた可能性が大だと思います。

朱印の部分が欠けるなど、欠損が多くて非常に残念です。
一度、良質な写真など見てみたいものです。
失礼しました。
2007/03/05(Mon) 23:00 | URL  | ろあん #-[ 編集]
招寄
ろあんさん、こんにちは。

いろいろご教示有難うございます。
料紙や右筆まで詳しく教えていただき有難うございます。
本文のほうもご指摘の分を反映させたいと思います。

「招寄」という用語、信長文書ではやはり珍しいとのこと。私はどうも他国から呼び寄せるというニュアンスが強いのではないかと思っておりますが、比較検討の材料がないのが何とも。ろあんさんはいかがお考えでしょうか。

いずれにしろ、近年の新出の信長文書ではかなり貴重なものではないかと思います。
これからも、いろいろ教えて下さい。
2007/03/05(Mon) 23:29 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
別の意味ですごい
私のような素人には、このような古文書を読み解ける方は、ただただ尊敬です
2007/03/06(Tue) 13:42 | URL  | 小池 #PoWRB6fw[ 編集]
小池様もなかなか素晴らしいものをお持ちですよ!鎌倉に関して尊敬しております。私は更に、ど素人です!!鎌倉に吉田松陰の兄の御子孫の方が御住まいです(ただの宣伝です)。いつか御会いしたい方ですね。桐野様のブログにヘンテコリンな事を書き込んで申し訳ありません。皆様を大変尊敬しております。今後の研究の御健闘を祈っております。
2007/03/06(Tue) 16:41 | URL  | 吉田松陰大好き #-[ 編集]
>小池さん

いろんな方のご協力のおかげで、ほぼ解読できたように思います。正式には、原文書か、その精密な写真版で確定したほうがいいと思います。

信長の朱印状のなかでも、知行関係とくに一国規模の領知宛行なので、信長の四国政策ひいては西進政策を知るうえで、非常に重要な史料だといえそうです。

>吉田松陰大好きさん

吉田松陰の兄さんの子孫が健在なのですね。全然知りませんでした。
ヘンテコリンだとは思っていないので、ご安心下さい。
2007/03/06(Tue) 23:42 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
信長の四国政策
こんばんは。盛り上がっているようですので私も参加させてください。
くずし字方面はさっぱりなので(笑)、内容について考察します。

「信長」と署名する印判状で書止文言が「状如件」となっている文書は信長晩年に多く見られます。
今回の朱印状によく似た文書の例としては次のような文書があり、書札礼から見ても、外様の大名クラスの武士に宛行を約した文書と見てよいような気がします。

 周防・長門両国事、全可有進止候、聊不可相違之状状如件

  天正七
   十一月廿七日       信長(朱印)
   大友左兵衛督殿

文面ですが、信長がこの武士に対して次のことを告げています。

1,「讃岐は本領(本来の所領、相伝の所領)である」という主張の承認
2,「前々(以前の)家来・国人らを招集し、調略を廻らし本意(願望)を達せられるように」との激励

つまり、讃岐の旧国主の復帰運動を支援するという文書のようです。
となると、宛先は自ずと限られてくるわけで、細川氏か三好氏の有力者ということになりますが、天正10年に子息信孝を三好康長の養子として讃岐を与えていますから、この文書の宛先は康長とするのが妥当なように思えます。

信長は康長に河内半国を与えるなど優遇していますし、天正8年6月には三好式部少輔(康長の子で阿波岩倉城主。長宗我部氏に居城を奪われた)に対する信頼は変わらない趣旨の朱印状を長宗我部氏向けに発給しています。この朱印状では「詳細は三好康長から伝える」と結んでいますので、丁度この時期から三好康長が信長政権の四国担当者として活動していたようです。

もろもろ考え合わせると、天正8年4月に康長に讃岐を給付するという政策は大いにあり得ることだと思います。
2007/03/07(Wed) 01:42 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
若干質問をさせてくださいm(_ _)m
大変レベルの高い議論をされてるところ申し訳ありませんが、若干質問をさせてくださいm(_ _)m

①「讃岐国之儀、其方任本領之旨申談候、全可有領知候」
今のところ「本領」は「讃岐国」全体を指していると解されているようですが、「其方」に対し元々持ってたある特定の讃岐国内の所領=「本領」をそのまま「任(まかす)」旨を話し合って「全」=落度なく領有すべき、とも解釈できそうですが、どうでしょうか?

②「前々家来・国人□(等カ)も招寄、廻調略可被達本意候」
~「招寄」という部分が気になっているのですが、どうも讃岐の国外から呼び寄せるニュアンスを感じてしまう~
ことから「家来・国人」は讃岐国外の者である可能性を挙げておられますが、「国人」の「国」は「讃岐国之儀」の「国」をうけていると思われ、かわとさんののべたように「当国中の家臣や国人層」と解釈した方がよいように思われますが、どうでしょうか?
なんとなく「家来」と「国人」を書き分けてることにも意味がありそうな気もします。

史料が少なく研究も進んでないとこで、こんな質問してすみませんm(_ _)m
2007/03/07(Wed) 20:12 | URL  | あほやん #-[ 編集]
こんばんは。
あほやんさんのブログ、いつも楽しく拝見させていただいております(^^

さて、①についてですが、前回コメントで引用した大友義統あての文書もそうですが、その国の一円支配を認めるときの独特の言い回しなのかなと感じています。
例えば、国の一部を安堵する場合は、次のように書くからです。

 甲斐国本地分事、聊以不可相違、
 然而河尻与兵衛被遣之分与入組之儀、
 以年寄令相博、立堺目、全可有領知之状如件
 
  天正十
   四月十日       信長(朱印)
   穴山陸奥入道殿

今回の文書は「讃岐国之儀・・・全可有領知候」としていることから、讃岐一国の宛行だと思います。

「任本領之旨」については、この頃の文書でよく「任御下知之旨」のような用例を見かけますので、「本領の旨に任せ」と読み、「本領と(信長が)認めた趣旨に従い」という解釈でよいのではないかと考えています。

②についてはご指摘の通りだと思います。
2007/03/07(Wed) 23:32 | URL  | 板倉丈浩 #OeYiU9x6[ 編集]
↑ありゃりゃ。またトリップが違ってますね。
すみません・・・。
2007/03/07(Wed) 23:35 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
三好康長
板倉さん、こんばんは。

あほやんさん、はじめましてでしたっけ? コメント有難うございます。

宛所が三好康長ではないかとのこと。
なかなか興味深いですね。私も康長を候補の一人に想定しておりました。

近刊拙著でも少し触れていますが、羽柴秀吉宛ての長宗我部元親の新出文書があります(藤田達生氏紹介)。これが天正8年11月24日付でして、くだんの信長朱印状の半年後くらいのものですが、そのなかに、「三好山城守、近日讃州安富館に至り、下国必定に候」という一節があります。
これは、三好康長の讃岐下向を元親が危惧するニュアンスで書かれているように思いますが、「下国」という言葉に引っかかりを感じておりました。

「下国」というのは、ふつう、国司が任国に下ることをいうのですが、戦国時代には律令制の国司なんていませんから、その用法がどのように変化しているのかわかりませんが、康長が讃岐一国を与えられたとすれば、「下国」と使うのはそれほど不自然ではありません。

なお、康長の本領というか本貫の地は阿波岩倉だとされています(編纂物が論拠なので検討の要あり)。それとは別に、信長から河内南半国の守護に任じられています。
それに従えば、康長は讃岐に「本領」がなかったことになり、この場合の「本領」は讃岐を新知として宛行う意味合いが強くなるかもしれませんね。

となると、「家来・国人等も招寄」という一節も、河内や阿波から康長ゆかりの者を呼び寄せると解釈できないでしょうか。讃岐国がもともとの「本領」であれば、「招寄」とわざわざ使う必要もない気がします。

この場合の「国人」は、讃岐国の「国」と対応するというより、康長の領する南河内の国人(あるいは阿波の国人)と考えても、それほど不都合ではないように思うのですが。

むろん、宛所が康長以外の可能性を排除するものではないことをお断りしておきます。
2007/03/08(Thu) 00:43 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
吉田松陰
桐野様のブログをチャットのように、使って申し訳ありませんが、確か吉田松陰のおじさんが鎌倉の瑞泉寺の住職でした。黒船が来た時吉田松陰は瑞泉寺に泊まっています。その時の記念碑が瑞泉寺に立っています
2007/03/08(Thu) 17:36 | URL  | 小池直行 #PoWRB6fw[ 編集]
レスありがとうございます
ご紹介の文書については全く知りませんでした。近刊の御著書楽しみにしています。

さて、三好康長ですが、主に河内を中心に活動している人なので、讃岐にはあまり縁がなさそうです。
だから讃岐は実質的には新知なんでしょうが、康長はかつての「八ヶ国の覇者」三好一族の代表者として「讃岐は三好氏の"本領"である」と主張し、信長がそれを認めたということなのだと思います。

『日葡辞書』の「前々(マエマエ)」の項で「前々御見参人でござる」という例が挙げられていて、「それはもうずっと以前に貴方が会ったよくご存じの人です」という意味であると記してあります。

となると、この文書の「前々家来」というのは「ずっと以前に三好氏に仕えていた武士」という意味であり、「前々家来・国人等も招寄」は「讃岐国に入国し現地の旧三好氏家臣や国人らに広く声をかけて集めよ」という信長の指示と解釈するのが妥当ではないか、家来と国人を分けているのは讃岐国では必ずしも三好氏の家臣とはいえない武士(香川氏など)もいたからそういう表現になったのではないか・・・と考えています。

まあ「招寄」についてはあまり用例を見ない語ですので、桐野さんが仰るような解釈もできそうな気もしますし、確定的なことは言えないのですが・・・(^^;
2007/03/09(Fri) 05:24 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
阿波三好家
板倉さん、いつも興味深く鋭いご意見有難うございます。

日葡辞書での「前々」の意味、よくわかりました。有難うございます。
「家来・国人」の区別については、戦国大名一般でもありうることだと思います。
たとえば、甲斐武田氏ですと、根本被官や譜代衆とは別に征服した信州や西上野、駿河などの領主は「国人」に分類されるだろうと思います。

そこで、信長朱印状の宛所が三好康長だとすれば、「国人」は河内・阿波・讃岐などにいる外様領主だということになるのでしょうね。

板倉さんの以下のご見解、なかなか面白くて、ありえそうですね。

>康長はかつての「八ヶ国の覇者」三好一族の代表者として「讃岐は三好氏の"本領"である」と主張し、信長がそれを認めたということなのだと思います。

ただ、三好一族一般で語るのはやや漠然としすぎているかもしれません。
三好氏については、天野忠幸氏が面白い論文を書かれています(「三好氏の権力基盤と阿波国人」 『年報 中世史研究』31号、2006年)。

それによれば、三好長慶系統の本宗家と、その実弟である三好実休の阿波三好家は別家であり、区別して考えるべきだという立場です。

実休は阿波守護家(いわゆる「下屋形」)の細川持隆から守護の軍事動員権を奪い、長慶とともに将軍義輝の相伴衆になったことにより、阿波三好家が本宗家とは別に成立したというわけです。
阿波三好家の勢力範囲は、阿波・讃岐の両国と淡路の一部と河内南半です。

それで、天正八年当時、阿波三好家の当主は三好存保だったはずですが、同七年暮れに岩倉城合戦に敗れて居城の勝瑞城を保てず、讃岐十河城に逼塞していたと思われます。
ご存じのとおり、存保は兄長治の自害によって、泉州堺から阿波に入り、阿波三好家の家督を継いでいます。その際、『南海通記』によれば、信長の命によって阿波に入ったとしておりますから、信長は存保の阿波三好家相続を認めていたと思われます。

一方、同八年の夏頃、長宗我部元親は讃岐に侵攻して、羽床・十河の両城を攻めています。これは存保の勢力圏を侵しているはずですが、信長から咎められた節もありません。

どうも、この頃、信長は存保を見切っていたかもしれませんね。それは阿波三好家の改易と理解していいか、難しいところです。

例の信長朱印状をみれば、信長は存保の代わりに、河内半国守護の康長を取り立てて讃岐の国主にしようとしたという解釈もできそうです。
その際、康長は阿波三好家の家督を存保から継いだというよりも、新たに織田政権の分国大名として取り立てられた、つまり、阿波三好家の否定のうえに実現した、あくまで織田政権による讃岐の分国化といえないでしょうか。

その後、信長は三男信孝を分国大名へと引き上げるため、恰好の対象となったのが子どものいない康長であり、康長に旧阿波三好家の本領である阿波を与える代わりに、養子の信孝を讃岐に所替するという玉突き人事を行ったのかもしれません。讃岐・阿波両国の領有は三好一族にとって形式的には厚遇ですので、これで納得させたかどうか。

それが一方で、長宗我部氏の既得権益の否定になることはいうまでもありません。

2007/03/09(Fri) 16:23 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
いささか脱線・暴走気味ですが・・・(笑)
長文のレスありがとうございます。

>三好長慶系統の本宗家と、その実弟である三好実休の阿波三好家は別家であり、区別して考えるべき

「阿波三好家」については、三好実休が阿波守護細川氏の権限を継承した(簒奪した)というのはわかるのですが、讃岐は細川宗家(京兆家)、河内は畠山氏が代々守護を務めているので、阿波以外の国の権限は長慶から付与された一時的なものであり、子・長治がそれを継承したかどうかは疑問です。ただ、

>阿波三好家の勢力範囲は、阿波・讃岐の両国と淡路の一部と河内南半です。

阿波・讃岐・南河内・・・信長が康長に与えた国とピタリ一致しますねえ(笑)
信長はかつての「阿波三好家」の範囲に限定して三好家再興を認めたということになりましょうか。

>康長は阿波三好家の家督を存保から継いだというよりも、新たに織田政権の分国大名として取り立てられた、つまり、阿波三好家の否定のうえに実現した、あくまで織田政権による讃岐の分国化といえないでしょうか。

これはどうでしょうか。
後に信長は信孝に対して「康長を主君とも父母とも思って忠節を尽くせ」と訓戒していますので、養子といっても北畠氏などとのケースとは明らかに違っており、三好家の再興と見た方がいいと思います。
2007/03/10(Sat) 15:23 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
三好家の再興
板倉さん、こんにちは。

>後に信長は信孝に対して「康長を主君とも父母とも思って忠節を尽くせ」と訓戒していますので、養子といっても北畠氏などとのケースとは明らかに違っており、三好家の再興と見た方がいいと思います。

三好康長と信孝の養子縁組ですが、この天正10年5月7日付の朱印状はこのように書いていますが、その直後に書かれた別の史料には次のようにあります。

「御朱印(5月7日付)は四国きりとりの御朱印に候、おもてむきは三吉(三好)養子に御なり候分に候」

これは、信孝の所領である伊勢神戸の慈円院住持正以の書状です(「神宮文庫所蔵文書、『三重県史』資料編中世1下)。

こちらのほうが実態に合っているんじゃないでしょうか。今度の阿波出陣の目的は「四国きりとり」であり、信孝と康長との関係も「おもてむき」、つまり、かりそめの関係にすぎず、信孝が四国に勢力を扶植するための培養基として必要というのが、織田方の本音だったと思われます。

信長の四国国分令は形式上は三好氏優遇策であることは否定しませんが、信孝が養子なので、康長の隠居か死後は実権はすべて信孝に移ってしまいます。その時点で、北畠氏がそうだったように、名前だけ残って中身が入れ替えられてしまうことになるのでは……。

それと、織田権力の北畠氏への対応と異なるのは、信長の2種類の朱印状(天正8年4月5日付、同10年5月7日付)のいずれもが、知行宛行状の形式になっていることです。
つまり、これは織田権力の分国化以外の何者でもありません。三好家再興は三好一族とその家中に対するリップサービスではないでしょうか。



2007/03/11(Sun) 09:49 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
信孝の養子入りについて
こんにちは。
脱線・暴走ついでに(笑)議論を続けますが・・・。

>「御朱印(5月7日付)は四国きりとりの御朱印に候、おもてむきは三吉(三好)養子に御なり候分に候」

この書状ですが、この部分に続けて、四国征伐は短期間で片づくだろうという見通しと根こそぎの大動員令が下されていることが記されていますから、文の趣旨としては「信長朱印状には養子入りのことしか書いていないけど、実際には四国征伐なんだよ」という事実を伝えるものであって、

>信孝と康長との関係も「おもてむき」、つまり、かりそめの関係にすぎず、信孝が四国に勢力を扶植するための培養基として必要というのが、

とか、そこまで信長の意図を深読みしたものではないような気がします。

>康長の隠居か死後は実権はすべて信孝に移ってしまいます。その時点で、北畠氏がそうだったように、名前だけ残って中身が入れ替えられてしまうことになるのでは……。

なるほど。
ただ、利用するだけ利用して後で乗っ取る前提の養子縁組とはちょっとヒドイですね(笑)。信長らしくないというか。
北畠氏の場合は実質的には降伏条件でしたけど、三好氏の場合はこれから本領を回復するわけですからね・・・。

>知行宛行状の形式になっていることです。つまり、これは織田権力の分国化以外の何者でもありません。

例えば、大友義統あてに周防・長門の知行宛行状を発給していますし(前掲)、必ずしもそうとはいえないと思います。
この時期の信長は天下人として、自らの分国以外についても知行宛行状を出していたということではないかと。
2007/03/11(Sun) 17:26 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
信長朱印状の持ち主
すでに御存知かも知れませんが。余所から得た情報です。

>持ち主の先祖は讃岐の香川氏の右筆だったそうだから、香川信景宛てだろうか?

件の信長朱印状の持ち主は、江戸期に周防岩国藩主吉川氏の家老香川氏に仕えた右筆の後裔らしいです。なんでも、先祖がゴミ入れのなかから見つけたということです???。


讃岐の香川氏ではなく、戦国期に安芸の八木に割拠した武将の子孫らしいです。吉川元春の家臣で香川兵部大輔(春継)という部将の名が吉川家文書にしばしば見られます。

2007/05/09(Wed) 16:12 | URL  | 春長軒 #-[ 編集]
吉川家家臣とは
春長軒さん、どうも。

貴重な情報有難うございます。
もし差し支えなかったら、情報源を教えていただけませんか。むろん無理にとはいいません

讃岐の国人ではなく、吉川家の家来でしたか。
『吉川家文書』をざっと見てみましたら、とりあえず1点だけ見つけました。
同書三の34号文書の差出人が「香又左」で、香川春継と注釈されていました。

毛利氏減封後、この香川氏はそのまま吉川家に仕えたのでしょうかね? 右筆ならその可能性が高いと思いますが、あるいは毛利家にスライドしたか。だったら、『萩藩閥閲録』も見たほうがいいかも。
う~ん、かえって謎が深まった気がします。
なぜ吉川家家臣の香川家に伝来したのか、その事情がなかなか想像がつきませんね。

2007/05/09(Wed) 20:36 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
私の推測が
まずかったようで御迷惑をおかけしました。申し訳ありません。

東大史料編纂所所蔵の「吉川家中系図」に「香川邦太郎系図」というのが載っているようです。吉川家臣の香川家とはこの家でしょうか?
同所所蔵の「長陽従臣略系」によると、香川春継の兄の妻が熊谷信直の娘のようなので、その辺の縁故が関係あるのではないかと。
2007/05/10(Thu) 00:44 | URL  | ぴえーる #cxOfCZlk[ 編集]
伝来経路は?
ぴえーるさん、お久しぶりです。

いえいえ。気にしないで下さい。ぴえーるさんのご好意で、この書簡の解読もできたことですから。

やはり吉川家臣に香川家があるのは間違いないようですね。
ご紹介の「吉川家中系図」を見てみましたが、10家ほどの系譜があるようです。そのなかに含まれているのですから、香川家はそれなりの家柄だといえそうですね。

う~ん、それにしてもなぜこの香川家に讃岐関係者に宛てたと思われる信長朱印状が伝来しているのでしょうか。
ひとつは、香川信景の代、元吉合戦により、香川氏が一度毛利方を頼って亡命していますが、それは関係ないか? でも、元吉合戦より前から香川春継は吉川家に仕えているし、信長朱印状の年次も元吉合戦よりあとですね。

今のところ、伝来経路がよくわかりません。
2007/05/10(Thu) 17:51 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんわ。
お世話になります。

信長の朱印状が砺波市文化財に
http://mytown.asahi.com/toyama/news.php?k_id=17000001107280001
2011/07/28(Thu) 20:39 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
信長文書御礼
市野澤さん

新出の信長文書の紹介有難うございます。
すごいかどうかはわかりませんが、けっこう出てくるものですね。
2011/07/29(Fri) 16:24 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
新出?
新出なのでしょうか。補遺144号では?『根尾村史』などにも紹介されている文書ではないでしょうか。
2011/07/29(Fri) 19:05 | URL  | ハンク #-[ 編集]
説明不足でした
桐野さん、こんばんわ。
誤解を招く書き込みになってしまい、
失礼致しました。
これでは新出の信長文書が発見されたと思いますよね。

佐賀城本丸歴史館にて
佐賀城築城400年記念プレ企画2「佐賀鍋島藩の誕生」展
平成23年7月22日(金) ~8月31日(水)
佐賀城築城400年記念企画「戦のデザイン」展
平成23年10月14日(金) ~11月23日(水・祝
が開催中です。

佐賀城本丸歴史館
http://sagajou.jp/

龍造寺から鍋島へ 佐賀鍋島藩の誕生展
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2006973.article.html
「佐賀新聞」より

安八町氷取の生涯学習センター「ハートピア安八」にて、稲葉正成の展示が開催中です。
http://www.town.anpachi.gifu.jp/heartpia/

春日局の夫 正成を紹介 安八で企画展http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyo110726_2.htm
「読売新聞」より
2011/07/29(Fri) 21:23 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
Re: 新出?
ハンクさん

返事が遅くなりました。
「補遺」見てみました。
ご指摘のとおりでした。有難うございます。
2011/08/07(Sun) 21:16 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
情報御礼
市野澤さん

またイベント情報有難うございます。
とくに佐賀県関係が面白そうですね。
せめて図録だけでも入手しようかと思います。
2011/08/07(Sun) 21:18 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
特別展「戦国から江戸へ-本多政重をめぐる人々-」
こんばんわ。

>とくに佐賀県関係が面白そうですね。
>せめて図録だけでも入手しようかと思います。

佐賀城本丸歴史館では、図録やパンフレットを作成していないそうです。

藩老本多蔵品館
特別展「戦国から江戸へ-本多政重をめぐる人々-」
8月26日~11月30日
http://www.honda-museum.jp/

8月8日~織田信長・上杉景勝・直江兼続の書状を展示中だそうです(H.Pより)。

2011/08/08(Mon) 21:30 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
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