歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第181回
―戦国島津氏の終焉を象徴―

連載が昨日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

当ブログでも、島津義久の400年目の命日についてはすでに書きましたが、連載コラムでも書いてみました。
鹿児島ではまったく話題になっていません。島津家では内々に法事があったかもしれませんが。
これが8年後の義弘の400年忌だったら、鹿児島では盛大な行事が行われるのでしょうね。
この差は一体何なのでしょうか?

今回の記事では、義久の歴史的評価について、少し私見を述べました。
紙数の関係で詳しく展開できませんでしたが、補足すれば、義久はさほど領土的野心がなかったことも付け加えておきたいと思います。
戦国大名ですから、平和主義者だというつもりはまったくありませんが、九州制覇についても、義久は消極的で、むしろ積極的だったのは弟の義弘と家久ですね。義久は三州統一あたりが島津氏の分限で、それ以上は望んでいなかったと思います。それは豊臣政権と正面対決することのリスクをよく認識していたからともいえます。

また、琉球侵攻に関しても、強硬派の婿養子家久の奄美侵略計画をいったんは潰しました。しかし、家久が徳川幕府を背景にゴリ押しすると、それを制止しきれませんでした。

琉球を含めた周辺諸国とはあまり摩擦を起こさないで、なるべく善隣関係を築きたいという義久の外交姿勢は個人的には好感がもてます。しかし、統一権力の前には太刀打ちできませんでした。
それを義久の敗北と見るべきかもしれませんが、それだけでは評しきれない余地があると思っています。

余談ですが、義久の辞世、どう解釈したらいいのか。
記事には開き直っているのではと憶測しましたが、最近、三国志の原稿を書いたこともあり、ふと思いつきました。
米と水を飲み尽くして天に昇るといっています。それって、諸葛孔明の代名詞、伏竜とか臥龍では?
龍は土中にあって水を得て天に昇るといいます。つまり、義久の出家名=龍伯の一字と関係があるのか、また同時に自分が天に昇るという意味なんでしょうかね?

次回は義久の死の波紋として、家督候補に挙げられた垂水家の忠仍(のち信久)のことを書きたいと思います。思えば、この人も義久の血を引いた外孫だったことが不運だったかもしれません。
平田増宗・宗親兄弟も書きたいですけどね。

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【2011/02/08 00:23】 | さつま人国誌
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余り語られないのはなぜ?
nick
当地、霧島市国分でも
娘の御上様(持明院)にしてもしかりです。
どうも好く判りません。


なぜか?
桐野
私もよくわかりませんが、江戸時代以降の島津家が、義久の系統でないことが一番の理由じゃないのかという気がしています。

庄内の乱
nick
おはようございます。
早速のご回答ありがとうございます。
確かに、その線が濃厚でしょうか。
「庄内の乱」以降、伊集院氏にしても
さっぱり掴めません。。

今日は、これから、志布志市安楽・山宮神社の春祭り2日目の見物です。
バスで行きますので、全部は見れませんが


前日11日の「潮嶽神社」の春祭りの
「神舞」も
霧島六所権現信仰の台詞が多数登場し
堪能しました。
お昼のシシ鍋も美味しかった。

南国は、新燃岳や桜島の降灰、
それに黄砂、、、そして賑やかな春祭りの
オンパレードです。


ばんない
こんばんは。
感想が今頃になってしまいました…。

Googleで島津義久の400回忌を検索してみたら、意外にも4つもの(!)ブログでネタにされていました。そのうちの1つがこのブログでもう一つが拙ブログだったりするのですが(苦笑)。
4つの内のお一方は、別エントリのコメントにお越しになられていましたね。

>余談ですが、義久の辞世、どう解釈したらいいのか。
義久が亡くなるときにはかなり心残りがあったのではと推察されますが、辞世の一首はえらくすがすがしいこのギャップ、どう解釈したらいいんでしょう?
ところで義久は元々の出家名は「龍伯」ではなかったですよね。何かのきっかけで変えた物と思っているのですが、桐野さんは何かご存じですか。

>垂水家の忠仍(のち信久)
この人の名前も史料によっては「久信」だったりします。単なる記入の間違いなのか、それともある時期から変えた物なのでしょうか。

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コメント
この記事へのコメント
余り語られないのはなぜ?
当地、霧島市国分でも
娘の御上様(持明院)にしてもしかりです。
どうも好く判りません。
2011/02/08(Tue) 19:22 | URL  | nick #EBUSheBA[ 編集]
なぜか?
私もよくわかりませんが、江戸時代以降の島津家が、義久の系統でないことが一番の理由じゃないのかという気がしています。
2011/02/09(Wed) 20:24 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
庄内の乱
おはようございます。
早速のご回答ありがとうございます。
確かに、その線が濃厚でしょうか。
「庄内の乱」以降、伊集院氏にしても
さっぱり掴めません。。

今日は、これから、志布志市安楽・山宮神社の春祭り2日目の見物です。
バスで行きますので、全部は見れませんが


前日11日の「潮嶽神社」の春祭りの
「神舞」も
霧島六所権現信仰の台詞が多数登場し
堪能しました。
お昼のシシ鍋も美味しかった。

南国は、新燃岳や桜島の降灰、
それに黄砂、、、そして賑やかな春祭りの
オンパレードです。
2011/02/13(Sun) 09:22 | URL  | nick #EBUSheBA[ 編集]
こんばんは。
感想が今頃になってしまいました…。

Googleで島津義久の400回忌を検索してみたら、意外にも4つもの(!)ブログでネタにされていました。そのうちの1つがこのブログでもう一つが拙ブログだったりするのですが(苦笑)。
4つの内のお一方は、別エントリのコメントにお越しになられていましたね。

>余談ですが、義久の辞世、どう解釈したらいいのか。
義久が亡くなるときにはかなり心残りがあったのではと推察されますが、辞世の一首はえらくすがすがしいこのギャップ、どう解釈したらいいんでしょう?
ところで義久は元々の出家名は「龍伯」ではなかったですよね。何かのきっかけで変えた物と思っているのですが、桐野さんは何かご存じですか。

>垂水家の忠仍(のち信久)
この人の名前も史料によっては「久信」だったりします。単なる記入の間違いなのか、それともある時期から変えた物なのでしょうか。
2011/02/14(Mon) 01:17 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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