歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
歴史読本に「信長――狂乱と冷徹の軍事カリスマ」を連載しています。
今回ですでに39回目。いま発売中です。

今回のテーマは「洛中馬揃えと左大臣推任」です。
ようやく天正9年(1581)にたどり着きました。

洛中馬揃えは、信長の朝廷圧迫のための軍事的示威という見方がありましたが、近年はそういう見方も下火になっています。何より安土での馬揃えの評判を知って所望したのが朝廷であり、実際の洛中馬揃えを見学した正親町天皇も誠仁親王も大変喜び、2回目をリクエストしているほどです。
信長も律儀で天皇や親王が喜ぶならと、リクエストに応じているのです。

これを軍事的示威とみるのはかなり無理がありますね。軍事的示威をするなら、何もこんなに手の込んだことをしなくても、もっと手っ取り早いやり方があるはずです。
また左大臣推任も、信長の馬揃えに対する嘉賞として朝廷が要請したものです。
でも、信長はもはや現役大臣に還任する気はなく、「金神」という陰陽道の凶悪神を口実にして婉曲的に断っています。
馬揃えはこの左大臣推任を引き出すための示威だという見方もありましたが、だったら、なぜ信長は任官しないのか不思議ですね。

あと、『兼見卿記』に記された誠仁親王と信長の「腹立」の一件。
「腹立」したのは誰なのか、従来の見方(といっても自分ですが)と違う解釈をしてみました。


残すはあと3回。
約2年分ですが、信長の最晩年だけに濃密な2年間で、出来事が多いです。
同10年だけでも甲州出陣、三職推任、本能寺の変などをすべて盛り込まないといけません。
さて、どうするか。
現在、第40回分を執筆中です。

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【2011/01/29 10:40】 | 信長
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こんにちわ
とらさん
決して反論とかではないのですが、この時期にある程度の両者が緊張関係にあったとした場合ですが、最初に朝廷がリクエストしたのも信長に対するお世辞というような解釈はどうでしょうか。

2回目のリクエストもそうでしょうし信長がそれに応じたのも一種の社交辞令そして1回目の盛大さはやはり権勢誇示の意味合いが強いようにも思います。

お世辞であると共に左大臣推任はやはり朝廷から見て自らの規定内に納めたかった、そして信長が受けなかったのもあくまで右大臣辞退のようにその規定外にいようとした、という解釈なのですが。
もちろん信長は義昭の副将軍辞退からずっと共通した意識があるように思います。

最初の仮定の緊張状態というのが問題になりますが、これも圧倒的な軍事力、そして1579には安土城完成、親王二条城移転など直接朝廷に関わる出来事も増えてきます。

軍事パレードとはさすがに申しませんが、最初にどうしてリクエストしたのか、から考えた場合に「喜んだ」というのをそのまま受け取るのも、二大実力者が並存する状況において少し疑問に思っておりました。

お江と連載とが丁度同じタイミング、恐れ多いのですがせっかくの機会かと・・失礼しました・・

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この記事へのコメント
こんにちわ
決して反論とかではないのですが、この時期にある程度の両者が緊張関係にあったとした場合ですが、最初に朝廷がリクエストしたのも信長に対するお世辞というような解釈はどうでしょうか。

2回目のリクエストもそうでしょうし信長がそれに応じたのも一種の社交辞令そして1回目の盛大さはやはり権勢誇示の意味合いが強いようにも思います。

お世辞であると共に左大臣推任はやはり朝廷から見て自らの規定内に納めたかった、そして信長が受けなかったのもあくまで右大臣辞退のようにその規定外にいようとした、という解釈なのですが。
もちろん信長は義昭の副将軍辞退からずっと共通した意識があるように思います。

最初の仮定の緊張状態というのが問題になりますが、これも圧倒的な軍事力、そして1579には安土城完成、親王二条城移転など直接朝廷に関わる出来事も増えてきます。

軍事パレードとはさすがに申しませんが、最初にどうしてリクエストしたのか、から考えた場合に「喜んだ」というのをそのまま受け取るのも、二大実力者が並存する状況において少し疑問に思っておりました。

お江と連載とが丁度同じタイミング、恐れ多いのですがせっかくの機会かと・・失礼しました・・
2011/01/31(Mon) 07:19 | URL  | とらさん #-[ 編集]
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