歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
大河ドラマ「江」第4回「本能寺へ」

今度は馬揃えを見に行ったのですね。

信長の天正9年(1581)洛中馬揃えを正面から、かなり手間暇かけて復元してみせたのは、数ある大河ドラマで初めてだと思います。

その意欲は買いますが、予算の関係もあるのでしょうか、ちょっと静的、悪くいえばのんびりでしたね。
太田牛一『信長記』巻14の馬揃えのくだりを読むと、あんなのどかな感じではありません。
その前に、安土でも馬揃えをやっていますが、かなり激しいものです。左義長(どんど焼き)の爆竹がはじけるなかを馬で乗り回すという勇壮なものでした。

洛中ではさすがにそこまで激しくなかったと思いますが、南北約500メートル、東西約150メートル(諸説あり)の広大な馬場を、15騎ずつが単位になって、次々と入れ違いに駆け回っています。引用すると、

「初めは一与(一組)に十五騎づつと仰せ出だされ候へども、ひろき御馬場にて、三与四くみづつ一手になり、入りちがへ/\透き間なく、馬に行き当て候はぬ様に、埒(らち、馬の柵)を右から左へ乗りまはし、辰の刻より未の刻までめさせられ」云々

最初は15騎ずつだったのが、数が多いので、45騎~60騎が一緒になって馬場を駆けめぐっています。あまりに騎馬の数が多いので、ぶつからないようにするのが大変だったとも書かれています。馬揃えをした時間も午前8時から午後2時までの6時間という長きにわたっていますね。

なお、信長が椅子を引かせ、座ってみせました。
これはイエズス会関係の史料に記述があります。イエズス会のアジアの総責任者であるヴァリニャーノ(東インド巡察師)がちょうど来日しており、あの椅子はヴァリニャーノからの信長へのプレゼントです。
史料には「ビロード製の椅子」とあります。ドラマでは、椅子の表にビロード状のものが付いていました。
私はソファーのような感じかなと思っていましたが、どうなんでしょうね?
ドラマでは信長が椅子に座って見せましたが、史料には高く掲げてみせたとあります。

あと、馬揃えの目的・狙いについて、江が恐れ多いというほど信長に反発していましたね。
はっきりとは描いていなかったですけど、何となく、信長が朝廷を威嚇する狙いを込めているように描いていました。相変わらずですねえ。

この馬揃えは、安土でのそれの評判を聞いた正親町天皇がじきじきに見たいと京都所司代の村井貞勝を通じて依頼してきたので、信長がそのリクエストにこたえて挙行されました。信長が無理やり強行したのではないのです。宮廷女官の日記『御湯殿の上の日記』には次のように書かれています(仮名が多いので漢字を増やしてます)。

「都にて左義長あらば、御覧まいられたき由、信長に申し候へと御使にて仰せられ候へば」云々

主語がないですが、宮廷女官が書いているのと、「御覧」「仰せ」といった敬語から、主語は天皇だとわかります。

信長の馬揃えが朝廷に対する軍事的な示威だという見方はまだ根強いですが、違うと思いますね。
また洛中馬揃えはこれが初めてではありません。
元亀元年(1570)、信長が朝倉攻めをするとき、京都に諸大名を集めましたが、そのとき、徳川家康が洛中で馬揃えを行い、多くの群集がつめかけて喜んだと『言継卿記』にあります。
家康も天皇か将軍義昭を軍事的に脅したということになるのでしょうか?

このような先例を見ると、馬揃えは朝廷はじめ京都の民衆を喜ばせる一大イベント以上ではないと思います。

たまたま、私が歴史読本誌に連載している「信長」の先月末発売号(3月号)でちょうど馬揃えのことを書いて居ます。興味のある方はお読み下さい。

次回はいよいよ本能寺の変ですね。

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【2011/02/02 08:38】 |
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とらさん
こんにちわ。
馬揃えは期待していましたが確かに小規模?でしたね。群集も何万人ですとか勝家も相当な大人数だったとは思いましたが、やはり女優さんの衣装とかに予算が・・
ただ信長の背中に梅の花が刺してあったので、細かいところには気配りしてあるのだなとやはり予算が気になったり・・

家康の馬揃えですが、戦に行く前というのはそれなりの緊張感、絶対に勝つとは限りませんし殺し合いに行くわけですからね、そういった状況の元でのパレードですので、戦の予定があるとは知らない?群集が喜ぶのはともかく、行ってる方にはそんなに余裕があったのでしょうかな、とも少し思います。つまり見る方と行動する方とはまた違った思惑があったのかな、とか
決して軍事的な威嚇という意味があったとは思いませんが、少なくとも「もし無事に勝利して帰ってきた時は」京に名を示すような武将である、というような顕示ぐらいの思惑はあったのかな、とか。
あくまで私見ですのですいませんです・・

ところで、この先家康の京入りは天正十年のあの堺遊覧後、まで無かったのですかね。
大河ですと妙に安土までは気楽に?来てる様な感じがしてしまって・・

家康の馬揃え
桐野
とらさん

家康の馬揃えは、仰せのような三河武士の存在感を示すという狙いはあったでしょうね。
もっとも、家康が朝廷を威嚇する理由はないし、将軍義昭も信長と蜜月時代ですから、これまた理由がありません。
いずれにせよ、誰かを脅す軍事的示威とは考えにくいですね。
麾下の綱紀維持、士気高揚あたりが目的でしょう。


とらさん
お返事ありがとうございます。
細かいですけど、姉川の時点では義昭ー信長は少し複雑になってませんかね。
殿中御掟の後義昭がそれを無視するように御内書連発、そして十月に不仲ー天皇仲介、さらに翌年追加七条、金ヶ崎とこのような時系列でしたかね。
信長というよりは義昭の態度に大きな変化があった時期で、このあたりは「御父」あたりの蜜月時代とは正反対の関係、とすら思えてしまいます。

もちろんこれが家康の馬揃えに与える影響は個別に検証されるべきでしょうが、もし信長ー義昭不仲、が背景にあるとしたなら、それもまた考慮に入れてもいいのでは、とも思えてしまって・・
また信長の馬揃えの背景もですが・・

決して反論とか論争とか言うのではなく、以前から少しこのあたりは不明に思っていた点で、雑誌の連載もずっと楽しみに拝見しておりましたので。失礼しました。

石清水行幸
Tm.
とらさん、横レスにて失礼します。Tm.と申します。
そして桐野先生にはお久しぶりになります。

ご指摘の点は以前から自分も事あるごとに述べさせて頂いているのですが、信長と朝廷の関係について、両者の融和・協調路線を主張される方に言えることとして、本能寺の変における黒幕説に通じることを強く否定する余りか、殊更、両者の対立を過小評価というか矮小化し過ぎているのではないかと思っています(義昭との関係においても然り)。

歴読3月号の小論においても、今回、桐野先生は、馬揃えに対する天皇方の反響として『信長記』のそれを紹介されていますが、如何せん信長贔屓(時としてですが)の記述でもあり、特に2回目のそれについては、当の天皇方の記録である『御湯殿の上の日記』の記述は、

   むまそろへひんかしにてあり

と感想もなく素っ気ないものであることは、かつて桐野先生も指摘されていますね。
何より2回目のそれは、1回目とは打って変って軍事色の濃いものでした。

ある意味それは本来の馬揃え=左義長に近いものですが、天皇方がリクエストしたのは、むしろ1回目の仮装行列としての面であったと思います。ですから、『御湯殿』のそれも当然のことと言えるのではないでしょか。
果たして信長は、天皇方のそうした要望を理解していなかったのでしょうかね。

それを単に信長と天皇方との認識の違いとだけで片付けて良いものでしょうか。
そのことが、正に『御湯殿』の「むまそろへひんかしにてあり」という記述に表されており、過去に御所の西で行われたというそれに対比されているのではないかと思われます。



とらさん
>Tm.さま
お返事ありがとうございます。
公武関係において、史料から判明することは先生の述べられているように「喜ばす以上のものではない」ということでしょうね。
ただ自分のような立場のシロウトさん?ですと、もう少しふみこんで「人間学としての歴史」という面を強調したく思います。
これは「過去に学び未来に活かす」という学問の目的にもあてはまるでしょうし。

また、黒幕説の否定と共に極論としてのトンデモ説を否定せんがための「史料主義」が重視されているようにも感じます。

あくまで例えですが、同僚の娘さんがピアノ習ってれば「聞きたい」というのがエチケットでしょうし聞いたら「上手」「また聞かせてね」というのもエチケットでしょう。
そしてこれは、それ以上のもの、ではありません。
同僚とはライバル関係かもしれませんし、友好的である、と断定できるものではないでしょう。

公武関係においてもそうで、実のところ、はもう少し幅広く検証したほうがいいのでは、と思うわけです。

自分は対立とは思いませんが朝廷から見て信長は、決して理解の範疇にあるもの、と言い切るのも難しいと思いますし、そこにはなんらかの緊張状態があったのではないか、とような認識ではいます。
ここから先は事実を基にした推論になってしまうのですけどね。
失礼しました。

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この記事へのコメント
こんにちわ。
馬揃えは期待していましたが確かに小規模?でしたね。群集も何万人ですとか勝家も相当な大人数だったとは思いましたが、やはり女優さんの衣装とかに予算が・・
ただ信長の背中に梅の花が刺してあったので、細かいところには気配りしてあるのだなとやはり予算が気になったり・・

家康の馬揃えですが、戦に行く前というのはそれなりの緊張感、絶対に勝つとは限りませんし殺し合いに行くわけですからね、そういった状況の元でのパレードですので、戦の予定があるとは知らない?群集が喜ぶのはともかく、行ってる方にはそんなに余裕があったのでしょうかな、とも少し思います。つまり見る方と行動する方とはまた違った思惑があったのかな、とか
決して軍事的な威嚇という意味があったとは思いませんが、少なくとも「もし無事に勝利して帰ってきた時は」京に名を示すような武将である、というような顕示ぐらいの思惑はあったのかな、とか。
あくまで私見ですのですいませんです・・

ところで、この先家康の京入りは天正十年のあの堺遊覧後、まで無かったのですかね。
大河ですと妙に安土までは気楽に?来てる様な感じがしてしまって・・
2011/02/03(Thu) 13:55 | URL  | とらさん #-[ 編集]
家康の馬揃え
とらさん

家康の馬揃えは、仰せのような三河武士の存在感を示すという狙いはあったでしょうね。
もっとも、家康が朝廷を威嚇する理由はないし、将軍義昭も信長と蜜月時代ですから、これまた理由がありません。
いずれにせよ、誰かを脅す軍事的示威とは考えにくいですね。
麾下の綱紀維持、士気高揚あたりが目的でしょう。
2011/02/03(Thu) 21:27 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
お返事ありがとうございます。
細かいですけど、姉川の時点では義昭ー信長は少し複雑になってませんかね。
殿中御掟の後義昭がそれを無視するように御内書連発、そして十月に不仲ー天皇仲介、さらに翌年追加七条、金ヶ崎とこのような時系列でしたかね。
信長というよりは義昭の態度に大きな変化があった時期で、このあたりは「御父」あたりの蜜月時代とは正反対の関係、とすら思えてしまいます。

もちろんこれが家康の馬揃えに与える影響は個別に検証されるべきでしょうが、もし信長ー義昭不仲、が背景にあるとしたなら、それもまた考慮に入れてもいいのでは、とも思えてしまって・・
また信長の馬揃えの背景もですが・・

決して反論とか論争とか言うのではなく、以前から少しこのあたりは不明に思っていた点で、雑誌の連載もずっと楽しみに拝見しておりましたので。失礼しました。
2011/02/04(Fri) 22:13 | URL  | とらさん #-[ 編集]
石清水行幸
とらさん、横レスにて失礼します。Tm.と申します。
そして桐野先生にはお久しぶりになります。

ご指摘の点は以前から自分も事あるごとに述べさせて頂いているのですが、信長と朝廷の関係について、両者の融和・協調路線を主張される方に言えることとして、本能寺の変における黒幕説に通じることを強く否定する余りか、殊更、両者の対立を過小評価というか矮小化し過ぎているのではないかと思っています(義昭との関係においても然り)。

歴読3月号の小論においても、今回、桐野先生は、馬揃えに対する天皇方の反響として『信長記』のそれを紹介されていますが、如何せん信長贔屓(時としてですが)の記述でもあり、特に2回目のそれについては、当の天皇方の記録である『御湯殿の上の日記』の記述は、

   むまそろへひんかしにてあり

と感想もなく素っ気ないものであることは、かつて桐野先生も指摘されていますね。
何より2回目のそれは、1回目とは打って変って軍事色の濃いものでした。

ある意味それは本来の馬揃え=左義長に近いものですが、天皇方がリクエストしたのは、むしろ1回目の仮装行列としての面であったと思います。ですから、『御湯殿』のそれも当然のことと言えるのではないでしょか。
果たして信長は、天皇方のそうした要望を理解していなかったのでしょうかね。

それを単に信長と天皇方との認識の違いとだけで片付けて良いものでしょうか。
そのことが、正に『御湯殿』の「むまそろへひんかしにてあり」という記述に表されており、過去に御所の西で行われたというそれに対比されているのではないかと思われます。
2011/02/05(Sat) 17:49 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
>Tm.さま
お返事ありがとうございます。
公武関係において、史料から判明することは先生の述べられているように「喜ばす以上のものではない」ということでしょうね。
ただ自分のような立場のシロウトさん?ですと、もう少しふみこんで「人間学としての歴史」という面を強調したく思います。
これは「過去に学び未来に活かす」という学問の目的にもあてはまるでしょうし。

また、黒幕説の否定と共に極論としてのトンデモ説を否定せんがための「史料主義」が重視されているようにも感じます。

あくまで例えですが、同僚の娘さんがピアノ習ってれば「聞きたい」というのがエチケットでしょうし聞いたら「上手」「また聞かせてね」というのもエチケットでしょう。
そしてこれは、それ以上のもの、ではありません。
同僚とはライバル関係かもしれませんし、友好的である、と断定できるものではないでしょう。

公武関係においてもそうで、実のところ、はもう少し幅広く検証したほうがいいのでは、と思うわけです。

自分は対立とは思いませんが朝廷から見て信長は、決して理解の範疇にあるもの、と言い切るのも難しいと思いますし、そこにはなんらかの緊張状態があったのではないか、とような認識ではいます。
ここから先は事実を基にした推論になってしまうのですけどね。
失礼しました。
2011/02/06(Sun) 09:20 | URL  | とらさん #-[ 編集]
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2011/02/02(Wed) 12:06:46 |  shugoroの日記