歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第179回
―旗本の善意 逆恨みされる―

一昨日、連載が更新になりました。
告知が遅れました。

同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回はちょっと変わった出来事を扱いました。
以前、江戸時代の武士道やエロスに詳しい氏家幹人氏が週刊誌のコラムに紹介されていたのを読んだのがきっかけで、少し調べてみようと思い立ちました。

前回の伊集院金次郎の戦死と同様、今回も薩摩武士の悲哀をテーマにしたものといってよいかもしれません。
しかも、今回のは理不尽というか、残酷というか、やりきれませんね。

それで、この事件の関係者が誰なのか、ほぼ完全に特定できますので、補足的に書いておきます。

まず、切腹を止めようとした旗本の酒井隠岐守です。
事件を記録した「天保雑記」に中奥小姓という役職が記されています。
幕府の役職を記録した『柳営補任』に、次のような人物がいます。

天保七年(1836)九月四日 中奥御小性ヨリ
同八酉八月八日西丸御小性組番頭    酒井隠岐守忠大(丈)


大円寺での事件が天保5年8月ですから、酒井隠岐守忠大はその時点で中奥小姓だった可能性が高いですね。
この人物で、ほぼ決まりでしょう。

次に切腹と介錯人の薩摩藩士は誰でしょうか。
これもほぼ確定できます。大円寺の過去帳が残っていて、『薩陽過去帳』(鹿児島県史料集ⅩⅣ)として刊行されています。その天保5年8月に3人の俗名・戒名が掲載されています。1人は童女なので除外でき、残りの2人が該当するのではと思います。

八月朔日 御広敷足軽 櫛原喜十郎事
 孤月秋天居士

八月廿日 芝御広敷御用人 大山彦八殿事
 源正院覚道良順居士


このうち、切腹したのが櫛原喜十郎で、介錯人が上司にあたる大山彦八でしょう。
足軽という軽輩ゆえ、門限に遅れただけで切腹させられたのでしょうね。薩摩藩の身分制の厳しさを思い知らされます。
2人とも、江戸の上屋敷の広敷に勤務していたということですから、藩主島津斉興の奥向き御用をしていたようですね。となると、切腹命令を出したのは斉興なんでしょうか?

なお、注目すべきは介錯人の「大山彦八」です。
幕末にこれと同じ名前の人物が登場します。
ほかでもない、寺田屋事件で襲撃されて負傷した坂本龍馬を救出した薩摩藩の伏見藩邸留守居の大山彦八(大山巌の兄)です。
そうなんです。介錯人でのちに連坐して切腹させられた大山彦八は幕末の彦八(成美)と弥介(巌)兄弟の祖父にあたります。『元帥公爵大山巌』所収の大山家系図でも確認がとれました。
調べていくと、意外な人物に突きあたりました。これだから、史料調べはやめられません。

この一件は続編を書くべきだと思いました。

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【2011/01/26 13:24】 | てらこや
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ながお
桐野様

こんばんわ。旗本と薩摩の武士道に対する見解の違いみたいなものを感じますし、やはり藩主の酷な性格が反映されるのでしょうか。門限が遅れたから、切腹を遅らせたから、そんな理由で死ななくてならないとは。命がいくつあっても足りません。彦八の子孫の巌たちは祖父の死をどう受け止めていたのでしょうね。

見解の相違?
桐野
ながおさん

武士道の見解の相違というのもありそうですが、どうも家中の決定に他家(それも旗本)から介入されたのが気に入らないだけかもしれないですね。
居直って処分を強行したのでしょうね。


大山彦八が介錯人
大膳太夫
いろいろ言いたいことがあるが、武士じゃない足軽が武士の名誉である切腹をするのだろうか。天保の事例があるなら出すべきだろう。
普通、介錯は親族か親族に以来された剣術家がするもので、上司がした事例を知らないので実証で有名な桐野氏にその実例があれば出してもらいたい。
切腹は大罪であり、普通は罪人の息子や娘婿がその名跡を相続できず、家老でもなかなかないが、それが出来る上に直触の特権である添地が剥奪になっていない中級武士の大山に出来る了見は何故か?。
そもそも幕府直臣だが中奥小姓の旗本と当時は親藩と同じ大廊下の薩摩藩の家中の求められるモラル基準が同じかという問題があり、仙台藩や加賀藩の事例を出さずに考えるのはいかがなものか?。門限違反処罰は武士のモラルに関わる問題で薩摩藩では門限違反して遊郭に行ったために家老をも含めた大処罰事件が竹姫の時に起こっている。

大山彦八
大膳太夫
きついコメントを先に書いたが、大山彦八の年齢が分かったのには感謝している。郡元墓地にあった大山家の墓が東京に移転して困っていたので、大山彦八綱毅の享年がわからずに困っていた。

自身は大山家を調べていた。残すは大山宗之丞の享年だけとなった。その点については感謝している。

いやはや
桐野
大膳太夫さん

人の家に土足で乗り込み、大声で騒ぐようなコメントに答える筋合いはありませんが。

私は切腹した2人について、『薩陽過去帳』に記載された2人が該当するのではないかと推定しただけで、断定はしていません。
それは南日本新聞連載のタイトルに「大山巌の祖父か」と疑問形で書き、断定を避けていることでも明らかでしょう。

しかし、この2人以外考えられないと思いますけどね。

あと、足軽が武士でないというのは他藩はいざ知らず、薩摩藩の身分制に照らしてどうですかね?
薩摩藩での足軽とはかつての道具衆の流れを引いており、末端ながら武士身分ではないですか。
足軽は江戸後期、同心と改称されていることもあり、武士でないというのは違和感ありますね。

また座付の与力と同様、足軽は諸役座の附属で、広敷もそのひとつですね。また扶持も小禄(3石余)ながら給付されています。

薩摩藩の藩政を詳述した「島津家列朝制度」巻29(『藩法集』8 鹿児島藩上)でも、足軽は島津一門以下の身分序列の最末端に書かれており、武士身分のくくりだと思います。

あと、介錯人が大山彦八綱毅だったのではないかと推定できるのは、その一女競子と西郷家から養子縁組した彦八綱昌が浪人だった可能性があることです。
『元帥西郷従道伝』の付録系図によれば、競子と綱昌が縁組した時期を天保6年6月19日としており、彦八綱毅が他界してのちです。このことは、おそらく綱毅で大山家は一時断絶した可能性を示唆しています。

『元帥公爵大山巌伝』の「大山氏系図」によれば、彦八綱毅の父綱道、祖父綱栄ともに一代小番と家格が御小姓組よりひとつ上で、小納戸役や喜界島代官、百引や串木野の地頭などを歴任するなど、もともとが御小姓組の家柄にしては相当の役職についています。
綱毅も広敷御用人と出世しています。

それに引き替え、綱毅養子の綱昌については同系図に「其の生涯を砲術研究に委ぬ」と書かれているのみで、仕官した形跡がありません。
つまり、無役か浪人だった可能性があります。綱毅が切腹したと考えれば、綱昌の不遇もよく理解できますが、いかがでしょうか?

また大山巌の伝記は分厚い大冊なのに、父綱昌のことを何も書いてないのも不自然です。書くのを憚ることがあったからだと考えたほうが理解しやすいですね。

大山家のことを長年調べておられて私より相当お詳しいはずですから、そのあたりはご存じではないのでしょうか。

なお、薩摩の過酷な武士道については、個人的な感想を述べただけで、他人にあれこれ言われる筋合いはありません。

切腹した奴どこの誰?
大膳亮
『薩陽過去帳』の凡例を見れば分かるが、これ自体が原本でなく実は後年に補修のために編集したものらしく、抜けがあることが指摘されており、天保5年で大山と足軽以外に童女がいるわけだが、実はこの童女の俗名が早川環の家来となっていのはご存知のこと。普通に考えれば早川の家来の娘とも考えられるが、凡例を考慮早川の家来と童女との間に抜けがある可能性はないものか。

薩摩藩は後年、江戸幕府を模範にして身分制を整えているので、少なくとも天保では制度上は江戸幕府に準じている可能性が高い。足軽は直臣卒族で直臣士分最下位は与力。但し薩摩藩の序列では足軽は最下位でなく、一門家家臣と諸家家臣(つまり陪臣)があるので足軽が士分に見えるのも納得ですが、宗門改めにおいて足軽以下(主家の特権により一門家と旧大身分の家臣)は年付けという差別があったはず。

綱毅が死亡したのが江戸だけに大山綱昌の家督相続が一年遅れたのは断絶としても切腹でなく一時的な無嗣断絶だったのでは?。でも無嗣断絶や切腹だと屋敷と添え地は没収のはずで、さほどというか全く出世していない大山綱昌が仮に名跡相続したとすると屋敷はともかく藩の拝領物の添地をもつというのもおかしい話。本当は鮫島家から養子に入った名越彦太夫やその孫の篠崎彦十郎みたく無高無屋敷からのスタートのはず(鹿児島城下絵図散歩など)

西郷隆盛の祖父の竜右衛門は兄の吉左衛門が江戸で切腹になったために村山家から戻されて西郷家の嗣子になったわけだが(つまり西郷隆盛が西郷とほぼ確定した事件。でなかったら村山だった)吉左衛門も『薩陽過去帳』にあるが、病死扱いでも切腹扱いでもない。

加えて最初の切腹が天保5年8月で間違いないとして2回目も天保5年8月かは疑問。桐野氏説でいくと2回目は1回目から20日かかったわけだが、大山を1回目とすると2回目の介錯人は9月。そもそも藤田殿は2回とも8月と言った?。

確かに門限破りで切腹は過酷で、幕府側用人の水野忠成の目付が門限破りで謹慎だったのを考えると確かに門限破りで切腹は過酷だが、あの慰安旅行事件を考えるとこの厳しさは分からなくもなかったりする。

訂正
大膳亮
足軽以下には年付けという差別があったが、一門家と旧大身分の家臣には主家の特権で年付はないと書こうとしたら間違えた。

自身は東京に行けないので、見ることが出来ない大山彦八の享年を掲載していただいたことには本当に感謝しておりますし、おまけに改葬後の死亡年まで記載していただき、いたれりつくせりです。江戸で埋葬、国元の参り墓、一日ずれる。西郷吉左衛門、五郎左衛門だけでなく、大山も一日ずれているとは収穫です。

門限で切腹という厳しさは加賀藩などの大廊下級大名家では普通だったかもしれない(斉宣、斉興時代は大廊下)ので、門限違反処罰や薩摩藩の足軽の切腹の事例収集をお勧めいたします。



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大山彦八綱毅
大膳亮
ヤベエ、また訂正。西郷吉左衛門でなく覚左衛門だわ。吉左衛門は旧名。

因みに婿養子大山綱昌は確かに無役でした。但し、不遇だったようには思えません。(大山家にとってはある意味残念な人でした)。因みに天保段階で水引の板垣と知り合いだったりする(西郷マニアなら大抵知ってるあの金持ち)。

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この記事へのコメント
桐野様

こんばんわ。旗本と薩摩の武士道に対する見解の違いみたいなものを感じますし、やはり藩主の酷な性格が反映されるのでしょうか。門限が遅れたから、切腹を遅らせたから、そんな理由で死ななくてならないとは。命がいくつあっても足りません。彦八の子孫の巌たちは祖父の死をどう受け止めていたのでしょうね。
2011/01/26(Wed) 23:59 | URL  | ながお #-[ 編集]
見解の相違?
ながおさん

武士道の見解の相違というのもありそうですが、どうも家中の決定に他家(それも旗本)から介入されたのが気に入らないだけかもしれないですね。
居直って処分を強行したのでしょうね。
2011/01/29(Sat) 21:09 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
大山彦八が介錯人
いろいろ言いたいことがあるが、武士じゃない足軽が武士の名誉である切腹をするのだろうか。天保の事例があるなら出すべきだろう。
普通、介錯は親族か親族に以来された剣術家がするもので、上司がした事例を知らないので実証で有名な桐野氏にその実例があれば出してもらいたい。
切腹は大罪であり、普通は罪人の息子や娘婿がその名跡を相続できず、家老でもなかなかないが、それが出来る上に直触の特権である添地が剥奪になっていない中級武士の大山に出来る了見は何故か?。
そもそも幕府直臣だが中奥小姓の旗本と当時は親藩と同じ大廊下の薩摩藩の家中の求められるモラル基準が同じかという問題があり、仙台藩や加賀藩の事例を出さずに考えるのはいかがなものか?。門限違反処罰は武士のモラルに関わる問題で薩摩藩では門限違反して遊郭に行ったために家老をも含めた大処罰事件が竹姫の時に起こっている。
2011/02/01(Tue) 17:20 | URL  | 大膳太夫 #-[ 編集]
大山彦八
きついコメントを先に書いたが、大山彦八の年齢が分かったのには感謝している。郡元墓地にあった大山家の墓が東京に移転して困っていたので、大山彦八綱毅の享年がわからずに困っていた。

自身は大山家を調べていた。残すは大山宗之丞の享年だけとなった。その点については感謝している。
2011/02/01(Tue) 17:30 | URL  | 大膳太夫 #-[ 編集]
いやはや
大膳太夫さん

人の家に土足で乗り込み、大声で騒ぐようなコメントに答える筋合いはありませんが。

私は切腹した2人について、『薩陽過去帳』に記載された2人が該当するのではないかと推定しただけで、断定はしていません。
それは南日本新聞連載のタイトルに「大山巌の祖父か」と疑問形で書き、断定を避けていることでも明らかでしょう。

しかし、この2人以外考えられないと思いますけどね。

あと、足軽が武士でないというのは他藩はいざ知らず、薩摩藩の身分制に照らしてどうですかね?
薩摩藩での足軽とはかつての道具衆の流れを引いており、末端ながら武士身分ではないですか。
足軽は江戸後期、同心と改称されていることもあり、武士でないというのは違和感ありますね。

また座付の与力と同様、足軽は諸役座の附属で、広敷もそのひとつですね。また扶持も小禄(3石余)ながら給付されています。

薩摩藩の藩政を詳述した「島津家列朝制度」巻29(『藩法集』8 鹿児島藩上)でも、足軽は島津一門以下の身分序列の最末端に書かれており、武士身分のくくりだと思います。

あと、介錯人が大山彦八綱毅だったのではないかと推定できるのは、その一女競子と西郷家から養子縁組した彦八綱昌が浪人だった可能性があることです。
『元帥西郷従道伝』の付録系図によれば、競子と綱昌が縁組した時期を天保6年6月19日としており、彦八綱毅が他界してのちです。このことは、おそらく綱毅で大山家は一時断絶した可能性を示唆しています。

『元帥公爵大山巌伝』の「大山氏系図」によれば、彦八綱毅の父綱道、祖父綱栄ともに一代小番と家格が御小姓組よりひとつ上で、小納戸役や喜界島代官、百引や串木野の地頭などを歴任するなど、もともとが御小姓組の家柄にしては相当の役職についています。
綱毅も広敷御用人と出世しています。

それに引き替え、綱毅養子の綱昌については同系図に「其の生涯を砲術研究に委ぬ」と書かれているのみで、仕官した形跡がありません。
つまり、無役か浪人だった可能性があります。綱毅が切腹したと考えれば、綱昌の不遇もよく理解できますが、いかがでしょうか?

また大山巌の伝記は分厚い大冊なのに、父綱昌のことを何も書いてないのも不自然です。書くのを憚ることがあったからだと考えたほうが理解しやすいですね。

大山家のことを長年調べておられて私より相当お詳しいはずですから、そのあたりはご存じではないのでしょうか。

なお、薩摩の過酷な武士道については、個人的な感想を述べただけで、他人にあれこれ言われる筋合いはありません。
2011/02/03(Thu) 13:35 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
切腹した奴どこの誰?
『薩陽過去帳』の凡例を見れば分かるが、これ自体が原本でなく実は後年に補修のために編集したものらしく、抜けがあることが指摘されており、天保5年で大山と足軽以外に童女がいるわけだが、実はこの童女の俗名が早川環の家来となっていのはご存知のこと。普通に考えれば早川の家来の娘とも考えられるが、凡例を考慮早川の家来と童女との間に抜けがある可能性はないものか。

薩摩藩は後年、江戸幕府を模範にして身分制を整えているので、少なくとも天保では制度上は江戸幕府に準じている可能性が高い。足軽は直臣卒族で直臣士分最下位は与力。但し薩摩藩の序列では足軽は最下位でなく、一門家家臣と諸家家臣(つまり陪臣)があるので足軽が士分に見えるのも納得ですが、宗門改めにおいて足軽以下(主家の特権により一門家と旧大身分の家臣)は年付けという差別があったはず。

綱毅が死亡したのが江戸だけに大山綱昌の家督相続が一年遅れたのは断絶としても切腹でなく一時的な無嗣断絶だったのでは?。でも無嗣断絶や切腹だと屋敷と添え地は没収のはずで、さほどというか全く出世していない大山綱昌が仮に名跡相続したとすると屋敷はともかく藩の拝領物の添地をもつというのもおかしい話。本当は鮫島家から養子に入った名越彦太夫やその孫の篠崎彦十郎みたく無高無屋敷からのスタートのはず(鹿児島城下絵図散歩など)

西郷隆盛の祖父の竜右衛門は兄の吉左衛門が江戸で切腹になったために村山家から戻されて西郷家の嗣子になったわけだが(つまり西郷隆盛が西郷とほぼ確定した事件。でなかったら村山だった)吉左衛門も『薩陽過去帳』にあるが、病死扱いでも切腹扱いでもない。

加えて最初の切腹が天保5年8月で間違いないとして2回目も天保5年8月かは疑問。桐野氏説でいくと2回目は1回目から20日かかったわけだが、大山を1回目とすると2回目の介錯人は9月。そもそも藤田殿は2回とも8月と言った?。

確かに門限破りで切腹は過酷で、幕府側用人の水野忠成の目付が門限破りで謹慎だったのを考えると確かに門限破りで切腹は過酷だが、あの慰安旅行事件を考えるとこの厳しさは分からなくもなかったりする。
2011/02/05(Sat) 03:59 | URL  | 大膳亮 #-[ 編集]
訂正
足軽以下には年付けという差別があったが、一門家と旧大身分の家臣には主家の特権で年付はないと書こうとしたら間違えた。

自身は東京に行けないので、見ることが出来ない大山彦八の享年を掲載していただいたことには本当に感謝しておりますし、おまけに改葬後の死亡年まで記載していただき、いたれりつくせりです。江戸で埋葬、国元の参り墓、一日ずれる。西郷吉左衛門、五郎左衛門だけでなく、大山も一日ずれているとは収穫です。

門限で切腹という厳しさは加賀藩などの大廊下級大名家では普通だったかもしれない(斉宣、斉興時代は大廊下)ので、門限違反処罰や薩摩藩の足軽の切腹の事例収集をお勧めいたします。

2011/02/05(Sat) 04:48 | URL  | 大膳亮 #-[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/02/05(Sat) 06:03 |   |  #[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/02/05(Sat) 14:38 |   |  #[ 編集]
大山彦八綱毅
ヤベエ、また訂正。西郷吉左衛門でなく覚左衛門だわ。吉左衛門は旧名。

因みに婿養子大山綱昌は確かに無役でした。但し、不遇だったようには思えません。(大山家にとってはある意味残念な人でした)。因みに天保段階で水引の板垣と知り合いだったりする(西郷マニアなら大抵知ってるあの金持ち)。
2011/02/07(Mon) 00:45 | URL  | 大膳亮 #-[ 編集]
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