歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
雑誌『歴史群像』6月号(5月8日発売)に表題の記事を書きました。

第一特集で、17頁もある長い記事です。

始祖忠久からの島津氏の興りから、三州統一となる高城合戦までを取り上げています。

詳しくは同誌サイトのここをご覧下さい。

続編も書く予定です。

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【2013/05/10 08:23】 | 戦国島津
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先日、帰鹿した折、黎明館に所用で立ち寄った。
そのとき、喫茶室に置いてあった刊行物を数点購入した。
そのなかに地元研究者たちによる『鹿児島地域史研究』を数号分見つけて購入した。
とくに近年の号はもっていなかったので、購入できてよかった。

いくつか興味深い論文が収録されていたが、とくに、

岩川拓夫「中近世移行期における島津氏の京都外交―道正庵と南九州―」 『鹿児島地域史研究』5号 2009年

に注目した。
岩川さんは尚古集成館の学芸員である。

以前、島津の退き口の史料を見ていたとき、副題にある道正庵という寺院・僧侶に気づき、その寺院もしくは彼(道正庵宗固、同休甫)が退き口で島津義弘とは別行動をとって京都に逃げ込んだ連中と何らかの関わりがありそうだというところまではわかったのだが、道正庵のことがよくわからず、時間の関係でそれ以上調べなかった。

岩川さんはそれをかなり詳しく追究している。しかも、退き口時期だけでなく、永禄~慶長期までを調べ、道正庵が島津氏の京都外交の拠点であることを明らかにし、さらに京都と南九州の都鄙交流まで展望していたので、大変勉強になった。
とくに、島津氏による信長への鷹献上が元亀2年(1571)まで遡るという指摘は驚いた。もっとも、この鷹献上は将軍義昭に対するもので、義昭から信長に下賜されたものかもしれない。

ほかにも、天正14年の豊臣政権と島津氏の交渉や、宗固が島津義久の政治顧問でもあったこと、関ヶ原合戦後の島津と徳川の和平交渉などにも宗固・休甫が深く関わっていたことがわかった。

これほどの重要な役割を果たした道正庵について何も知らなかったことは不覚だった。
岩川さんの研究をさらに熟読して勉強してみたい。

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【2012/03/10 12:30】 | 戦国島津
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道正庵
ばんない
こんばんは。

興味深い論文のご紹介ありがとうございます。取り寄せようかな、と思って国立国会図書館のカードID入力したら、使わないまま期限切れ(爆)他にも気になる論文があるので、めんどくさい再々発行をするかどうか検討中です(汗)。連絡と支払いの面倒さえ我慢したら鹿児島県立図書館の方が早いかも。

今拙ブログでやっている島津義久天正18年日記でも、道正庵宗固は時々登場していました。当方、知らなかったので上田宗箇と勘違いしてました(滝汗)。ありがとうございます。

道正庵自体は明治の初頭に寺勢が衰微して(ご子孫の回想録がネットにありました)、現在は廃絶したのか地図に見あたらないですね。残念。

不覚でしたね
桐野
ばんないさん

国会図書館のIDカード、私も先月、ギリギリで更新に行きました。
鹿児島県立図書館も郵便振替にしてくれたらいいんですけどね。下手すれば、コピー代50円に現金書留代500円というばからしさですから。
いつぞや、郵便振替にしてくれと要望したんですけど、ダメでした。
今後のこともあるので、やはり国会のIDカード作り直したほうがいいかもしれませんね。


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今年になって、表題の本が刊行されました。
うっかり気づかなかったので、あわてて購入しました。
万を超える値段かと思っていましたが、そこまではいきませんでした。

この大日本古文書シリーズは大日本史料と並ぶ、東大史料編纂所の重要な仕事です。
同シリーズの家わけ16である島津家文書はその三が刊行されたのがだいぶ前(調べてみたら1966年でした)でしたから、もう打ち止めだと思っていたのですが、何と、45年ぶりの続編刊行です。現在進行形だったのですね。

収録文書は1547号から1827号までの281点。
江戸期の島津家久・光久のものもありますが、大部分が天正・文禄・慶長期のものです。
おそらく『旧記雑録』と重複していると思いますが、それでも原文書からの翻刻ですから貴重です。『旧記雑録』の写しミスなどがないか、対校作業もするべきかもしれませんね。
何といっても、国宝ですからねえ。

先行の一~三が活版印刷だったのとくらべると、味わいが少し異なりますが、傍注は大きく鮮明で見やすいです。巻末に収録してある差出人の花押・印判一覧(一部カラー)もうれしいです。
今後の研究に役立てたいものです。

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【2011/12/04 22:43】 | 戦国島津
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ばんない
ご無沙汰しております

史料編纂所はデータベースでの公開に重きを置いて、もう本では出さないんだろうと思い込んでました(爆)。
しかしこれだけスパンが空いたら、早く続刊が出ないかと願いつつ、あの世に召された方も多いような。

歳月
桐野
ばんないさん

たしかに45年というのは長いですよね。
なぜそんなに長く止まっていたのでしょうかね。人手不足でしょうか。
島津家文書も国宝指定され、編纂所が所蔵しているだけに、今後はコンスタントに刊行してもらえたらと思います。
旧記雑録がカバーしてはいるのですが、やはり写しですからね。

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本日は新暦で、島津義久(1533~1611)の命日(旧暦換算だと3月5日)。
しかも400年忌です。

義久は慶長16年(1611)1月21日、国分(現・霧島市国分)の居館(舞鶴城)で息を引き取りました。
臨終の刻限は「申刻」(午後4時頃)と「加治木御日記」(島津義弘側近の日記)にあります。享年79。当時としては相当の長命でした。
義久は戦国島津氏最盛期の当主です。天正14年(1586)には九州のほぼ全域を占領するまでになりましたが、豊臣秀吉の襲来により、頓挫のやむなきに至りました。

その後、豊臣政権からの圧力や干渉、自身の後継者不在という苦悩が、義久を屈折させました。
とくに後継者問題は義久を最後まで悩ませ、嫡女亀寿の行く末を案じながらの最期だったのではないでしょうか。
このあたりの事情について興味のある方は、拙著『島津義久』(PHP文庫)や『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)をご覧下さい。

この年、義久は元旦に連歌と思われる発句を詠んでいます。

朝戸あけの袂か
梅のうすかほり


まだ重篤ではなかったようですが、上記日記によれば、義久に「虫気」の症状がたびたびあらわれたことが書かれています。虫気は腹痛など腹部の病気の総称ですが、胃ガンだったのかもしれませんね。

臨終の床には、弟の義弘や甥で養子の家久も駆けつけています。
なお、上記日記では、義久の他界は正月二十日条に書かれています。

義久の辞世は、

世間のよね(米)と水とをのミつくし つくしてのちは天津大そら

なお、殉死者が15人もいました。
最年少は市来清左衛門の26歳、最年長は新原藤左衛門の69歳。

義久の死は、薩摩と島津氏の戦国が最終的に終焉した出来事で、これを機に島津氏は近世の新時代に入ったといっても過言ではありません。

しかし、義久の400年忌といっても、鹿児島ではほとんど話題にならないでしょうな。
国分では慰霊祭があるんでしょうかね?


余談ながら、本日は新暦ですが、薩長同盟が締結された日(諸説あり)でもありますね。
慶応2年(1866)のことですから、145年前のことです。

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【2011/01/21 14:49】 | 戦国島津
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まさに戦国大名
市川
戦国乱世を生き抜き、とにもかくにも島津氏の土台を支え続けた島津義久公に改めて敬意を表します。
義久や義弘など、島津氏の当主は長命な人が多いですね。お家を守り通す秘訣なのかもしれません。



長命
桐野
市川さん

仰せのとおり、長生きがお家存続の秘訣という面はありますね。

江戸時代初期、多くの大名が改易されていますが、ほとんど無嗣子で、藩主が短命のケースが多いですね。

もっとも、島津家の場合、亡くなる順番が義弘が先だったら、その後の島津家はどのように変わったかという議論もありますね。


管理人のみ閲覧できます
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低評価
ばんない
こんばんは。

>義久の400年忌といっても、鹿児島ではほとんど話題にならないでしょうな。
web版南日本新聞の1/21記事を見ましたが、全く話題になってませんでした(涙)
地元の人しか確認できない地方版には、何か載っているのかも知れませんが…

テレビ神奈川他独立UHF系局で放送されている『戦国鍋TV』という番組の「活躍の割に知名度の低い武将」のコーナーでもついに取り上げられてしまったし、この低評価は当分続きそうですね(号泣)

400年忌
桐野
ばんないさん

私は一日遅れで、南日本新聞を読んでいるのですが、まったく記事はありませんでした。

それで、拙連載で少し書くことにしました。
島津最盛期の当主の400年忌がまったく知られないままで過ぎ去るのは口惜しいですからね。



ばんない
こんばんは。
地元紙でも全く無視の扱いでしたか…悲しいですね。

>拙連載
2月23日前後の「さつま人国記」にこう御期待下さい!
…ということでしょうか?(汗)
義久公も草葉の陰でお喜びになるのでは無かろうかと思います。

ところで揚げ足を取るようで非常に心苦しいのですが、慶長16年1月21日は西暦換算すると1611年3月5日になりませんか?



3月5日
桐野
ばんないさん

新暦と旧暦の換算、ご指摘を受けて調べてみたら、やっぱり3月5日でした(汗)。
エントリーのほうも訂正しておきました。

義久命日は新暦では過ぎてしまいましたが、旧暦ではまだ1カ月以上ありますので、早めに告知したいと思います。

危うく間違った日にちを書くところでした。
ご指摘感謝です。

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ローカルな話題ですが、戦国島津氏のなかで、私が興味ある人物の上位にランクされる人物。

平田増宗(1566~1610)は島津義久の信頼する家老(老中)でした。

島津家久の家督継承に反対する中心人物で、義久の外孫(二女新城の子)の忠仍(ただなお)を擁立しようとしていました。そのため、家久にとっては目の上のコブともいうべき人物です。

400年前の今日(旧暦)、増宗は入来峠近くの土瀬戸越で、家久の密命を受けた押川強兵衛と桐野九郎右衛門によって、鉄砲で至近距離から狙撃されました。
増宗は腰の刀を半分抜きかけたままで絶命したそうです(『薩藩旧伝集』)。
至近距離なら火縄の匂いがしなかったのかという疑問もありますが、風下から狙ったのでしょうか?

後記:私が月日の勘違いをしていました。増宗が暗殺されたのは旧暦6月19日でした。1カ月早まってしまいました。削除するのも何なので、注記したうえでそのままにしておきます。

かつて、ここここで書いたことがあります。
また、最新刊の拙著『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)でも、押川強兵衛の節でこの事件に少し詳しく触れています。
関心のある方はご覧下さい。

なお、下の写真は現在の入来峠の最頂部ですが、写真奧に下ったあたりが暗殺現場となった土瀬戸越です。

土瀬戸越え


平田増宗暗殺は、島津氏が戦国大名から近世大名へと転換するきっかけとなった大きな事件ではないかと思っています。
増宗暗殺の密命は家久だとされていますが、私は義弘も噛んでいると思っています。何より押川強兵衛は義弘の家来ですから。
この事件からわずか半年ほどで義久が他界します。義久は信頼する増宗の死に大きな衝撃を受け、失意のうちに亡くなったのではないかと思います。
義弘・家久父子の事実上のクーデタであり、私は島津氏の系譜がここで切り替わったのではないかと考えているところです。
つまり、日新斎が新たに立てた本宗家は貴久-義久の2代で途絶し、新たに義弘の後見の下、家久の近世島津氏に再編成されたのではないかと。となると、義弘はこの新しい本宗家の中興の祖という位置づけ(旧本宗家の日新斎に相当)もありなんじゃないかと考えられないか。ともあれ、そう考えたほうが鹿児島での過剰なまでの義弘顕彰も合点がいきます。

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【2010/05/19 20:47】 | 戦国島津
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『関ヶ原 島津退き口』
森重和雄
『関ヶ原 島津退き口』(学研新書)購入したしました。
読むのが楽しみです。

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