歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

南日本新聞連載「さつま人国誌」第183回
―屈折と勇猛、毒殺される―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きで、垂水家の島津信久(旧名:忠仍)が家督争いに敗れたのち、どのような生涯を送ったかを書きました。サブタイトルでもおわかりのように、けっこう衝撃的な結末です。

信久は義久の家督を継げず、家久に屈伏せざるをえなかった悲劇の人、不運の人というイメージがありますが、実際はライバル家久とよく似た「暴君」タイプだったようで皮肉です。

分量の関係で書ききれなかったことがありましたので、ついでに触れておきます。

まず、信久の名乗りです。
だいぶ前に信久のことを連載で少し書いたとき、読者から「久信」ではないかという問い合わせが何件か寄せられました。それには同紙文化部を通じて回答していただきましたが、もう少し詳しく書いておきます。というのは、諱の二文字が逆転しただけですが、意外と重要な問題を含んでいると思うからです。

一般には「久信」名乗りのほうが優勢だと思います。自治体史にもそのように書かれているようですし、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺』の校訂者も文書や記録史料に「信久」とあっても、わざわざ「久信」と傍注を付しております。
そして島津庶家の公式系図集である「新編島津氏世録支流系図」のひとつで、垂水家の「忠将一流」にも「久信」と表記されています。

その一方で、「信久」と記されたものもあります。
「薩陽武鑑」所載の垂水家系図や、垂水家の庶家・新城家の末裔所蔵の「末川家文書 家譜」などがそうです。

いずれも後世の編纂史料なので、どちらが妥当か即断できません。
しかし、確実なことはいえます。それは一次史料での本人の名乗りです。「新城島津家文書」には信久の書状が何点か収録されていますが、いずれも「信久」と署名しています(37~40号など)。その後改名した形跡もないので、「信久」が正しいといえます。

それではなぜ、逆に読む「久信」名乗りが優勢なのかですが、これには歴史的な背景があるように思います。
島津氏初代はよく知られているように忠久です。その始祖にあやかって、「忠」と「久」の二字は島津家の通字、島津家でいうところの「御家之字」になりました。

この二字が時代が下るにつれて、島津氏諸分家で無秩序に氾濫するようになりました。
それを見かねた島津本宗家=藩庁記録所が使用制限・統制に乗り出したのが江戸時代中期の正徳3年(1713)前後です。このとき、実名だけでなく、家紋・島津名字・通称・官名も含めて大がかりな規制措置がとられました。
「新編島津氏世録支流系図」はその所産にほかなりません。

この規制については、林匡氏「島津氏『支流系図』に関する考察―名字・実名字規制及び家格と記録所を中心に―」(『黎明館調査研究報告』19集、2006年)によって明らかにされています。

たとえば、垂水島津家を例にとると、一門家・本宗家二男家であることから、二男まで「久」字許可。垂水家の二男家の新城家は「嫡子」まで「久」字許可、庶家はいずれも「将」字(初代忠将にちなむ)を使用すると決められました。

それで、上記林論文では触れられていないと思いますが、「御家之字」の「久」を実名の上に付けるか、下に付けるかの規制は具体的ではありません。
これは成文化せずとも暗黙の了解だったのでしょうか。つまり、本宗家は忠久以来、貞久、貴久、義久、家久、光久などと実名の下に「久」を用いており、上に付ける事例はまずないと思われます。

ところが、中世後期から江戸時代初期までは、分家・庶家でもけっこう「久」を下に付ける事例が多いです。たとえば、薩州家の実久、宮之城家初代の尚久、佐土原家の家久(中務大輔)、豊州家の朝久と枚挙にいとまがありません。
この「久」を下に付ける慣習もいつ頃からか不明ですが規制されるようになり、島津名字の家では本宗家以外はまず使用例がなくなると思います。

そこで、「信久」か「久信」かですが、おそらく正徳3年あたりを境目にして、「信久」名乗りは本宗家の規制に抵触し、しかも、信久が家久と家督争いをした人物であることから、藩庁側の圧力か、垂水家側の自主規制か、どちらかで「久信」と表記されるようになったというのが真相に近いのではないかと思います。

「信久」と「久信」が混在している理由・背景はだいたいご理解いただけるのではないでしょうか。

もうひとつは、信久の官名「相模守」です。
相模守家=相州家といえば、もともと伊作家に生まれた日新斎忠良の生母常磐が本宗家に近い相州家2代運久(よきひさ)に再嫁したことにより、日新斎が本宗家に近い相州家となって地位が上昇し、その嫡男貴久の15代守護職相続をもたらしました。
貴久以来の本宗家にとって、相州家、つまり相模守は縁起のよい大事な名乗りです。
しかし、貴久が本宗家を相続したために、相州家は本宗家に吸収される形になり、なくなってしまいました。
その後、相模守を名乗るのは信久だけです。

それを信久がいつから名乗り出したのかわかりませんが、信久は垂水家当主であると同時に、相州家を再興したのでしょうか? もっとも、信久以降は相模守名乗りは消えてしまいます。
この件については、現・新城島津家の方からご教示いただきました。有難うございます。

ちょっと横道にそれすぎましたので、この辺で。

次回はまた幕末に戻ろうかと思っているところです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

スポンサーサイト

【2011/02/28 14:26】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |

執念の男・忠恒
市川
今回の信久関連の話は興味深く拝読させていただきました。忠恒と家督問題を起こした人物の最期……仰る通り衝撃的ですね。
事件の真相は不明なのでしょうが、犯人が忠恒(もしくは周辺)ならば死期が迫る中での計画であり、不適切かもしれませんがまさに執念です。

忠恒の妥協しない性格と危険な「粛清」を繰り返して結果的に成功した強運。晩年の義久公や信久には申し訳ありませんが、やはり相手が悪すぎたと思います。

最後に、信久の猛々しさを示す話の件で息子の久章が出てきますが、彼も彼で……。

次回を楽しみにしております。

「久信」の件
ばんない
こんばんは。

「信久」と「久信」の件、具体的な資料を明示しての説明でよく分かりました。ありがとうございました。生存中は「信久」を名乗っていたとみてよさそうですね。

また信久が「相模守」を名乗っていた件、実は私も以前から気になっていました。

(2011/03/02追記)
>信久は義久の家督を継げず、家久に屈伏せざるをえなかった悲劇の人、不運の人というイメージがありますが、実際はライバル家久とよく似た「暴君」タイプだったようで皮肉です。
どうもこの世代、「暴君」タイプが多いみたいですね。北郷忠能も家老を排斥したことがあったような。しかも島津忠恒がそれをたしなめる書状を送っていたというのがなんとも。

真相
桐野
市川さん

垂水家信久の毒殺の真相はよくわかりませんね。
市川さんのご推測は私も一応考えてはおりますが、何せ、史料不足というか、事件の性質上、まず史料が残りませんからね。

あと、垂水家の家中抗争も背景にあるかもしれませんね。

相模守
桐野
ばんないさん

信久の相模守名乗りは事情がよくわかりませんね。
せめて、名乗り始めた時期でもわかれば、手がかりになるかもしれませんが。

個人的には、慶長7年(1602)、義久が正八幡宮の鬮引きで忠恒(家久)を家督に決めたのに伴い、不満をもつ信久への慰撫策の一環として、垂水家よりも、本家と一体の相州家の当主に擬して、家督候補の「補欠」と位置づけたのでは、と妄想したりしております。
義久隠居領6万石とセットかもとか。


コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
執念の男・忠恒
今回の信久関連の話は興味深く拝読させていただきました。忠恒と家督問題を起こした人物の最期……仰る通り衝撃的ですね。
事件の真相は不明なのでしょうが、犯人が忠恒(もしくは周辺)ならば死期が迫る中での計画であり、不適切かもしれませんがまさに執念です。

忠恒の妥協しない性格と危険な「粛清」を繰り返して結果的に成功した強運。晩年の義久公や信久には申し訳ありませんが、やはり相手が悪すぎたと思います。

最後に、信久の猛々しさを示す話の件で息子の久章が出てきますが、彼も彼で……。

次回を楽しみにしております。
2011/02/28(Mon) 18:33 | URL  | 市川 #-[ 編集]
「久信」の件
こんばんは。

「信久」と「久信」の件、具体的な資料を明示しての説明でよく分かりました。ありがとうございました。生存中は「信久」を名乗っていたとみてよさそうですね。

また信久が「相模守」を名乗っていた件、実は私も以前から気になっていました。

(2011/03/02追記)
>信久は義久の家督を継げず、家久に屈伏せざるをえなかった悲劇の人、不運の人というイメージがありますが、実際はライバル家久とよく似た「暴君」タイプだったようで皮肉です。
どうもこの世代、「暴君」タイプが多いみたいですね。北郷忠能も家老を排斥したことがあったような。しかも島津忠恒がそれをたしなめる書状を送っていたというのがなんとも。
2011/03/01(Tue) 01:11 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
真相
市川さん

垂水家信久の毒殺の真相はよくわかりませんね。
市川さんのご推測は私も一応考えてはおりますが、何せ、史料不足というか、事件の性質上、まず史料が残りませんからね。

あと、垂水家の家中抗争も背景にあるかもしれませんね。
2011/03/05(Sat) 00:20 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
相模守
ばんないさん

信久の相模守名乗りは事情がよくわかりませんね。
せめて、名乗り始めた時期でもわかれば、手がかりになるかもしれませんが。

個人的には、慶長7年(1602)、義久が正八幡宮の鬮引きで忠恒(家久)を家督に決めたのに伴い、不満をもつ信久への慰撫策の一環として、垂水家よりも、本家と一体の相州家の当主に擬して、家督候補の「補欠」と位置づけたのでは、と妄想したりしております。
義久隠居領6万石とセットかもとか。
2011/03/05(Sat) 00:24 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。