歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第177回
―終生、近衛家の執事として―

連載が更新になりました。
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葛城彦一の2回目です。
加治木島津家の家臣だった葛城が亡命先の筑前から帰国すると、御小姓与(おこしょうぐみ)へと昇進しました。
御小姓与は最下級とはいえ、城下士です。陪臣から直臣への家格上昇はかなりの名誉で、葛城も光栄に感じたと思われます。

以後、葛城は上京して、近衛家で貞姫付きの用人として働きます。
私が小松帯刀の京都邸「御花畑」の場所について、葛城の日記の信頼性が高いと判断したのも、葛城と近衛家の密接な関係にあります。

在京時代の葛城の仕事で興味深いのは、尹宮朝彦親王と島津家の「姫君」の縁組のためにひそかに動いていたことです。これは先行研究でも指摘されていなかったと思います。
島津家が縁組まで考えていたということは、両者の関係が相当親密だったことを意味します。島津家としては、近衛家と朝彦親王を姻戚関係に取り込めば、朝廷との関係で幕府より優位に立てるという計算もあったのでしょうね。

同時に、この縁組がなぜ実現しなかったのか、その背景や理由も気になります。
葛城がこの縁組の下準備のために帰郷したのが元治元年(1864)3月下旬から4月です。
この時期は一会桑権力の成立時期ともされており、参預会議が解体し、雄藩諸侯を排除して幕権強化が図られた時期でもあります。薩摩藩は幕府離れを示し、「禁裏御守衛」第一主義へと転じた時期でもあります。

あくまで推測ですが、朝彦親王は一会桑に接近し、その分、薩摩藩との関係が疎遠になったのではないかと思います。それが縁組が沙汰止みになった理由かもしれません。もう少し検証が必要ですが、元治期薩摩藩の動向を考えるうえで、興味深い一件だと思います。

なお、朝彦親王の読みに関して、葛城の伝記には「あさよし」とルビが振ってありました。これも留意すべき点かと思います。

ほかにも、この時期、近衛家や朝彦親王に仕えるようになったのは、葛城はじめ、村山斎助・藤井良節・井上石見など嘉永朋党事件での筑前亡命組が関わっています。また嘉永朋党事件で弾圧された高崎温恭の一子、高崎佐太郎(正風)も朝彦親王付きというか家来になっています。
このグループの果たした役割も重要だと思います。

次回は、伊集院金次郎という鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩藩士について書く予定です。

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【2011/01/11 18:09】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。地味な人物のお話ですが、興味深く拝見致しました。

>尹宮朝彦親王と島津家の「姫君」の縁組のためにひそかに動いていた
これが後に、久邇宮邦彦親王(中川宮朝彦親王の息子)と島津倶子(島津忠義の娘)の結婚の伏線になったんでしょうか?とすると、後の「宮中某重大事件」にもつながる話になってくるわけですが…。


宮中某大事件
桐野
ばんないさん

面白い見方ですが、この事件とは直接の関係はないのではないでしょうか。
それに朝彦親王は明治初年、一度謀叛の嫌疑で広島に拘禁されていますね。明治以降、薩摩や島津家との縁がそれほど強かったとは思えないのですが。
もっとも、この事件は薩摩VS長州の対決と面白がられたのもたしかですね。

余談ですが、広島に朝彦親王が拘禁されたとき、薩摩藩の京都留守居役だった内田仲之助が大久保一蔵宛ての手紙で「猫宮はこれほどの馬鹿とは」と痛罵しています。
朝彦親王は「尹宮」ですから、鹿児島弁で「いぬ」は「いん」(尹)ですから、さらにひねって「ねこ」に掛けているのが面白いです。

時代は違いますが、南北朝時代も「院御所」に対して「いん(犬)」というか」と矢を射かけたバサラを想起します。

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この記事へのコメント
こんばんは。地味な人物のお話ですが、興味深く拝見致しました。

>尹宮朝彦親王と島津家の「姫君」の縁組のためにひそかに動いていた
これが後に、久邇宮邦彦親王(中川宮朝彦親王の息子)と島津倶子(島津忠義の娘)の結婚の伏線になったんでしょうか?とすると、後の「宮中某重大事件」にもつながる話になってくるわけですが…。
2011/01/12(Wed) 00:51 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
宮中某大事件
ばんないさん

面白い見方ですが、この事件とは直接の関係はないのではないでしょうか。
それに朝彦親王は明治初年、一度謀叛の嫌疑で広島に拘禁されていますね。明治以降、薩摩や島津家との縁がそれほど強かったとは思えないのですが。
もっとも、この事件は薩摩VS長州の対決と面白がられたのもたしかですね。

余談ですが、広島に朝彦親王が拘禁されたとき、薩摩藩の京都留守居役だった内田仲之助が大久保一蔵宛ての手紙で「猫宮はこれほどの馬鹿とは」と痛罵しています。
朝彦親王は「尹宮」ですから、鹿児島弁で「いぬ」は「いん」(尹)ですから、さらにひねって「ねこ」に掛けているのが面白いです。

時代は違いますが、南北朝時代も「院御所」に対して「いん(犬)」というか」と矢を射かけたバサラを想起します。
2011/01/13(Thu) 21:54 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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