歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

南日本新聞連載「さつま人国誌」第186回
―西南戦争、西郷との惜別―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

ウィリス特集の最後です。
西南戦争の勃発により、ウィリスは鹿児島を去ることになりました。
当初4年契約だったはずですが、8年近くいたということは一度契約延長されたのでしょうね。

今回書きたかったことは、ウィリス・サトウと西郷隆盛の会見です。
2人が西郷と会ったのもこれが最期になりました。
サトウの『一外交官の見た明治維新』には、何度も西郷が登場して印象的、好意的に描かれています。ウィリスも西郷には好感を抱いていたはずです。

しかし、この会見は私学校党の監視下で行われたため、大した話はできなかったようです。

記事でも書いたとおり、護衛と称する私学校党の連中は、戸外で待てという西郷の命にも従わず、邸内に乗り込んできています。彼らが独断でそんなことができるはずがなく、明らかに私学校党首脳部の命令です。彼らは西郷がウィリスとサトウから説得されて、挙兵から離脱するかもしれないことさえ恐れていたのでしょう。

この一件は、西南戦争を引き起こした主体がどこにあったかも示しています。決して西郷ではなく、私学校党の主戦派勢力でしょう。彼らにとっては、西郷も「神輿」だったわけですね。

西郷がそれでも挙兵に賛同し出征したのは、反対すれば殺害されたか幽閉されるかどうかは不明ながら、自分の政治力を失うことになるのがわかっていたからでしょう。
鹿児島という辺境の地にありながら、西郷が東京の大久保政府と対峙できたのは、最強の鹿児島士族が自分を支持してくれたればこそです。その彼らから見放されると、西郷も一個の好々爺にすぎません。
西郷が私学校党の挙兵に反対できなかったのも、みずからの政治基盤の喪失を恐れるゆえだったという見方もできるでしょう。

もうひとつは、西郷がウィリスに依頼した武器調達の一件です。
紙数の関係で記事には書けなかったことですが、西郷はその密書を私学校党幹部にも秘密に出しているようです。
ウィリス文書のなかにあるので、ウィリスの手許に届いたのは確実です。
しかし、おそらく西郷が宮崎あたりにいるときに出したものですから、この密書もだいぶ時間が経ってから届いて、ほとんど出し遅れの証文になっていて、ウィリスもどうしようもなかったかもしれないですね。

この密書の中身で注目されるのは、やはり奄美の黒糖売却のことでしょう。
西郷は無役ですし、鹿児島県庁の役人でもありません。いくら実力者だとはいえ、西郷は自分の一存で奄美の黒糖を売却できるのかという疑問がつきまといます。

明治10年(1877)段階、薩摩藩がなくなって鹿児島県に移行してから、奄美の黒糖の取り扱いについては、鹿児島士族による商社が独占していたような、それもはなはだ不評の(不勉強で不確かです)。
そうだとすれば、本来は民間資本の管理下にある黒糖ではないかと思われます。西郷はその商社の役員でもないはず。
にもかかわらず、なぜ西郷が大量の黒糖を自分の一存で売却できると思っているのか?

もしそれが可能な体制にあったとすれば、西郷による奄美黒糖支配が推定されるわけですが、それは明治下野期の西郷評価にも関わってくるでしょうし、西郷の上からの奄美観も示していますね。

従来、征韓論の下野から西南戦争に至るまでの4年間は、西郷をいただく鹿児島の不平士族と大久保政府との対決という構図でしか語られてこなかったわけですが、ウィリス宛て書簡は明治6年以降の鹿児島での西郷の動向の一端を示しているわけで、意外と重要な論点だと思いますが、ほとんど触れられたことがありませんし、他の史料との突き合わせなどもなされていないのが現状です。

あと、西郷の意向を代弁した木場貞政って誰でしょうか?
西郷の奄美流罪以来の友人で、大坂留守居役を長くつとめた木場伝内の縁者でしょうかね?

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

スポンサーサイト

【2011/03/22 15:39】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。