歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

もうひとつ書き忘れておりました。

お市や三姉妹が憎悪していた浅井長政らの薄濃(はくだみ)のことです。

これは『信長公記』巻7,天正2年(1574)正月元旦の年賀での宴席で登場します。場所は岐阜城の居館でしょう。
ひととおりの年賀の挨拶が済んだのち、馬廻衆だけ残って宴席が開かれました。
そこで、「古今承り及ばざる珍奇の御肴」が出てきて酒宴になりました。

以下読み下しを掲げますと、

朝倉左京大夫義景首(こうべ)
浅井下野(久政)首
浅井備前(長政)首

已上(以上)、三ツ薄濃にして公卿に居ゑ置き、御肴に出され候て御酒宴。各御謡御遊興、千々万々目出度御存分に任せられ御悦びなり。


「薄濃」とはドクロを漆で固めてから金泥などで彩色したものだそうです。
これを読む限り、長政ら3人の薄濃は「公卿」(折敷の台)の上に載せて飾られており、盃にされたわけではないようです。ドラマで信長が釈明していたとおりですね。

これが何に基づいた趣向なのかよくわかりません。宗教的あるいは習俗的な背景などがあるのか不勉強で知りませんが、これまでそのような解説は見たこともありません。
身近な馬廻たちだけを集めて元亀争乱の苦労をともにねぎらうために、その引き出物(苦労・苦戦した成果)として供されたようにも思えます。
ドラマでは、信長が合戦の勝ち負けは世の常で、長政らもねぎらったのだと話していましたが、さてそこまで深読みできるのかどうかわかりません。

取り急ぎ補足でした。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング



スポンサーサイト

【2011/01/17 00:13】 |
トラックバック(0) |


ハンク
いつも勉強させてもらっています。薄濃の件ですが、「中世に大流行した真言立川流の秘儀」という解説があります。『織田信長 石山本願寺合戦全史』112頁、武田鏡村著。

真言立川流
桐野
ハンクさん

その著書と真言立川流については、このブログでもすでに触れております。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-200.html

しかし、信長が真言立川流を知っていた、あるいは信じていたとは思えないのですが……。


こんにちわ
とらさん
お江の話題ですね。

市と長政はどちらも役者が23歳サバを読んだようで、このあたりは整合性がありますね・・?

家康もやけにフケてましたが、家康なら23歳でもあのぐらいフケて貫禄があってもおかしくない・・?

髑髏の話ですが、正月の正装を「倒した相手への敬意」みたいに表現するのは上手だな、と。ここだけは感心しました。
しかし、あの髑髏は少し現代人すぎる形みたいで、まぁたくさんヌリヌリしてるうちにあのようになった、といえばそうなんですが。

秀吉が家康にお酒をつぐシーンも、いくら年下でも提携先の社長なんですから、ちょっと違和感が・・

そういえば第一回の秀吉の紋は豊臣拝領時のものらしくて、ちょっとタイムスリップしてしまったのでしょかね。

これからも楽しみ?ではあります。

秀吉の家紋
桐野
とらさん

秀吉の家紋、旗指物でしょうか?
見逃してしまいました。
もしかして桐紋だったのでしょうか?
それなら、たしかに問題ですね(笑)。
このドラマにそのあたりの考証を期待しても詮ないかもしれませんね。

秀吉の桐紋
平八
いつも拝読させていただいております。

「江」の秀吉の桐紋の件は私も質問しようと
思っていたところでした。

姉川合戦時?が小谷攻め時に黄地に黒で
桐紋(五三の桐だったと思いますが)の
旗指物が見受けられました。

秀吉の桐紋は、信長からの拝領と、後に
天皇から下賜される(こちらだけと私は
思っておりました)のと
2回あったのでしょうか?


とらさん
自分もあまり詳しくはないですし、録画消してしまったので確認できませんが、小谷の旗指物が五
七紋だった、というのをどこかで見かけもので。

第二回冒頭時の潮干狩りシーン、これは桂浜では、というのも面白かったですね。

「あざい」というのも普通に使われてますが、これはどうなんでしょうね。
今後が楽しみです。


市野澤 永
桐野さん、こんばんわ。

家紋の間違いは多いですね。

私の守備範囲だと、下総結城氏の紋が向きが違ったり、
結城白川氏は伊達家の紋をずっと使用していたような間違いがあります。

桐紋
桐野
みなさん

秀吉家紋についてコメント有難うございます。

家紋については、私は門外漢ですが、秀吉が桐紋をもらったのは信長からではなく、朝廷からではないでしょうかね。
関白宣下のときか、豊臣受姓がきっかけのような気がしますが。

薄濃の件
takara_tuka2000
はじめまして。いつも興味深く拝見しております。

薄濃の件ですが、藤巻一保氏が「第六天魔王信長」という本で真言立川流との関係について論じておられます。

要約すると、
・髑髏法は真言立川流のオリジナルではなく、密教外法として天台でも真言でも使われた修法である。
・髑髏法における真の本尊は、人の魂魄を食らい死を支配すると信じられた外法最大の神・荼枳尼天である。
・一方、かのフロイスが信忠について「愛宕と称せられる山にある悪魔に二千五百クルザードを献納した。なおその悪魔への深い信心から、それに捧げる一種の犠牲の業として、自らの邸で裸となって全身に雪をかぶる苦行をした」と記録している。この愛宕信仰とは、即ち荼枳尼天信仰である。
・信長自身も本願寺に提出した起請文において、わざわざ「愛宕」を書き足している。信長と髑髏法を結びつけたのは、愛宕を通じた荼枳尼天信仰ではないか。
・見寺の開基は津島牛頭天王社の記録によると、尭照という無名の真言僧。信長に髑髏法を教えたのはこの尭照ではないか。牛頭天王も荼枳尼天と同じく密教における外法にあたり、それを扱うにはそれのプロの助けが必要なので。

・・・となります。

もちろん直接的な証拠は何もないので状況証拠を積み重ねているだけですが、非常にユニークな視点だと思いました。

情報御礼
桐野
takara_tuka2000さん

「薄濃」についての情報提供、有難うございます。

かなりうがった意見ですね。面白いですが、どこまで信じていいのか迷いますね。



コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
いつも勉強させてもらっています。薄濃の件ですが、「中世に大流行した真言立川流の秘儀」という解説があります。『織田信長 石山本願寺合戦全史』112頁、武田鏡村著。
2011/01/17(Mon) 20:30 | URL  | ハンク #-[ 編集]
真言立川流
ハンクさん

その著書と真言立川流については、このブログでもすでに触れております。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-200.html

しかし、信長が真言立川流を知っていた、あるいは信じていたとは思えないのですが……。
2011/01/17(Mon) 22:43 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんにちわ
お江の話題ですね。

市と長政はどちらも役者が23歳サバを読んだようで、このあたりは整合性がありますね・・?

家康もやけにフケてましたが、家康なら23歳でもあのぐらいフケて貫禄があってもおかしくない・・?

髑髏の話ですが、正月の正装を「倒した相手への敬意」みたいに表現するのは上手だな、と。ここだけは感心しました。
しかし、あの髑髏は少し現代人すぎる形みたいで、まぁたくさんヌリヌリしてるうちにあのようになった、といえばそうなんですが。

秀吉が家康にお酒をつぐシーンも、いくら年下でも提携先の社長なんですから、ちょっと違和感が・・

そういえば第一回の秀吉の紋は豊臣拝領時のものらしくて、ちょっとタイムスリップしてしまったのでしょかね。

これからも楽しみ?ではあります。
2011/01/18(Tue) 17:34 | URL  | とらさん #-[ 編集]
秀吉の家紋
とらさん

秀吉の家紋、旗指物でしょうか?
見逃してしまいました。
もしかして桐紋だったのでしょうか?
それなら、たしかに問題ですね(笑)。
このドラマにそのあたりの考証を期待しても詮ないかもしれませんね。
2011/01/19(Wed) 10:29 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
秀吉の桐紋
いつも拝読させていただいております。

「江」の秀吉の桐紋の件は私も質問しようと
思っていたところでした。

姉川合戦時?が小谷攻め時に黄地に黒で
桐紋(五三の桐だったと思いますが)の
旗指物が見受けられました。

秀吉の桐紋は、信長からの拝領と、後に
天皇から下賜される(こちらだけと私は
思っておりました)のと
2回あったのでしょうか?
2011/01/19(Wed) 15:20 | URL  | 平八 #H6RSI4P.[ 編集]
自分もあまり詳しくはないですし、録画消してしまったので確認できませんが、小谷の旗指物が五
七紋だった、というのをどこかで見かけもので。

第二回冒頭時の潮干狩りシーン、これは桂浜では、というのも面白かったですね。

「あざい」というのも普通に使われてますが、これはどうなんでしょうね。
今後が楽しみです。
2011/01/20(Thu) 18:03 | URL  | とらさん #-[ 編集]
桐野さん、こんばんわ。

家紋の間違いは多いですね。

私の守備範囲だと、下総結城氏の紋が向きが違ったり、
結城白川氏は伊達家の紋をずっと使用していたような間違いがあります。
2011/01/21(Fri) 00:29 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
桐紋
みなさん

秀吉家紋についてコメント有難うございます。

家紋については、私は門外漢ですが、秀吉が桐紋をもらったのは信長からではなく、朝廷からではないでしょうかね。
関白宣下のときか、豊臣受姓がきっかけのような気がしますが。
2011/01/21(Fri) 16:44 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
薄濃の件
はじめまして。いつも興味深く拝見しております。

薄濃の件ですが、藤巻一保氏が「第六天魔王信長」という本で真言立川流との関係について論じておられます。

要約すると、
・髑髏法は真言立川流のオリジナルではなく、密教外法として天台でも真言でも使われた修法である。
・髑髏法における真の本尊は、人の魂魄を食らい死を支配すると信じられた外法最大の神・荼枳尼天である。
・一方、かのフロイスが信忠について「愛宕と称せられる山にある悪魔に二千五百クルザードを献納した。なおその悪魔への深い信心から、それに捧げる一種の犠牲の業として、自らの邸で裸となって全身に雪をかぶる苦行をした」と記録している。この愛宕信仰とは、即ち荼枳尼天信仰である。
・信長自身も本願寺に提出した起請文において、わざわざ「愛宕」を書き足している。信長と髑髏法を結びつけたのは、愛宕を通じた荼枳尼天信仰ではないか。
・見寺の開基は津島牛頭天王社の記録によると、尭照という無名の真言僧。信長に髑髏法を教えたのはこの尭照ではないか。牛頭天王も荼枳尼天と同じく密教における外法にあたり、それを扱うにはそれのプロの助けが必要なので。

・・・となります。

もちろん直接的な証拠は何もないので状況証拠を積み重ねているだけですが、非常にユニークな視点だと思いました。
2011/01/23(Sun) 08:11 | URL  | takara_tuka2000 #-[ 編集]
情報御礼
takara_tuka2000さん

「薄濃」についての情報提供、有難うございます。

かなりうがった意見ですね。面白いですが、どこまで信じていいのか迷いますね。

2011/01/25(Tue) 14:32 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。