歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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朝の連続TV小説「あさが来た」で注目を浴びた五代友厚。
その若かりし頃、長崎の豪商小曽根家に7500両もの大金を貸し付けていた証文を見つけました。
そして昨1月30日、朝日新聞夕刊社会面に大きく取り上げてくれました。

ここをクリックしたら記事がご覧になれます。

ふつう、商人が武士にお金を貸すケースが圧倒的ですが、これは逆で、五代が小曽根家に貸しています。
五代は薩摩藩の下級武士。そんな大金をどうして融通できたのか、その推理もしています。
小曽根家は坂本龍馬・お龍夫妻の面倒を見たり、亀山社中のメンバーへ援助もしています。
小曽根家が当時、長崎奉行所に土地や土蔵を取り上げられたことにより、多額の投資を回収できずに苦しんでいました。
それを見た五代が低利で大金を融資したわけです。

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【2016/01/31 10:13】 | 幕末維新
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歴史セミナーの案内です。

歴史雑誌『歴史人』主催の歴史人セミナー「明治維新をリードした薩摩藩の真実」と題して講師をつとめます。12月13日13:00より、KKベストセラーズが会場です。幕末薩摩藩や同藩士の「通説」打破が狙いです。
詳しくは、同誌サイトのここをご覧下さい。

講座の中身ですが、主に幕末薩摩藩の人物に焦点を当てる予定です。
小松帯刀の大政奉還前後の動き、西郷吉之助や大久保一蔵は倒幕派なのか。
この3人以外で国事周旋に関わった人物(高崎正風や同五六、吉井幸輔、伊地知正治など)。
坂本龍馬や相楽総三との関係についても。
できればパワポでのスライド上映もしたいです(現段階では未定)。
関心のある方、参加してみませんか。

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【2014/11/11 18:04】 | 幕末維新
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龍馬の草稿発見というNHKのニュース。ここです。

あくまでニュースで公表されているかぎりでのコメントであることをお断りしておきます。
第一印象を率直に述べれば、草稿の内容にそれほどの新味は感じられない。

もう少し全文が見える形で紹介してくれたらいいけど、文中に中根雪江や村田巳三郎の名前も見えるから、福井藩側の中根雪江『丁卯日記』や本多修理『越前藩幕末維新公用日記』にある龍馬来福の記述と矛盾しないように思える。
両記によれば、龍馬(と岡本健三郎)が福井にやってきたのは慶応3年(1867)10月28日。山内容堂の書簡を持参してきたけど、8月25日付で内容がもう古くて緊急の用件でもないと、中根が春嶽に進言している。そしてその日夜、龍馬と応対したのは春嶽の側近、村田巳三郎。両記を読む限り、龍馬が春嶽とじかに会見しているとは思えない。緊急性、重要性がないという春嶽周辺の判断から。
龍馬が三岡八郎と会ったのは2日後の30日。三岡は朝、龍馬の旅館にやってきて7つ過ぎ(午後4時過ぎ)に辞去しているから、7、8時間は熟談した由。

三岡を新政府の財政担当者にと一次史料ではっきり書かれていたのは初めてかもしれないが、このときの会談の内容が三岡の回顧談か何かに書かれていなかったか? また龍馬が大政奉還直前の10月10日、後藤象二郎宛て書簡で江戸の銀座を京師に移すべしと強調して、幕府から新政府移行後の財政を考えていたのは間違いないから、その具体策として、知友の三岡の名前が挙がるのは十分考えられる。三岡との会見も龍馬が希望したものだろう。当時、三岡は春嶽の不興を買い謹慎中だったはず。だから、監視役が付いてきたのを「悪者」云々と言っているのだろう。

余談だが、『越前藩幕末維新公用日記』によれば、龍馬が村田と会談した席上、新政府の人事案のひとつとして、徳川慶喜を関白とし、諸侯のふさわしい人物を両役(議奏・武家伝奏)として慶喜を補佐させるという構想を述べている。暗に土佐藩は春嶽を両役の一人に推挙したいというわけだろう。
もっとも、これは龍馬の本音と思えず、慶喜に同情的な春嶽の意向を察して、福井藩を後藤ら土佐藩の藩論に接近させようという意図だろう。
春嶽は大政奉還には賛成でも、後藤ら藩士が構想する議事院設立には反対だった。要は新政府は慶喜を含めた有力諸侯で構成すべきで、後藤ら藩士の出る幕ではないと考えていた。そうした春嶽をいただく福井藩を何とか土佐藩の支持者にしたかったのが後藤ら在京土佐藩重役たち。龍馬はその意向を受けて福井に行ったはず。その名分が容堂の古い書簡だったと思われ、むしろ本題は新政府の財政よりもそっちじゃなかったか?

なお、龍馬に最初に応対した村田巳三郎とはおそらく文久年間からの知り合い。
余談ながら、私も村田宛ての龍馬の新出書簡を数年前紹介したことがある。龍馬の応対役に村田が出てきたのは自然だと思う。

龍馬草稿の内容から脱線してしまいました。悪しからず。

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【2014/04/07 21:45】 | 幕末維新
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南日本新聞の昨8月16日の記事。

奄美の龍郷町にある「西郷松」が枯れてしまったとのこと。記事はここです。無残な姿ですね。

龍郷町は奄美大島の北端にあります。
安政6年(1859)、僧月照と入水して蘇生した西郷は奄美に流されます(もっとも、これは流罪ではなく、幕府の追及を逃れるため、西郷が死んだことにしての潜伏だとされます)。
それが龍郷村(当時)でした。

3年前の2008年、調所広郷の子孫である一郎さんと一緒に奄美を訪れたとき、龍郷町の西郷流謫地にも立ち寄りました。そのとき、撮影した写真では、まだ「西郷松」は健在で、このように元気でした。枝を刈り取られた記事写真とくらべて下さい。

西郷松1

なぜ「西郷松」と呼ばれるのかというと、西郷を乗せてきた船のとも綱をこの松に結んだという伝承があります。
この松の根元に記念碑があります。
西郷松案内板


なお、このあたりは前が海で、とても風光明媚なところです。
西郷松2

西郷が棲んだという屋敷跡(復元)もあります。
流謫地

樹齢250年だったとのことですが、残念ですね。
せめて元気な頃の写真を撮影していてよかったです。

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【2011/08/17 11:09】 | 幕末維新
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昨夜、HDD内の写真データなどを整理していたとき、某所が所蔵する幕末薩摩藩関係の書簡の写真版をなにげに見ていたら、そのうちの何点かが重要な書簡であることが判明。

とくに、西郷吉之助に宛てた小松帯刀書簡である。
何と、慶応3年(1867)の薩摩藩と土佐藩のいわゆる討幕密約に関するものではないか。

いま、小学館の講座「てらこや」で中岡慎太郎の日記を読んでいるが、それと関連するものだ。
討幕密約のところはもう終わってしまったけど、来週は最終回だから紹介しよう。

興味深いのは、小松が西郷のことを「南洲先生」と書いていること。
南洲号は明治になってからだと思っていたが、遅くとも慶応末年にはすでに使っていたんだ。どこまで遡るのだろうか?

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【2011/04/10 23:05】 | 幕末維新
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南洲先生
NAO4@吟遊詩人
>桐野先生
こんにちは。浅学にてすいません。小松は西郷の上司のはずですが、「南洲先生」と「先生」という敬称で呼んでいたということなのでしょうか。

だとすると、小松の西郷に対する態度、気持ちが分かって面白いのですが。

甲東先生、大久保閣下
桐野
宛所に「~先生」と付けるのは、小松に限らずありますね。
これは自分の師や大御所の学者でなくてもよくあることで、私たちもややジョークめいて使うこともありますね。感覚的には近いかも。

明治初年ですが、小松は大久保に対しても、「甲東先生」とか、果ては「大久保閣下」と書いている書簡もあります。


どうもありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
>桐野先生
どうもありがとうございました。身分制社会にあっても、小松と西郷・大久保の関係が分かるようで面白いです。上司と部下と言うより、同志という感じでしょうか。

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